55回目 灼熱の想い
今までクレインは、義務感から領民を守ろうとしていると思っていた。
しかし考えてみれば妙な話だと、今の彼は思う。
責務だけを理由に、数十回も殺されて、なお心が折れないものか。
どうしてこんな辛い思いをしてまで、輪廻を繰り返したのか。
「南に向かった者も、ヨトゥン伯爵が始末してくださるのでしょう?」
「ああ、領地の境目で殺すように言い含めておいた」
何をしても報われず、味方だった者に憎悪をぶつけられ、周囲は敵ばかり。
それも国が誇る大勢力ばかりだった。
どこをどう動かしても、生き残るための勝ち筋は見えてこない。最後は上手くいきそうだったが、一生暗殺者に狙われる道だ。
それでも今回の静養期間を経て、彼はまた立ち上がろうとしていた。
どれだけ忘れようとしても、記憶から消されていようとも、心のどこかでは覚えていたからだ。
「こんな呪法に頼るとは私も落ちぶれたものですが……ええ、ヘルメスの言う通り。試すだけなら損はありません」
己の家臣を、愛した人を。
故郷を、彼を慕う領民たちを。
その全てを犠牲にした者たちが、良心に何らの呵責も覚えていないこと。何一つ悪びれる様子がないこと。
その姿は、彼の中で眠る、在りし日の記憶を揺り動かした。
「さて、起動はできたようですが……。伝承通りだとすれば、下賤な血を触媒にしても、戻れるのは2、3年ほどでしょうか」
「2年あれば十分。盤石と言えよう」
今も平然と生贄を足蹴にし、平然と術を発動させようとしている場面を見て、クレインがまず覚えたのは納得感だ。
失われていた記憶が順番に蘇り、やがて彼は己の原点に辿り着いた。
「呪文が魂に定着するまでの間、おおむね半年ほどは意識の混濁があるそうですが……まあ、大した障害ではありません」
「成功するまで、ただ繰り返せば良いからな。……それが本物ならば」
やり直しを始めた当初は、あらゆる記憶が飛びがちになっていたこと。
トラウマの封印が上手くいったのも、この副作用が上手く働いた結果だ。
初期のクレインとて、己の記憶力が急激に落ちたことは疑問に思っていた。
それは術が身体と馴染んでいなかったが故のことだ。
始まりの記憶を失っていた理由の全てに、納得ができた。
自分の感情がコントロールできなくなっていた理由も、明らかになった。
しかし今の彼にとって、そんなことはどうでもいい。もう封印する必要が無いからだ。
「疑り深いお方ですね。ただの与太話を、王家の秘伝として扱うわけがありません」
「酔狂で物語を残す変人もいると聞くが、いずれにせよ、すぐに分かることだ」
東候はある程度信用を置いているが、東伯は欠片も信じていない。
度々ヒリついた空気が流れるところを見れば、まったくの一枚岩では無いと見えた。
だが、誰がどのような思惑を持っているか、彼にとってはそれすらどうでも良かった。
この記憶を取り戻したクレインが何をするか。この光景を見てから、どう行動するか。
全ては本来の歴史通りだからだ。
「しかし西候も、意外と頼りないですね」
「その点については、我が配下の不甲斐なさもございます故」
西侯と、東侯の配下にある貴族家で挟み撃ちをさせても、北侯は健在だった。
それは王家の支援があることも大きいが、そんな裏事情も今は置いておく。
今のクレインは、ヘルメスに向けた感情とは比較にならないほどの激情を胸に抱いている。
彼は気絶させた兵士から剣を奪い取ると、足が赴くままに中庭を抜けて食堂のドアを開けた。
回り道をしたのは、窓から入れば彼女までの距離が遠いからだ。
「王は都から落ち延びる姫を、アースガルド領で捕えようとしたようですな」
「ええ、それで随分足止めされたものですが、やり直すならば移動経路も変えてみ――」
「どうされました、姫様」
ヘイムダルとヘルメスは、正面から乗り込んで来たクレインを見て固まった。
