55回目 いるはずがない人間
「大変でしたなぁ。アースガルド子爵」
「いえ、歓待痛み入ります」
隠し通路を抜ければ、東伯軍を撃退するために建てた砦のすぐ傍に出た。
そこからノルベルトの案内で東へ向かい、彼らはヘイムダル男爵領に到着して。
最寄りの街に着けば、そこには男爵自らが迎えに来た。
そしてクレインたちは男爵の案内で屋敷へ招かれ、今は共に夕食を取っている。
「謀略により、子爵領が飲み込まれたとか」
「……ええ」
「相手はあの北候。子爵が生き残れただけで、よしとせねばなりませんな」
大勢の人が死んだ。
不幸中の幸いなどない。
クレインとてそうは思いつつも。
ヘイムダル男爵はアースガルド家の使用人たちへの食事や、屋敷で休憩する手筈を整えたのだ。
言葉はどうあれ、感謝は必要かと判断し。
クレインは次いで、男爵領のことを思う。
「しかしヘイムダル男爵にとっても、他人事ではないのでは」
「隣の騎士爵家が二つ、お家取り潰しになりましたからな。調子に乗った北候が攻め寄せてくるのも時間の問題ではありますか」
領地を代官に任せて、王都に居た貴族の何名かは粛清された。
東側勢力がそれを恨みに思っていれば、みすみすクレインの身柄を渡すこともないだろう。
その目論見もあって東へ向かったはいいが。
しかし、難を逃れた男爵の表情には余裕が窺える。
「私は東伯と共に、立ち向かうつもりです」
「……東伯と?」
「ええ。侯爵家が宮中で各方面に手を伸ばしていたことなど、ヴァナルガンド伯爵も先刻承知の上でしたからな。東候もそれに合わせて用意をされているとか」
野戦で雌雄を決するならば、ランドルフが率いる三万の軍であっても東側に勝ち目はある。
東伯が率いる騎馬隊は王国最強の名を恣にしているし。
東候の兵とて負けず劣らずの精鋭揃いだ。
それに今は折よく、北候が西候と争っている。
「東候が動き、北部を釘付けにして。東伯が中央方面から攻め上がるならば……いかにラグナ侯爵家といえど敗れると確信しております」
東候の領地から進軍すれば、途中で防衛拠点の城に阻まれる。
だが、中央方面から北上すれば目ぼしい拠点は無く、喉元を突くことができるだろう。
そうなれば勝ちは決まったようなものだ。
男爵の強気は、それが分かるが故の自信でもあった。
「しかし東伯が中央へ出るには。我が領を占拠した軍勢を、取り除く必要があるかと思いますが」
「ええ。ですから子爵にも、我々の側に来ていただきたいものです」
クレインが東側勢力に加われば、領地奪還の大義名分が立つ。
領民もいくらかは生き残っているだろうし。善政を敷いていたのだから、義理立てして反乱を起こす地域はあるだろう。
「私がお味方すれば、北候の軍は足元が不安な中での戦いになる、と?」
連合軍を東へ引き込むにせよ。
アースガルド領へ攻め込むにせよ。
東側にクレインがいるだけで、不利を強いることができる。
生き残りを集めて反乱を煽り。
敵の後方から来る物資を略奪するくらいの動きは可能だ。
本来のクレインでも、それくらいならできる。
「ええ、左様で。領地を取り返した暁には、東伯の後ろ盾も得られましょう」
弔い合戦の旗印になるだけで領地奪還が叶うかもしれない。
東伯、東候のバックアップがあれば、北候を抑えての復権も可能だろう。
東と組むという是非はどうあれ。
全てを失ったクレインにとっては、全ていい話だ。
「お疲れでしょうから、まあ、今日はここまでとしましょう。詳しいお話はまた明日にでも」
「お気遣い、ありがとうございます」
「なんのなんの。困ったときにはお互い様と言いますからな」
使用人たちは別館に泊っているが、子爵であるクレインには本館に寝床が用意されていた。
男爵家の使用人に続き、クレインは廊下を歩いて。
それほど豪華でもない客間のベッドへ、ドサリと寝ころんだ。
「そしてベッドへ横になった俺は、眠れず……散歩に出かける」
男爵領に来るのは初めてのはずが、見る物全てに見覚えがある。
そして、自分がこのあとにどう動いたのかも、何となく分かる。
「二時間ほど様子を見てから。動いてみよう」
クレインの記憶が飛びがちなだけで、ここに来たことは確かにある。
そう確信しつつ。
同時に、自分はここで死んだのか。とも思う。
「死因だけは思い出せないんだが」
男爵領の景色を見て、徐々に過去を思い出しつつはあるが。
胸中に不快感を抱えながらも、時間は過ぎる。
そして、部屋の時計で二時間が経った頃を見計らい。
クレインは部屋を出て、本来の自分と同じ言葉を口にしていく。
「子爵、どちらへ?」
『眠れないんだ。あんなことがあったばかりだからな』
「……それは、無理もないかと」
部屋の近くには兵士が二人立っていたが。
クレインの顔を見て、同情したかのような様子を見せた。
『少し歩いてくる。一時間以内には戻るよ』
「ええ、お気を付けて」
身体の動くまま、口の動くままに過去を再現しようとしてみれば、自然と動けた。
