第五十三話 グレアムの誤算
盗賊の砦に乗り込んだ時点で既に、ハンスは及び腰だった。
しかも何故か頭目と一騎打ちをすることになり、彼の膝は笑っている。
「あわわわわわ……!」
「フシュゥゥウウウ」
それに対するは怒りで顔を歪め、口から怒気と共に威嚇音のような息を吐いているグレアムだ。
「おいおいおい。あのオッサン、死んだな」
「勝てるワケねぇのにな」
「誰がオッサンか! 私はまだ32歳だ!」
周囲の山賊たちは野次馬と化し、後ろの方では本当に賭けが始まっていた。
しかし賭け金の割合はグレアム10対ハンス0だ。
この場の誰もが、ハンスが負けると思っている。
「賭けにならねぇよ」
「何秒で負けるかの賭けにするか?」
「おのれら……!」
唐突に勝負の場に放り出され、笑いものにされる。こんなことになれば当然ハンスも怒りを覚えた。
しかしクレインは平素と変わらず、緩い雰囲気で取り仕切る。
「ああ、少し待ってくれ」
「なんだぁ?」
「道具を運ばせるから、勝負は二時間後に開始だ」
盗賊たちは怪訝そうな顔をしているが、娯楽の無い山奥に降って湧いた突然の余興だ。
多少待つくらいならいいかと、周りの人間は素直に頷く――グレアム以外は。
「コイツを置いて逃げる気じゃねぇだろうな」
「まさか。俺も残るよ。……マリウス、補給係のところにこの手紙を届けてくれ」
「お任せください」
護衛を使いに出し、クレインはその辺に積んであった木箱の上に腰を下ろした。
両脇にランドルフとハンスが立っているが、ハンスの方は少しふらついている。
「大丈夫か?」
「大丈夫なわけがないでしょう。何を考えてんですかクレイン様!」
「まあまあ、俺を信じてくれ」
どこかヒリついた空気が流れる中で、クレインはのんびりと座っている。
そしてこの場違いな光景を前にして、グレアムは少し冷静になってきた。
これまでの会話から察するに、ハンスという男はそれなりの要職に就いているらしい。
ならばその男を下し、実力を見せつけた上でのスカウト――鳴り物入りの編入――という形を取ろうとしているのではないだろうかと、論理的に考えた。
「そりゃあまあ、それならいくらかメンツは立つが……なあ」
どうせなら横にいたマリウスという男の方でも良かったはずだ。
そちらなら鍛えていそうだったし、体つきはしっかりしていた。
ランドルフを出されては勝てるか分からないが、ボロ負けするつもりはもちろん無い。
むしろ正面からの殴り合いで打ち破られた方がまだ納得はいったはずだ。
彼はそんな風に考えていた。
「偉いだけのザコを倒しただけじゃあ、何の足しにもなりゃしねぇってのに」
グレアムも彼の配下も、身分や形式ではなく実力を重視する。
彼らにとっては腕っぷしや、男らしさこそが正義だ。
メンツを立てるとは言っても、相手が弱すぎれば逆に男は下がる。形だけの責任者を倒したところで尊厳が保たれるわけがない。
見てくれだけを重視する貴族らしい、何ともバカげた勝負だと呆れていた。
「まあ、その茶番で命が助かるなら拾いもんか」
彼は意地を張らずに頭を下げて、素直に軍門へ下ってもよかったのだ。
それこそ身分関係無しに、ただ名目だけ整えてもらえれば話には乗っただろう。
こんな八百長のようなことをして何になる。
そう思い、彼は呑気に昼寝を始めたクレインから目を逸らした。
やりきれない思いを抱えたグレアムは――二時間後、考え違いを思い知らされることになる。
◇
「おい、なんだそりゃあ」
「ん? これは酒だよ。他にも色々あるけど」
もうそろそろ二時間というところで、荷駄隊を連れたマリウスが戻ってきた。
兵士に曳かれた荷台に乗っているのは宴会用の酒や乾物で、この場の全員に行き渡る量は事前に用意してある。
「……そうじゃねぇ。どうすんだよそんなモン」
「もちろん勝負に使う」
「は?」
