セリカとご馳走
おばばから魔法陣の本を借り受けたその日から、ゼッタは寝る時間を削ってその本をむさぼるように何度も何度も読み返した。
その本には魔法陣の仕組みと、たくさんの魔法陣の描き方が載っていた。
文字は読めても初めて見る単語、意味の分からない言葉に時間を取られて、気が付いたら朝日が昇っていたなんていう日もあった。
訳の分からない本でも投げだすことなく、来る日も来る日もページをめくり、隅から隅まで何度も繰り返し読んだ。
「なんだ、魔法陣か?俺の力を貸してやるって言ってんだ。魔法陣なんか勉強する必要ねーよ」
低い声が聞こえたかと思ったら、ゼッタの顔の横にイフリートの顔がいきなり現れた。
ベッドに寝転がって本を読んでいたところにこの奇襲だ。
ゼッタは本を両腕で抱え、ベッドから転がり落ちるようにして彼から距離を取る。
「イ、イフリートさん!いきなり現れないでください!」
「お前の傍にいつでも行けるってのが精霊契約だろうが」
イフリートは腕を組んでゼッタのベッドに胡坐をかき始めた。
「そうなんだ…
それよりイフリートさん、わ、私、魔力あるんですよね?」
部屋の主、ゼッタは床にへたり込み、イフリートは悠々とベッドに陣取るその構図に一片の不信感も持たず、ゼッタはあっと声を上げて質問を口にした。
「ああ。それは極上のやつがたっぷりとな」
イフリートは間髪入れずその質問に答え、ちゅるりと赤い舌を出して見せた。
「わ、私、それをうまく使えるようになりたいんですけど…
た、例えば魔法陣に魔力を送り込むのってどうすれば…?」
「お前はいいんだよ、魔力使えなくたって。お前の魔力は俺に差し出してくれればそれでいーの」
イフリートは切れ長の妖艶な目を細めてゼッタのベッドに横たわった。
ゼッタのベッドはボロボロの貧乏ベッドなのに、この壮絶な美形が寝ころんだだけで王都の貴族に良い値で売れそうなベッドに見えてきた。
いや、そんなことより。
「そんなこと言わずに、お、教えてください。魔力の使い方」
ゼッタは本をぎゅっと抱き込んで、ずいっとイフリートの方に身を乗り出した。
「お前、それ使えるようになって、そんでどうすんの?俺がいるのに魔法陣なんてショボいの覚えたって無意味だぜ?」
「自分の魔力、上手に使えるようになったら未来変えられるかもしれないって思ったんです」
ゼッタはここでも希望を見出していた。
記憶によれば、混沌の闇の残滓が絶望したゼッタに融合してラスボスが誕生した。
ならば魔力をコントロールしてそのラスボスと融合しないようにするとか、寧ろその魔力を使って混沌の闇の残滓を一網打尽にすればいいんじゃないか、とか魔力をうまくコントロールできるようになることは百利あって一害なしの選択のような気がする、と。
…それに精霊がいくら強くたって、使う人の技量がないと強さを引き出せないっておばばも言ってた。
ゼッタはじっとイフリートの赤い瞳を見つめた。
燃える炎を象徴する彼の瞳にゼッタの決意が少しでも届けばいい、と瞳に力を籠める。
「ふーん。そんなうまくいかねーと思うけど、いいぜ。俺が教えてやるよ」
イフリートは何か思うところがあったらしく最初の意見を翻し、軽く承諾してくれた。
「イ、イフリートさん!」
その返事を聞くや否や、ゼッタは喜びに顔を輝かせる。
…イフリートさんが指導してくれたら百人力かもしれない!
