見知らぬ薬師
その次の日からアレスは、おばばから借りた絵本を片手に文字の勉強を始めた。
そして、ゼッタとアレスは一緒に凄い勢いで勉強していた。
ゼッタは魔法陣で地面を埋め尽くし、アレスはひたすら剣を振った。
時々イフリートが姿を現してゼッタをのろまだのなんだのと罵ってくるが、間違いも時々指摘してくれるのでうるさいばかりではなかった。
ガリガリガリガリ
カンカンカンカンキンキンキンキン
ガリガリガリガリ
カンカンカンカンキンキンキンキン
ガリガリガリガリ
カンカンカンカンキンキンキンキン
いや、ゼッタとアレスが練習している音の方が余程うるさかった。
因みに村のみんなの反応はといえば、最初は『勉強なんてしたところでこの村では何の役にもたたんよ』などと言って、必死に地面に這いつくばって得体のしれない丸を描きまくっているゼッタと、一心不乱に木刀を振り回すアレスを見て呆れていたが、今では『もしかしたら王都にでも出稼ぎにいっちまうかもしれんな』と応援してくれている。
文字を学んでいる時も、剣を振っている時も、弓でシカを狙っている時も、アレスの集中力は凄かった。
それにアレスの憶えは驚くほどに早かった。
勉強したことがなかったから勉強の仕方が分からないとか、環境が整っていないから仕方ないとか、そんな話ではなかった。
これはもう、勇者補正といえばいいのか。
勇者の成長補正を今から掛けて17歳になったら、一体どんな最強勇者が出来上がるのだろう。
…アレスに剣の稽古を勧めた私、グッジョブかもしれない。
…
今現在のゼッタは、真上にある太陽を見上げて腰を上げたところだ。
ゼッタに任されている芋畑の半分の雑草を取り終わったところで、丁度きりもいいしお昼休みにしようと決めたのだ。
アレスは狩りの為に村の男衆と山に出ているので今日の昼休みは一人で魔法陣の暗記だ。
ゼッタは農具を置き、畑の隅に置いておいたお昼ご飯と魔法陣の本の元へ行く。
いつものように魔法陣の本を広げ畑の隅の木陰で一人、お昼ご飯を頬張っていると、ぬっとあらわれた見知らぬ男に声をかけられた。
大きな傘のような帽子を被った無精ひげが目立つ男。
大きな木の箱を背負っている。
「ねえねえ、そこの可愛いお嬢さん。私は旅の薬師なんだけどさあ、この村の村長さんのところにお嬢さんくらいの女の子はいないかな?」
見知らぬ男は人懐っこい声で喋り、人のよさそうな笑顔を作る。
「えっと…貴方はこの村は初めての薬師さんですか?」
見るからに薬師と言った風体のこの男が、この村に尋ねてきたのを見たことはない。
セリカのことも知らないようだし、彼は偶然村にやってきた旅の薬師なのだろう。
「そうそう。初めてだから分かんないの。
…あれ?本を読める村人は珍しいと思ったら、更に珍しい。
ねえそれ魔法陣?お嬢さん、魔法陣が使えるの?ってことは魔力があるってこと?」
ゼッタの読んでいるものに気が付いた薬師はいきなりぐんっと身を乗り出してゼッタの読んでいる本を覗き込んできた。
かなり近い。
初対面のパーソナルスペースをいきなり無視してきた。
「えっと…魔法陣は使えないんですけど、魔力は少し…」
ゼッタはさりげなく身をよじり、不自然にならないように男から距離を取る。
「へえ…!いいねいいね、凄いね、すごいよ!
ところでここの村長さんのところにお嬢さんくらいの女の子はいるんだっけ?」
薬師が嬉しそうに唇を持ち上げてから、再度問う。
「は、はい。いますよ」
「彼女、シャーマンって聞いたんだけど、あってるかな?」
「はい、あってますけど…セリカに何か用ですか?」
ゼッタが肯定すると薬師がやけに嬉しそうにする。
…シャーマンが珍しいのだろうか?
いや、旅人であればシャーマンや精霊使いに会える機会もあるはずなのでは?
