冬の味
山の麓にある我が家の墓石の周りに積もった忌々しい雪を掻き出し、額ににじむ汗を手で拭った。
手は寒いのに、体はどうしようもなく熱いので着ているジャンパーのファスナーを少し開けると、中からムワっと蒸気が出てきた。
手の寒さを和らげるために、冬の冷えた空気を口いっぱいに吸い込み、ゴクリと唾と共に飲み込む。
その時、鼻へ行ってしまった空気が薄めたカルピスのような風味を感覚神経に伝えた。
吸い込んだ分をほうと大きく吐き出す。
そして、手を口の前へ運び、吐息の暖かさを利用して暖をとった。
「帰るか」
家へ最短で帰るにはあぜ道を通る必要がある。
あぜ道にこんもりと積もった雪に足をとられながらも、深い足跡をどんどん作っていく。
本来、こんな道を通るべきではない。
もしかすると、目の前の雪が、足で踏んだだけで全身を飲み込んでしまうくらい柔いかもしれない。
この雪の下に人一人分の大きな空間ができているかもしれない。
そんなところに足を踏み入れたら最後、外へ出ることは許されず、極寒の冬国の雪中で永久の眠りにつくことになる。
──それでは、なぜ自分がこんな危険極まりない道を進んでいるのか。
それは……確かめるためだ。
無事、何事もなく家に着き、玄関の戸を開けた。
少し隙間が空いていたせいで、戸が風を受けラガラとうるさい。
なので、ぴしゃりと閉めた。
戸の音がなくなるや、家の中は静かだった、
「母さん?」
返事はない。
「父さん?」
返事はない。
「分かった!また隣の婆さんの家に雪掻きしにいってるな?
あの人も年なんだろうけどさぁ……少しは自分でやれよなぁ」
隣の婆さんは隣の養豚場のオーナーで一人暮らしをしている。
今までは婆さんが足腰が弱いこともあり、代わりに旦那さんが雪掻きや雑草の草むしりなどをしていたらしいが、去年に旦那さんが亡くなったらしい。
初めは自分も助け合いだと思って、両親がその手伝いをしているのを良いことだと思っていた。
しかし、あの婆さんの態度がいかんせん気にくわなかった。
さも当たり前のような顔で茶を啜る婆さん。
──あそこの雪をお願い。全然雪が残ってるからもう一回お願い。
ついでにあそこもお願い。
あまりこんな事を言うべきではないが、婆さんが自分たちに頼んできたから、自分たちはやってあげているのだ。
まるで召使いのように両親を扱う婆さんが自分はひどく嫌っていた。
「さて、飯でも作るか」
今日は肉じゃがだ。
使う肉の臭みが鼻にくるので、臭みとりを入念にやった。
醤油や砂糖で作っただし汁を沸騰させている間、野菜を切る。
だし汁が沸騰しきったら、野菜を入れていく。
面倒くさくなったので順番を考えずにすべての具材を鍋に詰め込んだ。
鍋を弱火にかけ、待つ。
料理は自分には向いていないのだと改めて思うのと同時に、母の偉大さが身に染みた。
「母さんたちも食べてくれるかな……」
出来立ての──美味しくない──肉じゃがを二人分皿によそい、隣の養豚場に持っていく。
ブヒブヒと小うるさい子豚を足蹴にして、親豚の目の前に出来た肉じゃがを置いた。
食べようとしないので、明日になったら皿を取りに戻ってそれまではここに置いていき、様子を見てみることにする。
「はーやっぱりダメか」
不意に、婆さんの家から叫び声が聞こえた。
……またか。
最近、婆さんの家から叫び声が聞こえてくる。
しょうがない。今日も行くとしよう。
いつも通り、一輪車にありったけの雪を乗せる。
押そうとすると、雪のずしりとした重量感を強く感じた。
構わず前に押し出し、婆さんの家に向かう。
婆さんの家の前に降り積もった雪を一輪車で踏み潰しながら進むと、婆さんの叫び声がピタリと止んだ。
何がしたいんだよあの婆さんは。
「婆さん~!隣の息子です~。今日も来ましたよ~」
大声で来た事を知らせた。
壊れた玄関から一輪車を強引に押し入れ、土足で上がる。
今更、土足をとやかくは言わないだろう。
「婆さん。上着は着させてあげてるんだから少しは我慢してよ」
居間の扉を開けると暖かそうなモフモフのコートを着た婆さんがブルブルと震えながら座っていた。
ちょう座体前屈の恰好で座る婆さんの足に積もっていたはずの雪が溶けて、居間の畳がそこを中心に色が変わっている。
シャベルで一輪車に乗った雪を多めに掬う。
「もう……もうやめておくれ……ごめんよぉ」
婆さんが赦しを乞うように手を重ね、同情を誘う顔でそう言ってきた。
「なにがごめんなの?婆さんは何も悪くないでしょ」
掬った雪を婆さんの足の上にどさりと盛り付ける。
念のため、もう一回しておこう。
「もう……足の感覚がないんじゃ……ご両親のことは儂も反省してる……だから」
「だから、何回も言ってるでしょ?あれは仕方のないことだって」
また足に雪を乗せると婆さんは低く唸った。
ずっと雪に触れていると冷たさが徐々に痛みに変わるのは常識だ。
きっと今の婆さんは痙攣を起こすだけで、足に言い難い激痛が走っているのだろう。
では、それがもし、全身だったら?
身動きも出来ず、痛みを紛らわすための声も白い防音壁に阻まれ、次から次に自分の上に積もる雪が更に圧力を加える。
死へのカウントダウンが時が経つにつれ、加速度的に増えていくのだ。
考えただけでもゾッとする。
俺は使い終えたシャベルを一輪車の上に乗せた。
「まあ……まだまだ冬は長いんだから……ゆっくり味わってよ」
一輪車を押し、外に出る。
外ではしんしんと白い妖精と悪魔が踊っていた。
凍てついた風を吸い込み、少し咀嚼する。
これだ。この味だ。
忌々しい。
「冬の味」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
主人公だけが悪いお話……でしょうか。
冬は綺麗で幻想的な雰囲気を帯びているのに、生き物の命を軽くあしらいます。
春になれば、それらの清算を行うが如く、大量の命が芽吹きます。
心が壊れてしまった少年に春は来るのでしょうか。