イフリートの力を何度も見たわけではないし、イフリートの伝承を聞いたわけでもないが、この目の前で寝そべっている赤い髪の美しい男性が強いことは既に肌で感じている。
「けど、この対価は高けーから」
「た、高けーですか。そ、その、魂とったりしますか?」
妖艶な微笑みのイフリートに、なぜか身の危険のようなものを察知して固まったゼッタはブルリと震えた。
おばばによれば魔力は魂の力だそうだから、高い対価は命をもって支払わなければならないということになったりしないだろうか。
ゼッタのようなどこにでもいる子供の命と、炎の最上位精霊の教えを天秤にかけたら、子供の命など羽のように軽そうではある。
むむむと考えていたら、イフリートがゼッタの薄い灰色の長い髪をくんっと引っ張った。
そして引き寄せられた。
ゼッタの頬にイフリートの息がかかるくらいの近さまで。
それからイフリートはゼッタの耳元で囁いた。
「そんなんより、もっといーこと」
この後、ゼッタは得体のしれないむずがゆさに身をよじって、顔を真っ赤にしてイフリートから再び距離を取ったのであった。
…
最初にイフリートから課せられたことは、魔法陣の暗記だった。
おばばの本に載っているすべての魔法陣の暗記。ざっと40個くらいあって、そのどれもが複雑だ。
高名な魔法陣の術師たちは、その頭に40ぽっちだけでなく何百もの魔法陣を暗記しているらしい。
ゼッタは40個でも無理だとは声には出さなかったが、ゼッタの顔を一瞥したイフリートに『それくらいの気概は見せてみろ』と言われてしまった。
…そうだ、勿論だ。
私は暗記の仕方なんて分からない。
勉強の仕方だって分からない。
魔法なんて、何から何まで分からない。
でも。
自分は今まで勉強なんて全くしたことがない貧乏な村の子だからと諦めて、無能を受け入れて諦めたりしたくない。
勉強してこなかったのを環境のせいにはしない。
勉強できないのを平凡な頭のせいにはしない。
ゼッタは擦り切れる程本を読んで、魔法陣の暗記を試みた。
食事中も何か考えては魔法陣の本をこっそり開くゼッタに、両親は何事かと心配し始め、
仕事の休憩時間にも魔法陣の練習をするゼッタを遠巻きに見て、村人たちは顔を見合わせあった。
がりがりがりがり。
足元に土があれば魔法陣を練習し、手元に炭があれば魔法陣を練習した。
魔法陣は本当に複雑で、本を見ずに描こうとすると必ずどこか間違える。
あくる日も畑仕事の合間に、ゼッタは木に背を預けていつものように何かゴソゴソやりながら魔法陣の本を読んでいた。
その木の反対側では、木を背もたれにして水を飲んだりしながら休んでいるアレス。
アレスは村の方に体を向け、ゼッタは森の方に体を向けていた。
突然、
「ア~レス」
後ろで甘えたような声がしたと思ったら、
「わっ」
と驚くアレスの声が聞こえた。
ゼッタがアレスの声に何事かと身をよじると、そこにはアレスを驚かせたセリカがいた。
アレスは、近づいてきたセリカに気が付かなかったので小さく驚いたのだろう。
「昨日も言ったけどアレスのおかげで私、精霊の試験に受かれたと思ってるの。そのお礼を今日したいと思うのだけど、今日の夜夕食に招待させてくれない?」
セリカにはアレスしか見えていない。
ゼッタは何となく空気を呼んで頭を引っ込め、木の裏で息をひそめた。
この場面にゼッタには絶対に居合わせて欲しくないとセリカは思っているはずだ。
お互い大人になって上手く距離を保ってきた間柄が、このあいだ険悪なものに逆戻りしたのだ。
もうこれ以上セリカとトラブるのは嫌だ。
「僕は何もしていないよ。試験に受かったのは全てセリカの力だ」
アレスの静かな声が後ろで聞こえる。
「私、アレスがいつも頑張っていることを考えたら私もがんばらなくちゃって痛みも乗り越えられたの。それをおばばに話したら、特別に夕食に招待してもいいって言ってもらえたわ」
ゼッタは、セリカの何でもない風を装った強気な声に少ししんみりした。
セリカもアレスのことがとても好きだけど、アレスが好きになる女の子はこの村にはいない。
セリカのやりきれない悲しい将来が自分の将来と少しだけ重なる。
「夕食をごちそうになるようなことは、本当に何もしてないよ。それに今日は母さんの料理を手伝わなきゃいけない。ごめんね」
「ゼッタと…あの日ゼッタと一緒におばばの部屋に忍び込んでたことは知っているわ。嫌だった…でもやっぱり私が試験を受けていた時、貴方だったら根はあげないと思ったら頑張れたの。お母さんも一緒に招待するから、来て」
「勝手に君の家に忍び込んだことは、ごめん」
「忍び込まれたことを嫌だったと言っているんじゃないわ。ゼッタと…そうよ、アレスはゼッタのところにはいつだってご飯を食べに行ってるじゃない。私のところにも来てよ。私は今日は特別に鹿の肉だって用意してもらうんだから。ゼッタのところじゃ、そんな高価なものは食べられないでしょう?」
ここは狩人の村だが、鹿のように大きくて上等な獲物はほとんど売ってお金に換えてしまう。
村長の家も贅沢はできないだろうが、大事をなしたセリカが頼むのなら鹿肉を用意することはできるだろう。
「それならなおさらだ。何もしていない僕がそんなご馳走を食べるわけにはいかない」
「じゃあ私がただ招待したいだけだと言ってもだめかしら。ここ一年くらいは試験のことばかりでアレスとはずっとゆっくり話せなかったし。ね?
