第百三十四話 人間の境界
時は王国暦502年、2月19日。
全ての情報を取得し終わったクレインは、大きく時を巻き戻した。
大幅な回帰は最初から決まり切っていたが、この日付を選んだ理由はある。
ではこの日、アースガルド家では何が起きていたか。
「総員、敬礼!」
クレインの傍らに並ぶハンスが号令を掛けると、屋敷の前に居並んだ家臣の全員が、やってきた車列に向けて敬礼をした。
迎え入れられたのは、ヨトゥン伯爵家から送り出された馬車と随行員だ。
東伯軍を無事に退けた後、戦後処理が一段落したことを受け、輿入れの先遣隊として家臣の一団が派遣されてきた。
「さて、確か展開としては……」
その中にアストリがいると思い、クレインは勇み足で歓迎に出た。しかし真っ先に馬車から降りてきたのは、アレス救出作戦の指揮を依頼していたビクトールだ。
彼らは王都の近郊から流れる河川を利用して、船による脱出を図った。
終着点のヨトゥン伯爵領から、アースガルド領までの間には、他の領地がない。
両家は縁談を進めており、共同戦線の準備も始まっていた。
いろいろと都合が合うため、ビクトールは行きがけの駄賃とばかりに、ラグナ侯爵家を含めた同盟の段取りまで整えてきたのだ。
そんな話を、事後承諾で報された日が今日だった。
「なんだか懐かしいな」
驚きの連続であったため、大体の流れは覚えていた。だがクレインは演技が得意ではない。
練習すれば誰よりも上手くなるだろうが、その労力が必要とも思えなかった。
だからわざとらしい反応はせず、軽い足取りで歩み寄ってきたビクトールに対して、無難な挨拶をするところから始める。
「お久しぶりです、先生」
「おや? 南から帰るとは伝えていなかったのに、あまり驚かないね」
「予想はできましたから」
ビクトールからすると、クレインの反応にも表情にも違和感がある。しかし今は激戦の直後なので、親しい人間が戦死していても不思議ではなかった。
「そうか、それは残念。……それなら客人についても、君の想像通りかな」
深くは聞くまいと、すぐに主役の座を後続に譲る。
視線の先を見では、ちょうど馬車から降りてきたアレスが、目深に被ったフードを外したところだった。
「出迎え、大儀である」
「第一王子殿下……で、ございますか?」
「いかにも」
王族が地方の領地を訪れるなど、滅多にあることではない。ノルベルトの言葉を聞いた家臣たちは、誰もが右に倣えで平伏する。
しかしクレインは平静だった。
一度出迎えたことがあるために、全てを知っていたからだ。
「久しぶりだな、クレ――」
対照的に、アレスは目を疑った。
目の前にいるクレインの雰囲気が、記憶の中のそれと全く異なっていたからだ。
彼は声のかけ方を迷った末に、ごく手短に囁いた。
「まずは、中で話すとしよう」
「分かった。応接室の用意はしてあるから、付いてきてくれ」
伯爵家からの使者を別室に通すよう指示を出すと、クレインはアレスを伴って応接室に向かった。
部屋のドアを閉めて、人払いをしてからすぐに、開口一番でアレスは問う。
「貴様……何度目だ?」
「アレスを迎え入れるのは、二度目だよ。出会い頭でやり直したから、厳密に言えば三度目になるかな」
もちろん期待していた答えではない。
だから彼は、言葉を変えて繰り返す。
「質問を変えよう。私を出迎えて以降、何度命を落とした?」
アレスは真剣な顔だが、しかし誰に何回殺されたかなど、最早クレインの中で重要ではない。
回数によって憎悪の値が変動する段階は、とうの昔に通り過ぎていた。
「数えてはいるけど、それはもう、ただの数字だ。今さら気にすることじゃないさ」
それが本心だと察したアレスは、しかめっ面をしながら更に問う。
「戦争によるものではあるまい。主な死因は何だ」
