エピローグ 開戦の狼煙
子爵家の当主を面と向かって罵倒するのだから、相当な怒りようである。
突然の激怒に、クレインは戸惑うばかりだった。
「な、あの、どうしてお怒りに? 農具の件でしょうか?」
「農具? 何の話かッ!」
「……ではグレアムを。ご迷惑をお掛けした人間を、召し抱えたことですか?」
ヨトゥン伯爵家から怒られる可能性がある事柄を、クレインは順番に思い浮かべる。
その筆頭は未来で見た設計図を基にして作った新型農具だが、使者は存在すら知らなかった。
そして念のために確認したが、グレアムの件も違う。
「グレアム……? ああ、白狼とか名乗っていた山賊だったか。その件については話が付いている! そちらの勝手にするといい!」
「それならどうして……」
外交の結果はクレインも確認したが、エメットは卒なく交渉を成功させた。
やや伯爵家側の借り、という曖昧なラインで話をまとめている。
最悪の場合はグレアムが間者で、農具の設計図を盗み出したのだろう。という話が出てくることまで想定したが、どちらも怒りの原因ではなかった。
心当たりを外してクレインが戸惑っていると、苛ついた様子の使者は更に声を張り上げる。
「言わねば分からぬか! 我々が何も知らないとでも思っているのか!」
「そうですね、き、聞いてみないことには」
押されがちなクレインは控えめに聞いたが、それすら火に油だ。
顔面を紅潮させた使者は、怒涛のようにぶちまけた。
「例えば子爵が加虐性愛者だとか、メイドたちを侍らせて毎晩遊んでいるだとか! そういった風聞も当家は把握している!」
「え? か、かぎゃく? 何のことですか!」
クレインにそんな性癖はもちろん無い。マリーにすらまだ手を出していないのに、他のメイドと遊んでいるわけもない。
しかし使者は聞く耳を持たず、一気に捲し立てる。
「シラを切っても無駄だ! そんな家に、アストリ様を渡せるかッ!!」
「あの、盛大な誤解があると思います。まずは落ち着い――」
「だまらっしゃい!」
冷静な思考ができていないクレインだが、何せ今回の懐刀は勢いが凄い。
彼は怒りに任せて、怒鳴り声を上げた。
「聞けば子爵は、色欲の権化と呼ばれているそうではないか!」
「はぁ!?」
「片っ端から領民に手を出し、夜な夜な乱痴気騒ぎだと聞き及んでいるぞ! 幾多の女を孕ませ、手切れ金を渡して捨てているともな!」
どこから出た噂だと心外さを覚える以前に、何故そんな話がヨトゥン伯爵家の重鎮にまで伝わっているのか。
クレインには本当に意味が分からなかった。
「しかもその放蕩ぶりで借金までする始末だと言うではないか! こんな家の何を信じればいい? 私は今回の契約ですら反対だったのだ!!」
「落ち着いてください。まず、加虐性愛者ですか? 私にそんな趣味はありません」
分からないことが多い上に、突然の言い掛かりだ。
パニックに陥りかけてはいたが、状況が理解できないなりに、クレインは弁解しようとした。
しかし興奮した様子の使者は、一切聞く耳を持たない。
「言い訳無用ッ! 雑多な噂話の中に一つでも真実があれば、他も疑って当然というものだ!」
「いえ、ですから。そんなことはしていま――」
「果たしてそうかな?」
彼は応接室の机を掌で力強く叩き、勢いのままクレインへ言い募る。
「私は先ほど屋敷の使用人からも、メイドと結婚するつもりと聞いたがな!」
「あー……いえ、それはそうですが」
まだ非公式だが、マリーとは既に婚姻関係にある。
この点については「メイドに手を出した」という部分だけを抜き取れば事実だ。
だから一瞬言葉に詰まったクレインへ、使者は更に身を乗り出して叫ぶ。
「言い淀むということは、疚しいことがあるのだな!?」
「いえ、まだ清い関係です。それに彼女からは、正妻を望まないとも言われています」
マリーはこの先クレインが貴族の女性と結婚することになれば、別に正妻でなくていいと思っている。
そしてクレインがマリーとの結婚を決断をしたのは、アストリが許可すると知っているからだ。
だが、後者の論理は使者へまともに説明できないし、したところで意味があるかは非常に怪しいところだった。
「南伯にも側室が、お二人いたはずですよね?」
「当家の主は、妻以外に手を出してはいない! 侮辱するのも大概にしていただきたいものですな!」
「私はそれ以前の問題なんですが……」
ヨトゥン伯爵とて高位貴族なので、妻は複数人いる。
それにアストリが「重婚をしても構わない」という価値観になっているのは、家でそういう教育をされてきたからだ。
だが使者は、クレインがマリー以外との関係を持っていないと言っても信じようとはしない。
醜聞を信じた上で、粗探しをしてから会談に臨んでいるのだから、元から敵対的な関係とまで言えた。
「当家のお嬢様との見合いを望むのならば、最低でも全ての関係を絶ってからにしていただきたいッ!」
「いえ、それはできません」
マリーとの関係を清算するなどと、クレインには絶対に言えない。
業を煮やした使者は、口先だけでも約束できないのかと吐き捨てながら席を立った。
「できなければ話はここまでだ! 私は帰らせてもらう!」
交渉に来た使者の態度ではないが、クレインは彼の性格を多少なり知っている。
