第五話 条件追加
まだ塾にいたリドルを呼んで仔細を話したところ、彼が希望する蔵書が手に入るなら構わないと了承が得られた。
後任の問題は片付いたので、あとは王宮で話を付けるだけだ。
こうして家に帰ったクレインは、晴れやかな気分で旅の支度を整え、明けて翌日。
彼はマリーと共に、雇った馬車で王都へ向かおうとした。
「ごめんくださーい」
しかし別れの挨拶をしにビクトールの私塾を訪ねてみれば、中からは揉め事の声がしていた。
「何を考えているんだ、兄上!」
「ははは、まあ落ち着いて」
入口に立ったクレインは、教室の方から聞こえてきた怒鳴り声に首を傾げている。
しかし理由はすぐに判明した。
「そうです、いきなりここを閉めて旅に出るなどと……」
「そんな無責任なことが許されるか!」
どうやら親族が押しかけて、ビクトールを押し留めようとしているらしい。
かなり興奮しているようで、数名が大声を上げていた。
「……まあ、バレたらこうなるか」
ビクトールは各界との太いパイプを持ち、ラグナ侯爵家とも深い関係を持っている。
方々に向けて、有為の人材を次々と輩出しているのだから、閉塾の影響も小さくはないのだ。
そんな影響力を持つ男が急に去ると言えば、親族たちはもちろん混乱する。
「いや、でも先生は必要だしな」
この騒動も無理はないかと、そう考えはしたクレインだが、彼にはどうしようもないことだ。
玄関先で声を上げてから少し待ってみて、この調子では当分収まりそうもないからと、一度引こうかと思った矢先に声が掛かった。
「クレインくーん、少し待っていてくれないか」
肝心のビクトールはクレインの声に気づき、奥から呼びかけた。
そして、そのついでとばかりに聞く。
「あ、移動は馬車かーい?」
「はーい、そうですー!」
クレイン君が玄関先から答えた数秒後、この殺伐とした状況に変化が訪れる。
「兄上、何を――おっふぅ!?」
「やめっ、おぐっ!?」
「はっはっは、やはりこれが一番早いね」
不穏な言葉が聞こえた直後に、廊下の角からビクトールが姿を見せた。
先ほどまであれほど騒がしかったものが、ものの十数秒で完全鎮火だ。
「やあ、お待たせ」
「……先生、何をしたんです?」
「彼らの鳩尾にこう、ドン。と」
つまり腹部を殴打したということだ。押しかけた親族たちは全員、奥の部屋で悶絶している。
そうと知ったクレインは困惑したが、殴った本人は晴れやかな笑顔だった。
「いやあ参った。昨日のうちに仕官の話を付けようとしたら、実家にバレてしまってね」
人材獲得に向けて早速動いたはいいが、その動きが家族に捕捉されたのだ。
ビクトール本人まで隠遁を図っているとすぐに察するあたり、家族も有能なのかとクレインは思いつつ、彼は多少呆れながら尋ねた。
「問題になりませんか?」
「まあ、後々のことは必要になったら考えればいいさ」
親族たちが有能だとすれば、ビクトールの行方を追うこともできるはずだ。
領地まで殴り込みに来たらどうしようかと、クレインは少し不安になった。
しかし当のビクトールは、敷地の前で待っていた馬車に飛び乗ってから、指を一本立ててクレインに告げる。
「条件が一つ追加だね。何かあったらクレイン君に対処してもらおう」
「……分かりました。けど、任せている間に逃げないでくださいね」
「もちろんさ」
親族とて仕事はあるはずなので、遠く離れた子爵領にまでは追ってこないだろう。
しかし万が一、これでビクトールにとんずらされては敵わない。
だからクレインがジトっとした目を向けると、にこやかに笑いながらビクトールは言う。
「その時は逃げないとしても、今は逃げよう。さあ、行こうじゃないか」
「あの、そう言えば、その恰好で出るんですか?」
ビクトールはいつもの服装、書生風の着流しだ。
旅に出るような恰好ではなく、手荷物も持っていない。
「生憎と、荷造りしている途中でやって来られてね。うるさいのが復活する前に出てしまおう」
「分かりました、出してくれ」
もう親族を悶絶させてしまったので、円満に勧誘するのは無理だ。
クレインは屋敷が見えなくなるまで様子を窺っていたが、誰も追ってくる気配が無いところを見る限りでは、ビクトールはかなりの威力で拳を見舞ったらしい。
しかも半ば誘拐する形になったと、クレインは顔に手を当てて先行きの暗さを嘆いた。
だが、何はともあれ、ビクトールはとにかく楽し気だった。
「ああ、これでようやく自由の身だ。旅なんて久しぶりだけど、どこで降ろしてもらおうかな」
ビクトールの働きぶりにより、親族の評価も変動していたはずだ。
親族本人は来なくても、連れ戻すための追手がかかる可能性は高い。
さてどうするかと頭を悩ませていたクレインだが、ビクトールが途中下車の予定と聞いて顔を上げた。
「一緒には行かないんですか?」
「アースガルド領に人を呼ぶ仕事が、まだだからね」
「では、路銀を渡しておきます」
ここから先は門下生だった者たちに話をして回りつつ、旅をしながらアースガルド領に向かうという方針になった。
しかしビクトールは着の身着のままなので、クレインはいくらかの金銭を渡した。
追手の存在を気にしながら、彼らを乗せた馬車は順調に歩みを進めた。
◇
その後は半日ほど馬車を走らせて、次の街に辿り着いた彼らは、宿で一夜を明かした。
朝一番にチェックアウトした彼らは、今後の予定を確認しつつ別行動を始める。
「夏までには子爵領に向かうから、よろしく頼むよ」
「ええ、先生もお元気で」
クレイン一行の方が先に到着する予定だが、念のために紹介状を手渡してから彼らは分かれる。
ビクトールは昨日の間に押さえておいた、別の馬車に揺られて去って行った。
「さてマリー、俺たちも行こうか」
「え、ええ……」
挨拶を終えたクレインが戻ってからすぐに、彼らの馬車も発車した。
進路を南に取った彼らは予定通りに王都に出発したが、マリーはこの状況に戸惑っている。
「でもクレイン様。あのおじさん、弟子に仕官の話をするって言ってましたけど」
「ああ、うん。それが?」
「辿り着けますかね?」
クレインから渡した路銀はそれなりだが、旅をするには足りない金額だった。
途中で行倒れないかと心配したマリーだが、しかしそこはビクトールにも考えがある。
「なんでも勧誘ついでに、弟子たちの世話になりながら進むんだってさ」
「いいんですか? それ」
「許されるんだろうな。……人徳ってやつかな?」
働き口を紹介しに来ました。ところで次の家に行く宛てがないので、路銀をください。
クレインがそんな動きをしても、援助を受けられるかは非常に怪しい。
しかしビクトールは確かに、最低10名と請け負っている。自信満々に言うのだから問題は無いのだろうと、クレインは無用の心配を切り上げた。
「ま、まあ。作戦成功ってことで」
何にせよ、これで北の地で行う作戦は全て終了だ。
次なる作戦を遂行するために、クレインは一路王都に向かった。