「半分以上は、情報取りのための服毒だよ。その他で一番多かったのは、刺殺か」
「……もういい。そこに至るまでの経緯を、詳しく話せ」
まるで尋問だと薄く苦笑しながら、クレインは復讐に至るまでの経緯を、事細かに話した。
敵軍が山脈を越えて奇襲に来たこと。調略を受けた裏切り者や、市井に潜んでいた敵の間者たちから、組織的な攻撃を受けたこと。
自分を生かすために、腹心の部下が捨て石となったこと。
自分を逃がすために、妻が自害に至ったこと。
その後の調査から、殺されるための巡察を始めたことまでだ。
相槌も打たずに全てを聞いたアレスは、沈黙し、数十秒を空けて再度尋ねる。
「数ある中から、その調査方法を選んだ理由は」
「領民を全員調べれば、終わることだったからさ」
変動が激しいため、正確な数はもうクレインでも把握できていない。
一時的に流入している出稼ぎ労働者も含めて、6万人ほどだろうか――という、ざっくりとした推測を立てるに留まっていた。
しかし地方であれば、一人暮らしをしている人間の方が稀だ。
大方は祖父母から子世代までの、3世帯で住んでいる。
だから戸別に宿泊作戦を行えば、一度で平均5、6人は確認できる計算だった。
実際には遙かに少ない試行回数で済んだが、初期の目算ではそれくらいだ。
「最大でも1万回で、それ以上の回帰は必要ないと踏んだ」
「……そのプランが現実的だと思ったのか?」
「耐えられると思ったから、実行したんだ」
数日生きる場合があれば、数分で死ぬ場合もある。
平均で1日の命だとしても、終わりまでの道程は文字通り、万日に及ぶだろう。
その計画を迷いなく決行に移したのだから、アレスの感想は一言だけだ。
「やり過ぎだ、馬鹿者」
「そうだな。……確かに、やり過ぎたのかもしれない」
移民はもちろんのこと、流れの行商人や出稼ぎの労働者まで、目に付いた人間の全てを疑った。
近しい人間や、長年仕えた忠臣まで疑って、粗を探し続けてきた。
発言の引っかかり一つを調べるために、平気で命を投げ捨てた。
死を物ともせずに、殺す相手を品定めし続けてきた。
横で見ている観測者がいれば、何度諫められ、引き留められただろうか。
そんな考えを浮かべながら、クレインは窓越しに冬の空を見上げた。
「なあアレス。俺は復讐のために、ここまで執念深くなれたんだ」
今後のために必要な調査ではあったが、達成のために自らの命を捨て過ぎた。
実行犯の特定は初手で済んでいるのだから、正常な人間ならば途中で諦めるか、ほどほどのところで妥協するだろう。
ここまでくれば異常者、または異端者だ。
そう自認しながら、クレインは溜め息を吐いた。
そしてアレスに視線を戻すと、在りし日よりも感情が乏しくなった顔に、悲しげな表情を浮かべて呟く。
「怒り一つで、ここまで割り切れて、徹底できてしまったんだよ」
クレインが求めていたのは、復讐相手の絶滅だ。敵対者の確実な死だけを求めていたのだから、作戦の是非や客観視など考えはしなかった。
だから複雑そうな顔をしているアレスに向けて、クレインは逆に尋ねる。
「いつか、言っていたよな? 人間性を捨てるなと」
「……ああ、そうだな」
時間遡行は万能とも呼べる、強力無比な力だ。
手に入れた当初は、生き残るための、最大の武器という認識だった。
それでも使用には痛みを伴うため、なるべく死亡回数を少なく抑えて、効率的に情報を集めるようにしてきた。
だが、今はどうか。
「痛みへの忌避感、死への恐怖、慈悲の心……その他にもたくさん、俺は人として大事な物を失ったみたいだ」
自分の命をコストと見なくなったのだから、痛みも苦しみも度外視だ。
苦痛の緩和はおろか、避けようとすらしないようになった。