二人は手を伸ばして弁解を試みようとしたが、言葉がすぐに出てこない。
「し、子爵、あの、これは」
「ほっほ。これはまた……どうしたものか」
足元で彼の家臣が死んでいるところを見られては、まともな交渉などできるはずがなかった。
だからすぐに、穏便な説得という選択肢は消える。
「こうなったのには、その、事情が。訳は後ほど話すので、い、一度落ち着いて」
「よいよいヘイムダル殿。……のうアースガルド子爵、立場は分かっておろうな?」
ヘイムダルは怪しい儀式のために人を殺した気まずさから、言い淀むしかなかった。
しかしヘルメスはすぐに平静さを取り戻し、不穏な動きをすれば始末すると脅した。
しかしその二人は今、クレインの視界に入っていない。
「……マリー」
二度目の人生で目覚めた直後、彼女が何者かに殺害される映像が頭に浮かんでいた。
街中で、兵士から無差別に虐殺される絵ではない。
それは今の光景と寸分の違いなく重なる。
初回との違いがあるとすれば、今の彼女はクレインの子どもを身籠っていた。その点だけだ。
「あら、この使用人はお手付きでしたか?」
「ひぇひぇ。それは悪いことをしたかのう。……まあ気にするな。女ならいくらでも宛がってやる。もっと上玉をな」
小首を傾げて、可愛らしく聞くアクリュース。
マリーよりもいい女を用意してやると、上機嫌で笑うヘルメス。
彼女らは人の心が分からないわけではない。力と権力で全てをねじ伏せることができたため、人の心を考える必要が無くなっていただけだ。
目の前にいる人物が今、彼女らに対してどのような気持ちを抱いているのか。
それを考えることすら、無用と思っている。
「ふむ、どうにも剣呑だな」
「……このようなやり方は好かんが、生き残りたければ考えることだ」
クレインの様子がおかしい。そこに気づいた東候は値踏みするような目を向けて、東伯は仏頂面のまま吐き捨てた。
ヘイムダルは彼らの陰に隠れたが、最初から最後まで、クレインの眼中に無い。
「贄が必要でしたら、最初から教えてくだされば良かった」
少し俯きながら、王女の方を向いたクレインはゆっくりと呟く。
「貴方が、用意してくれたと?」
「必要な人間がおりましたので。……死ぬなら、不要な者だけで良かった」
燭台の光は、当たり加減が悪い。だからアクリュース王女の位置からはクレインの顔が見えないが、その表情は無感動に見えていた。
「家臣を殺された程度では、動じませんか」
「それくらいの損得勘定はできるようですな。……まあ使い道はあるでしょう」
「そ、そうです子爵。それが利口な行いです」
ヘイムダル男爵は身の危険を感じて本能的に後ずさったが、これはまさに本能の話だ。
目の前に立つ、薄ら笑いを浮かべた女の顔。
その女に下卑た顔をして追従する者。
身勝手に殺しておいて、死者に何の関心も持たない者たち。
殺されていった者たちと、守れなかった己の不甲斐なさ。
「ああ、そうだ」
それらを前にしてクレインが抱いた感情は、あらゆる動物が生まれながらにして持つ、本能から生まれ出ずるものだった。
「この世に不要な人間から順に、死ぬべきなんだ」
クレインは兵士から奪い取った剣を抜き、迷わず王女を殺しにかかった。
しかしそれを遮るように、東伯が立ちはだかる。
「大駒を、素直にやらせると思うか」
彼は横合いから剣でクレインを突いた。
深々と突き刺さった剣が致命傷を作り、胸からは致死量の血が溢れ出す。
しかし、その程度では止まらない。
止まれるはずがなかった。
「――そこを、どけッ!」
歴戦の武人が放った一撃でも、既に痛みなど感じていないのだ。
クレインは感情が赴くままに、アクリュースの首筋へ剣を叩きつけにいった。
「相打ちも覚悟の上か。死兵だな」
東伯はクレインの胸に突き立てた剣を押し、その攻撃を空振りさせようとした。
しかし最初から死ぬつもりで仕掛けたクレインは、強引に剣を振り切る。
