55回目 学問の師
「ここがそのお屋敷ですか」
「そうだな。当面はここで暮らそう」
男爵が付けた案内役に従って馬車を走らせること十五分。
緑が多い並木道を抜けた先に、庭付きの邸宅があった。
邸宅と言っても普通の家より少し大きいくらいで、豪邸ではない。
これならマリーも一人で管理ができるだろうと、胸を撫でおろしつつ。
「私も手伝いますので、まずは掃除から始めましょうか」
案内役の老人の言葉で、クレインも屋敷の玄関に土埃が溜まっていることに気づいた。
庭の雑草はそれなりに伸びているため、恐らく中の掃除も必要だろう。
「どれくらいのペースで掃除をされていたんですか?」
「月に一度ほど、軽く綺麗にして。三ヵ月に一度、本格的にやっておりましたよ」
最後に掃除したのが先月で、大掃除は二か月前だと言う。
彼らは丁度、一番汚れている時期に到着していた。
多少の安普請でも、雨風が防げればいい。
それくらいの認識だったクレインなので、そこはあまり気にしていない。しかしマリーは違った。
「へへっ、腕が鳴りますね」
「任せてもいいか?」
「はい。クレイン様は先生にお会いしてくるんですよね?」
マリーが早速腕まくりをして、掃除へのやる気に満ちている傍らで、クレインは男爵から紹介された学問の師へ会いに行こうとしていた。
「早速顔を出してみようと思うけど、まさか紹介状まで貰えるとは思わなかったよ」
「ラッキーですね」
夕食時に、勉強の旅であり、何か学問を修めて帰りたいと言ったところ。気のいいアイテール男爵は、近くで開かれている私塾への紹介を請け負った。
今朝がた男爵邸を出る際に、見送りに来た男爵から紹介状を受け取ってもいる。
私塾の場所は郊外で、クレインの逗留先にも近い。
歩いても二十分以内には着けるくらいだろうか。
「じゃあ、トムとは一旦お別れだな」
「んだなぁ。まあヨトゥン領に種イモとかを運んだら、戻って来るんで」
彼は冷害に備えた北方原産種の野菜の種などを大量に持ち帰り、南方まで運ぶ仕事が残っている。
もう、畑が本格的に始まっている時期だ。
育てるものにもよるが、帰りは急ぎで行かないと間に合わない。
「往復で二か月くらいはかかるかなぁ」
北候の領地から王都を通る道を、真っ直ぐに南方面に進めば少しは早くなる。
それでも積み荷を満載した年季の入った荷馬車では、結構な日数がかかる見込みだった。
「何かあれば男爵を頼るし、心配しなくてもいいよ」
「さよか。それなら、最後に送っていこうかねぇ」
いざとなれば男爵にまた人を紹介してもらい、現地で使用人を雇ってもいい。
むしろ現地で人を雇うことを想定して、マリーだけを連れてきたのだ。
北方へ行ける機会などそうそう無いので、アースガルド領に残った使用人たちの何名かは付いて行きたそうな顔をしていたが。
それはさて置き。
屋敷はそこまで大きくないので、今のところは特に問題も無さそうに見える。
「じゃあ、掃除はよろしくな」
「ええ、お気をつけて」
「行ってらっしゃい! クレイン様!」
老人とマリーの見送りを受けながら。
トムは街の中心地にある商会へ行く道すがら、クレインを送りにいった。
◇
「ごめんくださーい」
クレインは、午前のうちに私塾を訪ねてみた。
しかしどうやら授業の時間でもないらしく、人は誰もいなかった。
門の近くにも、中庭にも、広めの一間にも人影は無い。
「……留守か。近くも見てみようか」
トムは既に行ってしまったので、帰ろうにもそれなりの時間がかかる。
往復するのは二度手間だと考えたクレインは、人探しがてら近くの散策を始めた。
「ほぼ一本道で、迷うことがないってのはいいところだな」