「復讐という、ただ一つの目的を果たすために、非人道的な真似も繰り返した」
その中には自分が含まれる――どころか、自分の命と人権が、最も粗略に扱われている。
やり方がおかしいと言われるまで、そこに気づきもしなかった。
「見た目は何も変わらない。でも、俺はもう、人を捨てた化け物じゃないのか」
心が痛む凄惨な体験をしようとも、人にそれを強いることになろうとも、全ては自らの死と共に、誰も知り得ない過去になっていく。
海辺の砂に書いた文字が、波に浚われて消えるかのように。全ての事象は次々と――初めから存在しなかった――架空の出来事になっていく。
いつしか、それに慣れきっていた。
自分の命を失うことすらも、現実感がない、空想の他人事になっていた。
今であれば、例えば人に望まぬ殺人を強いても、罪悪感は生まれないだろうか。だとすれば、それはもうクレイン・フォン・アースガルドの形をした、別の何かだ。
現在と過去の自分を振り返り、胸に手を当てて、クレインは再度問う。
「なあアレス。俺はまだ、人間なのか?」
問いかけながら、クレインは自嘲的な笑みを浮かべた。
だが、対するアレスの返答は簡潔だった。
「無論、人間だ」
迷いなく断言した彼は、呆れた顔で続ける。
「根拠まで聞きたいか?」
「ああ。自分ではもう、そう思えなくなってきたから」
「……なるほどな。ではまず貴様が、力を濫用した原因を考えろ」
説明するまでもなく、身近な人間を殺されたことが発端だ。
要は裏切りそのものではなく、大切な人を失ったことがトリガーとなっていた。
それを指摘しつつ、アレスは続ける。
「人の死に怒り、悲しんだ結果なのだろう? ……たとえ憎悪であろうとも、突き動かしたのが人の情ならば、誰が非難しようとお前は人間だ」
もちろん限度はある。クレインの行動は自傷癖と呼べるほど、過剰なものだ。
それを念頭に置いた上で、アレスは一連の行動への不満を述べた。
「それよりも、貴様が気に病むべき点は他にある」
「……他に?」
「考えなしの行動をする前に、相談しなかったことだ」
応接室のソファーから立ち上がったアレスは、大仰な手振りで言う。
「実体験は何よりも確実だろうが、行動に無駄が多い」
それはクレインが予想していなかった回答だった。
叱られる、呆れられるくらいならば想定の範囲内で、失望すらも覚悟していた。
だがアレスから発された言葉は、拙速な力業という――手法を咎めるものだ。
「断言しよう。今回の暴挙はただ徒に、心を摩耗させただけの愚策であると」
「ええ、と……」
クレインは再開の地点を今日と定めてから、何度も展開をシミュレートした。
何を話すべきかも、十全に考えた。
殺されるのを待つ間に、数百の会話パターンを想定したが――全く予想していなかった回答を受けて、戸惑っていた。
「貴様は手勢の動かし方もなっていない。私ならば更に効率的に、より確実に追い詰める案を出せたはずだ」
「まあ、そうかもしれないけど」
思考が正常ならば、アレスは極めて有能な部類だ。復調してからの謀略を見てきたクレインも、一応は納得の素振りを見せた。
しかしアレスは、話の結論を出す以前の問題だとして、一旦、問答の流れを断ち切る。
「今の貴様は精神が死んでいるからな。まずは地道な説教ではなく、貴様から習得した手法を使わせてもらう」
「俺が教えた方法?」
クレインは話の意図が分からず、唖然とするばかりだ。
そんな彼の前に立ったアレスは、固く拳を握り、すぐさま行動に移した。
「ああ。これが気を病んだ人間との、対話方法だ」
「なっ――」
立場だけが逆になっただけであり、それはいつか見た光景の焼き増しだ。
アレスはクレインの顔面めがけて、迷いなく、真っ直ぐに拳を振り抜いた。
 