そして王女の首を落とすことは叶わないまでも、剣を振り抜くことには成功した。
「え? きゃあ!?」
「姫様ッ!」
直撃とはほど遠いが、首筋に剣が掠ったのだ。
殴られたことすらない王女は、床の上を転げて、呆然とした。
「血? わ、私、の……?」
「何をバカなことを!」
「医者を呼べ! すぐに止血しろ!」
深手ではない。精々が服の首回りに、赤い染みを作る程度だ。
その血が床まで流れることすらない。
しかし初回の人生では、王女まで剣は届かなかった。
「退いてもらう……だけで、良かったんだけどな。……当たったか」
剣術の研鑽に励み、2年半の修練を積んだこと。
その時間は無駄ではなかったと噛みしめながら、クレインは膝をついた。
「復讐のつもりか。こんなことをして、何の得がある!」
突然の蛮行に、ヘルメスは焦りで声を荒らげる。
しかしそれで動じる段階など、何十回も前の人生で既に通り過ぎていた。
「思い、出したからさ」
「何を言っておるか! この気狂いが!」
ヘルメスはクレインの肩を足蹴にして踏みつけたが、もう痛みは感じていない。
それは死に際ということもあるが、精神的な理由の方が大きかった。
自分を突き動かしていた原動力は、領地を失ったことに対する悲しみではない。
民が命を失ったことへの哀れみでもない。
ましてや嘆きでなど、あるはずがない。
「ふざけるなよ」
彼の身を焦がす激情。それは全ての動物が当たり前に持つ本能だ。
それは――怒りの感情だった。
頭で忘れていようと、心が覚えていたもの。
それこそが、これまでクレインを動かしてきた原動力だ。
「もう二度と、諦めるものか」
全てを思い出した彼は、決意する。
幾度の人生を生きようと、幾度となく死のうと。必ず生きて、最上の未来を掴み取ることを。
「こんな理不尽が、許されてたまるか」
平穏な未来を勝ち取るだけでは足りない。
身勝手な理由で数多の人々を不幸に陥れた悪漢どもに、必ずや報いを受けさせてやると。
「絶対に。何が、あろうと」
彼は己に、今まで犠牲にしてきた全ての者に誓う。
そして憤怒を、ただ怒りの感情を胸に灯し、この場の全員を睨みつけた。
「一人残らず。俺が、必ず――」
剣を取り落とし、力尽きる寸前に彼は叫ぶ。
断末魔とはまた違う、獣の如き咆哮だ。
目を見開き、食い殺さんばかりの視線をヘルメスに向けた。
「ひっ!」
クレインは微かに涙を浮かべているが、これは悲しみによるものではない。
怒りの涙、そして咆哮。
尋常でない様子のクレインを見て、ヘルメスはたじろいだ。
しかしそれを見た東伯は真顔のまま、クレインの頭上に剣を掲げる。
「仇討ちのために命を落とすか。……嫌いではないが、今は戦乱の時代だ。理想だけで生き残れるほど甘くはない」
「な、何を悠長な! さあ、トドメを!」
焦ったようにヘルメスが急かすと、東伯は刃を振り上げた。
しかしアクリュースを押し退けて、クレインが今いる場所は、どこか。
「な、なりません、そこで殺しては――!」
彼女は気づいたが、制止が間に合わなかった。
大上段から刃が振り下ろされて、クレインの命は尽きる。
しかし彼が死んだ場所は、初回の人生と変わらず魔法陣の上だ。
王女が垂らした少々の血など、クレインが流した致死量の血で既に塗り替えられている。
たとえ東伯に斬り捨てられて、刃が届かずとも。初回の人生で、刺し違えてでも王女を殺す決意をしなければ、何も変えられなかった。
何も行動をせず、ただ諦めて現実を受け入れていれば、クレインにこの術がかかることもなく、全ては終わっていた。
だが、王女が自分に掛けようとした術は、既にクレインへ掛かっている。
彼は使命を果たすまで、何度斃れようと蘇る。
戻るは王国暦500年4月1日。
折れた心は既に癒えている。
消えた情熱には再び火が灯った。
胸を焦がす灼熱の想いを抱き、彼は再び立ち上がる。
次回 プロローグ「物語の始まりに」