この街は碁盤の目のようになっている区画が多い。
普通に歩く分には迷うことはないだろう。
籠城を見越しているのか、外れの方には農場や鶏舎などもあるが、そこは一本道でつながっていることが多いとも聞いている。
だから迷えば大きな通りに戻ればいいと、塾の裏手にある川の方へ行き。
南北に流れる川を見て、彼は言う。
「さて、どっちへ行こう」
北へ向かえばクレインが逗留する屋敷があり、南へ向かえば林が見える。
ここでふと南の方を見た時、小さな岩の上に立ち、釣りをしている男が見えた。
「……話しかけてみるか」
もしかしたら、彼が私塾の先生かもしれない。
そう思い近づいてみても、男は余程釣りに集中していたのか、クレインの方に見向きもしなかった。
「釣れますか?」
「ん? うわっ!?」
後ろから声を掛けてみれば、苔むした石で足を滑らせた。
釣りをしていた男は、尻もちをつく。
「あいたたた、はは、ずぶ濡れだ」
「あ……すみません!」
「いいよいいよ。この時間に客人も無いだろうと、油断していたなぁ」
頭から水を被り、くせ毛の黒髪まで少し濡らした三十代後半くらいの男。
書生風の着流しといった服装なのだが、立ち上がってみると背は高く、意外といい体格をしていた。
「ええと、君は?」
「クレインと申します。そこの私塾で学びを得たいと思っているのですが」
「ああ。この時間なら誰もいなかったんじゃないかな」
そう言いながら立ち上がり、黙って紹介状を受け取ったあたり、関係者ではあるのだろう。
クレインが推測をする前で、男は手で封筒の端を千切り。
中身をさっと読み終えて言う。
「アイテールくんの紹介か。だったら問題無いだろう」
「貴方が先生ですか?」
「先生なんて、大したものではないけどね」
ずぶ濡れの服を気にした様子もなく。
悠々と構えて、彼は言う。
「まあ、これでも私塾を開いて長い。教えられることなら色々あると思うよ」
「是非お願いします」
「礼儀正しいのはいいことだ。学びたいのは政治経済その他。まあ、何でもいい、か」
役立つ知識なら何でも構わない。
アイテール男爵からの手紙にはそう書いてあり、男は首を傾げた。
「何でもと言われると逆に困るけど。知識を何に使いたいか、だね」
「貴族家に仕えることになると思うので、領地経営に役立ちそうなものがあれば」
クレインがそう伝えれば、男はふむふむと頷き。
「その方向か。……分かった、なら特待クラスで学んでもらおう」
「特待ですか?」
「ああ。優秀な子を集めたクラスがあるんだ。君より年下の子が多いけど、みんな優秀だよ」
釣り竿をしまいながら、一匹も魚が入っていない籠を持ち。
伸びをしてから、彼はにこやかに笑った。
「結構レベルは高いけど、付いてこられるかな?」
「ええ、やってみせます」
「そうか。じゃあ着替え直さないとだし、一度帰ろうか。お茶は出すよ」
北候のお膝元となる大都市。
そこで優秀な人材が集まるという私塾で、ハイレベルな教えを得られるのだ。
その笑みに不敵なものを感じつつも。
むしろクレインには、やる気が戻っていた。
「そうそう、僕の名前はビクトールと言うんだ。あまり畏まらないでいいよ」
「分かりました、ビクトール先生」
次回以降に役立つこともあるだろう。
というか、自分よりも年下だという門弟たちに負けていられない。
そう考えて、クレインは全力で知識を吸収すると決めた。
「あらら。挑戦的な顔をしたのはマズかったかな。……意外と反骨精神がありそうだ」
久しぶりに熱意が戻ってきたクレインは燃えているが、ビクトールは焚きつけ過ぎたかと苦笑して。
何はともあれ、彼らは勉強の準備をするために私塾へ戻る。