意味不明な手配を見て、又しても呆けた顔をしたグレアムを尻目に。クレインは周囲に居並ぶ盗賊たちへ向けて叫ぶ。
「これからハンスとグレアムで酒の飲み比べ勝負をするが、見ているだけなのも辛いだろう? 全員分を用意してあるから、好きに飲み食いしてくれ!」
この二時間、話が決まれば一応の上司となるであろうハンスを、どの程度殴るかだけを考えていたグレアムだ。
半殺しではマズいかもしれない。二、三日寝込むくらいまでに留めようか。
それとも一週間は行動不能になるくらいにしようか。
その程度に悩んでいた。
「おいちょっと待て、どういうことだ!?」
「ん?」
しかし勝負の内容がそうと知り、怒りと焦りと混乱が入り交じった声で彼は叫ぶ。
が、クレインは当然のような顔をしていた。
「どんな勝負でも受けて立つって、言ったろ?」
「ん……ああ? 言ったか?」
運ばれてきた簡易なテーブルに、クレインは淡々と飲み比べの用意をしている。
まるで「今さら何を言っているんだ」と、呆れるような仕草までして彼は言う。
「言ったよ」
「そうだったか……?」
正確には、どんな勝負になり、どんな結果になっても文句は言わないという文言だ。
しかし自信満々に言われればグレアムも迷うし、思い返す前にクレインは畳み掛ける。
「男の勝負と言えばこれだろ」
「いや、どう考えても違うだろ」
一触即発の空気もどこへやら。片田舎の山奥では酒など貴重品なので、久々に飲めると聞いた山賊たちは荷車に群がり始めていた。
「ヒャア! 酒だ酒だ!」
「おい、これ高いやつだよな!」
積まれてきたのはトレックが選定したいい酒と、上等な乾きものだ。
彼らが平民をやっていた頃ですら、滅多に口にできなかったほどには高価な品物である。
そんな品物を前にして狂喜乱舞する山賊たちの方を指して、クレインは微笑む。
「でも皆、楽しみにしているみたいだけど」
「今の今まで、楽しみ方の方向が違ったと思うがね」
頭目が貴族の側近をぶっ飛ばす。
貴族嫌いの団員たちはそんなショーを期待していたのだ。
それが目の前に馳走が並べられていくと同時に、期待の方向が急に曲がった。
いくら何でも現金過ぎると、これにはグレアムも苦い顔をするしかない。
「まあいいや。じゃあ俺たちは俺たちで勝負するから、好きに開けてくれ」
「っしゃあ!」
「このブランデーは俺のもんだ!」
あとはご自由に。そう言われれば早いもの勝ちだ。
しかしグレアムは、ここで戦慄した。
「――あ、待てお前ら! 毒かもしれねぇだろ!」
痺れ薬を盛って一網打尽にする気か。
はたまたこの混乱に乗じて、兵士が雪崩れ込んでくるか。
グレアムと一部の子分たちは戦闘態勢に入ろうとしたが、三百名の中のほんの数名でしかない。
そして、それも杞憂だった。
「大丈夫です、毒は入っていませんでした!」
「こっちもです!」
「もう飲んでたのかよ!!」
クレインが差し出す前に、勝手に木箱を開けて、飲み始めていた者たちがいた。
既にワインをひと瓶飲み干し、平気な顔で二本目を空けようとしている。
彼らからすれば、これはただの美味い酒だ。
もちろんクレインとて毒など入れていない。
そして荷駄隊も丸腰であり、周辺に軍勢が潜んでいるわけでもない。
「どういうことだよ、これは……」
そんなやり取りをしている前で、クレインも用意された木のコップに、樽から酒精が弱めのワインを汲んで一気に飲み干した。
何のためらいもなく一杯空にしてから彼は言う。
「勧誘に成功したら、そのまま宴会をしようと思っていたんだ」
クレインが連れてきた荷駄には、確かにヨトゥン伯爵家への贈答品もある。
しかし大半は、新しく部下になった者たちを歓待するための用意だった。
ヨトゥン伯爵家へは婚約の挨拶でなく、ただのご機嫌伺いに向かっていたのだ。
この宴会の予定が無ければ、車列ができるほどの荷馬車などは連れてこない。