首を傾げるゼッタの意を汲んだように薬師の男は言う。
「いやね、そのセリカちゃんに隣の隣の村から手紙を預かってきててね」
「そうなんですか。えっと、ご苦労様です」
なるほど。
旅の薬師も郵便屋さんのように使われて大変だ、と思いゼッタはぺこりと頭を下げる。
「いやいや。これくらいは全然苦じゃないよ。旅をしてたら、もっといろんなことがあるからね」
「あっ、それもそうですよね。
旅って、楽しいですか?どんなことがあるんですか?」
ゼッタは顎をさする旅の薬師に少し興味がわいてきた。
ゼッタは思い描く。
記憶にはアレスの旅の様子が詰まっていたが、それは本当に楽しそうだった。
旅先で意気投合した仲間と共同戦線を張って魔物を倒し、その地域の魔物のボスを倒した後はみんなで宴。
仲間それぞれの専用武器を集めるために幻の谷や神秘の山、数々の秘境を巡る。
鉱山やダンジョンに潜って素材を集めて鍛冶屋で武器を錬成したり、ギルドの依頼をこなしてお金を集めたりもする。
仲間同士、すれ違いや喧嘩をすることもあるが最終的に分かり合って、互いにかけがえのない存在になる。
ゼッタにとって、記憶の中にあるアレスの旅の部分は何度も読み返したい本のような物語だ。
だからきっと、他の人の旅というのも楽しいに違いない。
この薬師は見たところ一人で旅をしているようだが。
「旅はね、大変なこともいっぱい。でもその分楽しいこともたくさんあるよ」
薬師はそう言ってニコニコ笑う。
「いいなあ。
あ、あの、お兄さんの旅のお話し、少し私に聞かせてもらえませんか?」
ゼッタの頭上で少しかがみながら笑う薬師の男を見上げる。
先程ゼッタが少し後ずさってから、彼は不用意に近づいてこなくなったのでそこには適切な距離が保たれている。
「うふふふ、いいよ。
あ、でも代わりにおじさんのお願いも聞いてくれないかな」
「ええ、何でしょうか?」
「すっごく簡単。さっきセリカちゃんにお手紙があるって言ったよね?渡したいからセリカちゃんの家まで道案内をお願いできる?」
「そんなことなら、もちろんです」
お安い御用だ、とゼッタは頷く。
この畑からセリカの家まではすぐだ。
「うん、ありがとう。でもね、家の中までお邪魔しちゃうのは恐縮だから、セリカちゃんを家の外に呼んでもらいたいんだけどいいかな?」
「はい。それは大丈夫ですけど、うちの村には薬師がいないのでおばばやセリカはおもてなししたがると思います」
この村には薬師がいないので、薬師はとても歓迎される。
定期的に薬を売りに来てくれる村馴染みの薬師はいるが、村を訪ねて来てくれる頻度が高い訳でもない。
彼のような旅の薬師がふらりと来れば、村人はその時にも減った常備薬を揃えさせてもらう。
そしてそのお礼と、あわよくば住み着いてほしいと思っている村人の意思を反映するようにおばばたちは彼らを好待遇でもてなすのだ。
まあほぼ100%この村に留まりたいと言う旅の薬師はいないので、彼らが帰ると言えばまた来てねと笑顔で送り出すのだが。
「おもてなしされると気を使っちゃうからさ、今回はおばばや大人は呼ばないでね。私はセリカちゃんに手紙だけ渡してすぐ発つから」
そしてこの薬師は、このゼッタの村も含め山間の村がもてなしをしてくることを知っていて、滞在する気はないからそれを避けたいのだろう、とゼッタは考え頷く。
「そっか、分りました。みんなが常備薬を買う時間もないくらいすぐに発ちますか?」
「うん、すぐに発つよ。生憎薬の在庫も全然残ってないんだ」
「なら、仕方ないですよね。じゃあすぐにセリカのうちに案内します」
幸い最近馴染みの薬師が訪ねてきたばかりだから、薬にとても困っているという村人はいないだろう。
ゼッタは時間がないと言う薬師の為に、急いで両手に持っていたお昼ご飯のふかし芋をもっもっ、と口に詰め込んで立ちあがった。
それを水で流し込む。
魔法陣の本をぱたんと閉じる。
薬師が手紙をセリカに渡して、ゼッタが彼の旅の話を聞くだけだからすぐに戻って来られる。
大事だが、魔法陣の本をわざわざ持って行って抱えたままセリカを呼べば「馬鹿のくせに貴重な本を借りたのか」と冷ややかな目で見られるかもしれない。
そう思ったゼッタは魔法陣の本を丁寧に布に包んで日陰の乾いた草の上に置いた。
…
日が傾き始め、日差しが大分弱まった時刻。
狩りから帰って来たアレスは獲物を担いで豪快に笑いあう大人たちに挨拶をしてから、今日ゼッタがいるはずの彼女の畑に直行する。
「ゼッター」
大きな芋畑に到着して、アレスはゼッタの名前を呼ぶ。
この時アレスは、大きな芋の葉の間から頭をぴょこッと覗かせて、笑いながら自分の名前を呼ぶゼッタの姿が見られると信じていた。
しかし何度呼んでも、芋の葉の間を探してみても、ゼッタは出てこなかった。
もう仕事は終わらせたんだろうか。
そう思って畑を見て回ると、雑草が綺麗に取り除かれている部分とそうでない部分があった。
どうやら仕事を終わらせて家に帰った訳ではなさそうである。
アレスは首を傾げて辺りを見回す。
かくれんぼでもしているのだろうか。
ゼッタはそういう無邪気なところがあるから。
アレスは芋畑をもう一度探し始めた。
「ゼッタ…?」
しかしゼッタはいなかった。
どこへ行ったんだろう。
もしかしたらアレスが迎えに来るのが嫌で、ゼッタは仕事が終わってないのに家に帰ったのだろうか。
最近のゼッタはアレスに向けて少しだけ、ほんの少しだけ困ったような目をすることがある。
その彼女の濃い、深い海色の瞳を思い出す。
心臓がぎゅっと悲しくなった。
だが、ゼッタは会いたくないから帰るなんて意地の悪いことをするような子じゃない。
困惑したような目も、考えすぎだと信じたい。
そもそも、ゼッタは仕事を途中で投げ出して帰ったりしない。
ならば急に具合が悪くなったとか?