あ、それもだめなら私がアレスのうちに行くわ。それでアレスのお母さんを私も手伝うわ」
「気を使わないで。僕はセリカの精霊召喚の儀式のときに村のみんなと盛大に祝うよ」
「…みんなと一緒じゃいやなのよ」
セリカが小さく言うと、
「ごめんね」
とアレスがはっきりと言った。
アレスの声を最後に、ゼッタの背後は静まり返った。
しばしの沈黙の後、セリカらしき足音が土を踏む音をさせながら遠ざかっていった。
「ゼッタ、大丈夫?」
木のうしろからアレスの静かな声が聞こえた。
「だ、大丈夫だよ」
ゼッタはのそのそと木の裏からアレスの隣に移動する。
セリカの後ろ姿はもう遠くに見える。
彼女はきっと、頑張って働くアレスの顔を思い浮かべて試練を乗り切った話を家族にして、今日のお祝いにアレスも招待したいと頼んだんだろう。
そして優しくはっきりと断ったアレスの顔を思い出しながら『やっぱりアレスはこれなくなった』とおばばに伝えるのだろう。
ゼッタはそんな彼女の気持ちを考えずにはいられない。
「アレス、セリカをお祝いしてあげたらどうかな…?」
「いや、行かない方がいいと思う」
「でも、セリカ頑張ったんだし」
彼女に同情しているだけじゃない。
ゼッタは少し前のセリカの剣幕を思い出していた。
あれは、正当な怒りで、正当な言い分だった。
だから彼女はどこかで少しくらい、報われてもいい気がしたのだ。
「ゼッタは僕に行って欲しいの?」
「だ、だってセリカ頑張ったんだよ。
そ、それに鹿も食べられるんだよ。えっと、いいなあ鹿!多分たくさん食べれるよ」
「別に鹿は食べたくない。それよりなんでゼッタはそんなにセリカのうちに行くように勧めるの?今日はゼッタがうちでご飯食べる日なのに」
「私達は、いつでも一緒に食べられるし。それにセリカは…」
アレスが行ったらすごく喜ぶと思うよ。
…あっ。
ゼッタは言葉を飲み込んだ。
喜んでしまうじゃないか。
アレスを好きな気持ちが少しだけ報われてしまったら、セリカも将来のラスボスゼッタと同じように苦しむことになってしまう。
なんてことだ。
セリカをラスボスゼッタの二の舞にさせる気か。
もしかしたら両思いかもしれないと期待させて、アレスが運命のヒロインと結ばれた時に絶望したラスボスゼッタの二の舞に。
「………そうだね。行かない方がいいね」
セリカはゼッタと違ってラスボスになって村を燃やすことはないだろうけど、やっぱり好きな人に両思いかもしれないと淡い期待を抱かされてから捨てられるのは、ツライ。
「うん」
ゼッタは静かに納得した。
うん。期待しなければ辛くない。
「そうだ。今日はゼッタも一品作ってくれるんだよね」
ゼッタが急に大人しくなったのを見て満足げなアレスが、首を傾けて聞いてくる。
「うん。芋煮しかできないんだけどね」
「…その芋煮はさ、毎日でも、食べたい」
「本当に芋煮好きだね、アレスは」
どこか何かに思いを馳せるように言ったアレスに、ゼッタは小さく笑って立ち上がった。
アレスは昔から芋煮が好きだった。
誰が作ったからとかじゃない。
この村の毎日食べれるご馳走と言えば芋煮だから、まあ当然そうなってしまうのだ。
そうだ。そんなことよりそろそろ仕事に戻らねば。
セリカが来たから、予定していた休憩時間をうっかり過ぎてしまった。
「…」
アレスもゼッタに続くように立ち上がる。
何か言いたそうな顔をしていたが彼は何も言わなかった。