「うめぇ!」
「ぬるいけどな!」
「少し出世すればこんな酒、毎日でも飲めるぞ。もちろん井戸水で冷やしたやつを」
大半は一兵卒になるとしても、真面目に働けばこれくらいの贅沢ができるというのは本当の話だ。
堅苦しいパーティーや任官の式典など、彼らの好みに合わないだろう。
だから酒瓶を各自で持って行かせるか、この場で酒樽を叩き割り、コップで好きなだけ掬って飲む形式にするつもりで来ていた。
「本来なら歓迎会で出そうと思ったんだが。まあ過程がどうあれ、無駄にならなくて良かったよ」
つまり元々は、気持ちよく移籍してもらうための接待をするつもりだったのだ。
順番は前後したが、クレインからすればある意味予定通りの流れではある。
「お前、部下からよく変人って言われねぇか?」
「言われたことはないはず」
「そういうことでしたか……はは」
実のところハンスは、最近のクレインは奇行が多いと思っていた。
だが、一応今回の件にも合理的な理由というか、勝算があってのことだとは理解している。
この勝負なら命の危険は無いと、彼は乱痴気騒ぎの横で胸を撫で下ろしていた。
しかし殴り合いの決闘をするつもりでいたグレアムは、この展開へ全く納得していない。
「あのなぁ、こんな勝負で進退を決めようなんざ――」
「グレアムは酒に弱いのか? 山賊の親分が下戸だなんて、少しイメージと違うな」
しかし異論を挟ませたくないクレインは自分が下戸なことを棚に上げ、被せ気味にグレアムを煽った。
今の彼らは大盛り上がりの中心におり、当然、子分たちは成り行きを見ている。
「いや、酒に弱いなら無理にとは言わないけど」
「こん、の、クソガキが……!」
酒に強いというのは、荒くれ者の中では一つのステータスだ。
お酒に弱い山賊など恰好がつかないし、ここで勝負を拒否すれば確実に、実は酒に弱い男というレッテルが貼られる。
どんなに納得がいかずとも、売られた喧嘩から逃げたことに変わりはないからだ。
普段から豪快に飲んでいれば別だっただろうが、逃亡生活中は酒など口にしていないので否定するだけ滑稽だ。
実は下戸と陰でバカにされる未来が、グレアムにはありありと見えている。
「まあ、散々威勢のいいことを言った結果がこれでは、少し盛り上がりに欠けるけどね」
ここにいる面々は元が貧乏暮らしな上に、スルーズ商会に用意させた上等な酒を飲まされている最中だ。
味わったことの無いほどいい酒を飲み、仕官すればこれが毎日でも飲める。
であれば何の不満があろうか。
彼らはもう細かいことなど気にせず、酒の肴に余興を求めていた。
「いいじゃないすか団長!」
「そんなモヤシ、やっちゃってくださいよ!」
既に配下の大多数が、子爵家で兵士をやってもいいかという思考になっている。
こうなればノリが悪いグレアムの方が――むしろ、仕官に難色を示すグレアムの方がアウェイだ。
目まぐるしく変わる状況にもめげず、日に何度もブチ切れかけたグレアムは。
最大限の努力をして、状況を冷静に、客観的に考えてみることにした。
「むむ……」
自分たちは今やお尋ね者だ。
その罪が帳消しになる好機を、意地で棒に振ろうという方がおかしかった。
嗜好品を鼻先にぶら下げられた今となっては大半が子爵領へ行きたがるだろう。
現物を持って来られてはもう欲望に抗える方が少数派で、行かないと主張する者は勝手にすればいいと別れを切り出されるだけだ。
つまりリーダーであるグレアムが責任を取り、頭を下げて隷属するのではない。
子爵の勧誘に乗り、全会一致で子爵領行きを決めたなら、メンツの潰れようがない。
状況としてはそんなところだった。
「なるほど、そういうことか……」
この流れへ誘導されたことで、着地地点は彼にも何となく見え始めていた。
しかし彼の考えに一つ誤算があるとすれば。
その着地地点に、クレインが落とし穴を掘っていたことだ。