…有り得る。
ゼッタの家へ走り出そうとしてふと視線を畑の隅に投げたアレスは、ゼッタの放り出された農具、水筒と布に包まれた何かを見つけ、その中にゼッタの魔法陣の本を確認した。
アレスの足が動かない。
血が重力に従ってすーっと下に落ちるのを感じる。
胸がざわざわするのを感じる。
いくら具合が悪くてもゼッタが魔法陣の本をほっぽり出して家に帰ったりするだろうか。
腹痛とか頭痛とかならありえないだろう。
ならば多分、突然倒れたのだ。
突然倒れるなんて、ゼッタは病気なんだろうか。
若くしてかかる難病もあると言う。
ゼッタが病気になって余命あと半年だったらどうしよう。
いや、そうと決まったわけじゃない。
ゼッタのことになるとどうも焦ってしまっていけない。
アレスは思う。
そして布にくるまった本を抱き上げ、動かない足に力を込めて全速力で駆けだした。
ゼッタの家のドアをノックもせずに、体当たりするように開けるアレス。
大きな音に、ゼッタの母親が何事かと顔を上げる。
彼女は仕事を終えて帰ってきていて、ゆったりと食卓の木の椅子に腰かけゼッタの破れたスカートを繕っていた。
「ああ、アレス。おかえり…」「ゼッタは大丈夫?!」
ドアの前で荒立った様子のアレスに穏やかに声をかけたゼッタの母親を遮るようにしてアレスは言った。
「ゼッタ?大丈夫だと思うけど…家にはいないわよ。畑まで迎えに行ってあげたら?」
アレスの様子に少し首を傾げながらも微笑むゼッタの母親に、アレスは気を落ち着かせようと深呼吸した。
病気で倒れたわけではなさそうだ、と波立ち続ける心臓を落ち着かせる。
「ううん。畑にはいなかったんだ。でもゼッタの大切にしている本が畑の隅に置かれたままだったから、ゼッタが倒れたんじゃないかと思って心配した」
「あらあ、そうなの。
ふふ、ありがとうアレス。ゼッタも幸せ者ね~、アレスにこんなに心配してもらえるんだから。でも、畑にもいなかったんなら、ゼッタは誰かのおうちにお邪魔してるんじゃないかしら?」
「…仕事が、大分途中のようだったけどそんなに長い間誰かのうちにお邪魔してるのかな?」
ゼッタの母親はのんきだったが、アレスは何かに妙に引っかかった。
アレスは昨日ゼッタの畑仕事を手伝ったので、ゼッタの畑の進捗状況を知っている。
先程の畑の状況からすると、ゼッタは昼頃から誰かのうちにお邪魔しているのだろうか。
仕事があるゼッタをそんなに長い間拘束するような大人はこの村にいるだろうか?
ひとつ思いつくのはおばばがゼッタを呼んで至急精霊について話したいことがあったとか…?
そうだったとして、本を置いたままにして行くだろうか?
ゼッタは相当慌てていたのだろうか…
アレスが再び宙とにらめっこして考えていると、ゼッタの母親が声をかけた。
「ゼッタはきっと夕ご飯には帰ってくるわ。アレスもご飯食べていくわよね。それまで一緒に待っていましょ」
ゼッタの母親がふわりと笑う。
アレスはその笑顔につられるように頷く。
人を幸せにする純粋なゼッタの笑顔は、この人譲りな気がするとアレスは思った。
ゼッタの父親がいつも幸せそうで、ゼッタの母親を大切にしている気持ちが良く分かる。
アレスは食卓の椅子に腰かける。
アレスの定位置の席に。
ゼッタの隣の席に。
そこでアレスがおばばに借りている本を広げた。
ゼッタを待つ間、夕食の準備を手伝うまでの間、勉強をするのだ。
しかし、夕ご飯の時間になってもゼッタは帰ってこなかった。
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