普段は有能なのに、アストリが絡む時だけは性格が激変すると。
彼はアストリを実の孫のように可愛がっているのだ。東伯へ嫁ぐ可能性が浮上すれば、即座に全面戦争を提案するほど溺愛していた。
「え、ま、まだ話は終わっていませんよ!」
「いいや終わりだ! お嬢様に付きまとうならば、今回の契約も破棄させてもらおうじゃないか!」
まだ幼さの残る美少女を監禁して、加虐して楽しもうとしている相手だ。
しかも色欲の権化とまで言われているのだから、相当酷い目に遭うだろう。
そんな趣味の男へ嫁がせるとなれば、彼はもちろん命を懸けて、全力で反対する。
その流れは理解できるが、しかし何故。
どうしてこんな状況になっているのか。
「寄子たちからも報告は上がっていたが、良心を信じよと先代様が言うから私が来たというのに。まさか本当にお嬢様を狙っていたとは……!」
ヨトゥン伯爵家側の認識は、色狂いのクレインがアストリに魔の手を伸ばしてきた。というものだ。
果ては伯爵家で影響力を握り、乗っ取りを企てているというような噂まで広がっている。
しかしもちろん今回の人生でクレインは、アストリに会ったことがないどころか、話題に挙げたことすら数えるほどしかない。
それがどうしてこんな話になっているのか。
クレインがひたすら困惑していると――興奮した様子の使者は、自ら答え合わせをしにきた。
「まったく。ヘルメスが伝えてこなければ、今頃どうなっていたか!」
「は?」
独り言のような捨て台詞で、使者からすれば特に意味は無い発言だ。
しかしクレインからすれば大問題である。
慌てふためいた態度が鳴りを潜め、彼は一気に真顔になった。
「ヘルメスとは、あのジャン・ヘルメスですか?」
「そうだ、彼の使いが色々と教えてくれたよ! 子爵家の裏側までな! そして裏取りをしてみれば、言う通りの情報がいくらでも集まったではないか!」
確かにメイドと結婚するつもりでいるし、これから関係を持つことは事実だ。
しかしその他の内容は違う。
クレインが加虐性愛者であったり、不特定多数と乱痴気騒ぎをしていたりという、在りもしない風聞がどこから来たのか。
ここまできたら、それはもう考えるまでもない。
「ふ、ふふ、はははは」
「な、何だ、いきなり笑い出して」
幸せになるため欲張っていこうと決意し、マリーと婚約したのは自分の判断だ。
この事態を招いた原因の半分は、クレインにある。
しかしもう半分の責任は誰にあるのか。
クレインは全ての事情を察すると共に――在りし日の怒りが蘇った。
「あのクソジジイの仕業かぁッッ!!」
「うおっ!?」
クレインは怒髪天を衝く勢いで、テーブルを叩き返した。
元凶がそうであるなら、意図的に悪評を吹き込まれていると分かったからだ。
「ああ、そうか、全部分かった」
邪魔な勢力に対しては、悪評をバラ撒いて妨害する。
これはラグナ侯爵家がされていたことと同じだ。
縁談が成立すれば、東側にとっては中央への入り口が強固に塞がれることとなる。
だからこそ、縁談を妨害するための離間工作が為された。
アースガルド子爵家とヨトゥン伯爵家が経済政策で親密なところを見て、万が一にもこれ以上深い関係にならないように手が打たれていた。そういうことだ。
「いいさ、上等だ。時期はもう少し先だと思っていたが……そっちがその気なら今すぐにやってやるよ」
状況把握は一瞬で終わった。
何がどうして婚約が提案されなかったのかにも、即座に予想がついた。
必ずもう一度結ばれると誓ったアストリとの間には、悪魔のような老人が立ち塞がっている。
「ヘルメス商会という組織が、この王国から消えるまでやろう」
そしてその老人は、元々敵だ。
潰す時期が早いか遅いかの違いでしかない。
「徹底的に、完膚なきまでに。塵一つ残さない大掃除だ」
「し、子爵?」
「目標は東伯との戦い……いや、半年だ。半年以内に叩き潰す」
領地を発展させるついでに仕込んだ罠は、順調に作動している。
ジャン・ヘルメスを破滅させるための用意そのものは、既に終わっているのだ。
クレインの中では東伯戦の直前か、もしくは同盟が本決定してから追い込むつもりで予定を組んでいた。
東伯と戦うことになれば完全な敵対関係となるので、その辺りで計画を始めようという段取りだ。
しかし状況が変わったのだから、彼も計画の前倒しに躊躇いは無い。
「……火のない所に、随分と煙を立ててくれたようだが」
過去には目の前の使者がこの言葉を言ったのだったか。
そんな感想を持ちながら、クレインはゆったりと動く。
彼は上着の内ポケットから薬入れを取り出すと、いつものように毒薬を口に放り込んだ。
「それが戦いの始まりを告げる狼煙ってことで――」
目の前にある熱々の紅茶を一気に飲み干し、薬を胃へ放り込んでから。
彼は固く、重苦しい声で宣言する。
「ここから先は、全面戦争だ」
毒による自害ではあるが、今回の死因は憤死に該当するかもしれない。
頭の血管が切れそうになるほどの、燃え盛るような、熱き怒りを胸に秘め。
立ち塞がる障害など木端微塵に粉砕してやると、断固たる決意を持ち。
彼は再び、怨敵を叩き潰すべく立ち上がった。
全面戦争、開幕
閑話を2つ挟み、第十章「怨敵抹殺編」が始まります。