そして彼は、屋敷の中庭へ向かう。
芝生の横に砂利道が続き。
池の水面に映る月を眺めてから、空を見上げる。
『みんな、死んでしまったな』
結末の決まっている絵本を読み上げるかのように、クレインは過去の自分が言った言葉を繰り返し。
過去と同じように、食堂へ灯りが灯っていることに気づいた。
『だが、俺は生きて。仇を討たなきゃいけないんだ』
本来の彼は、夕食が喉を通らなかった。
当たり前だ。人の喧嘩ですら碌に見たことのない人間が、知り合いを皆殺しにされていく風景を見て。
それで平然と食事ができるはずがない。
今回のクレインは男爵からの饗応で出された料理を完食しているので。
やはりどこか、精神が変わってしまったのかと悟りつつ。
『夜食をもらおう。少し……体力を付けなきゃな』
一日ほどの逃亡劇だが、肉体の疲労も心労も溜まっている。
本来の彼は使用人の夜食でも分けてもらおうかと食堂へ向かったので、今のクレインもそれに倣い。
近づくにつれて、嫌な予感が急激に強まってきた。
足が止まりそうになるが、その予感は過去の記憶から来るものであり。
朧げにでもこの先を知っているからこそ、足が重くなる。
しかし当時のクレインに、足を止める理由などない。
だから今のクレインも止まらず、ゴツゴツした砂利道の上を歩いていけば。
食堂からは四人の男、そして一人の女が話す声がしていた。
しかしそのうち三人の声は、初回のクレイン以外は聞いたことがない。
『やあ、少し夜食を分けてほしいんだが』
不用心なことに、庭側の見張りは一人だ。
兵士はクレインに気づくと、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「し、子爵。部屋にお持ち致しますので、どうぞお戻りください」
『すまない。よろしく頼むよ』
本来の人生であれば。
このタイミングで中の声に気づき、押し通ろうとして兵士に止められる。
振り払って壁にぶつかり、彼は気絶するはずなのだが。
全く同じ立ち位置かは分からないので、クレインは確実な道を選ぶことにした。
「ごめんな」
「ぐえっ!? あがっ……」
ビクトールから手習いしていた護身術で、兵士の首を絞め。
やがて気絶した兵士を地面に下ろすと、窓際に近づいた。
そうして中を覗き見れば。
「アースガルド子爵もバカな男です」
「ひぇひぇ。ただのボンボンですが、神輿はあれくらい軽い方がいいものですぞ」
侮蔑の表情で語る、ヘイムダル男爵と。
ヘルメス商会の商会長、ジャン・ヘルメスがいた。
「何故、あいつがここに……。いや、それよりも」
その奥に見える人影。
名乗ることはおろか、顔を見たことすらない。
しかし因縁の浅からぬ人物が二人。
「計画には必要なことだ」
「然り。儂らの未来のため、彼を礎としよう」
東伯、ヴァナルガンド伯爵。
東候、ヘルヘイム侯爵。
男爵領を共に訪れることなど絶対に無いような大物たちだ。
この時期に、二人同時に訪ねている辺りからも不穏な気配はしている。
そして最後に、彼らを従えた女性。
このような場所にいるはずがないどころか、この世にいるはずがない者。
声を掛けることすら不敬とされる、死んだはずの王族が一人。
「そちらの仕上げはどうなっていますか?」
「抜かりなく。北候も三ヵ月と持たずに倒れるでしょう」
「それは重畳」
優し気に微笑み、鈴を転がしたような声で優雅に話す女性。
クレインは貴族の義務として、顔と名前だけ学んだ程度の見覚えだが。
「……第一王女。アクリュース姫、だったか」
クレインが全員の顔を見渡して、次いで目に入ったもの。
それは王女が自ら床に描いた、怪しい模様だ。
「では、こちらも始めましょうか」
「ええ。お願いします、ヘイムダル男爵」
赤黒く、どこか異臭がするインクで書かれたものだが。どうやらまだ未完成のようで、一部が不自然に欠けている。
そして、アクリュースは模様を描き足そうとしているが。
窓の外から様子を窺っていたクレインは、彼女が手にした筆にインクを付ける動作が、どことなくおかしいと気づく。
「下民にも、使い道はあるものですね」
「悪趣味な趣向だがな」
王女は軽く言い、東伯は憮然として答える。
何が悪趣味なのか。
よく見ればそれは、インクではなく血だ。
そして、それが誰の血かと言えば。
ノルベルト、ハンス、バルガス。その他、共に逃げてきた屋敷の使用人。
男爵領の別館に保護されたはずの、クレインの家臣たちのものだった。
犠牲者の中には、先に送り出していたマリーの姿もある。
彼らは床の上へ無造作に転がされ、一か所に集められた屍の山が、室内に血の河を築いている。
ヘイムダル男爵はその中からハンスの身体を引きずり、王女の前に転がした。
「どうぞ、姫様」
「子爵領も滅びたことですし、これで生贄は揃いましたね。続きを始めましょうか」
にっこりと笑いながらそう言う王女は、穏やかで上機嫌のままだ。
彼女はこれが日常生活の一部であるかのように、平然とした声色で言う。