6話 夢の最後で口にした言葉は
朝起きたら、涙が出ていた。
夢のせいだ。これで何度目だろう。
また夢に彼が出てきた。
まだ実家に居た頃の遠い記憶。進展もないまま自分の中だけで諦めてただの過去になっているのに、夢の中の彼が何度も笑いかけて来て、忘れていた記憶が溢れ出す。
いつも見るのは同じ夢。小学五年の林間学校。
これは紛れもなく自分の記憶だ。
オリエンテーションで迷子になって、泣き出してしまった自分を探しに来てくれたのが彼だった。
別に友達だった訳でもなく、それまで好きだと思ったこともない。
ただ、頭も良くて運動神経も抜群だった彼は、クラスの女子に人気があった。性格も温厚で、きっと迷子になったのが他の人でも、彼は同じ様に助けに行っただろう。
「見つけた」
掻き分けた草の間から現れた彼が見せた安堵の笑顔に、京子は更に声を上げて泣いてしまったが、彼は困り顔一つせず「帰ろう」と手を差し伸べてくれた。
きっかけなんて他愛ない。自分はその手に恋をした。
「彰人くんは……」
繋いだ手の温もりに思わず何かを口にしたが、その言葉を思い出せず、毎回そこで目が覚める。
夢に見る記憶は、ほんの一瞬だ。
迷子になって彷徨うシーンから始まり、手を繋ぐところまで。
自分が恋をする瞬間を見せられて、目覚めるたびに胸が熱くなった。もう彼が何処に居るかさえ分からないほど昔のことなのに、途端に気持ちを引き戻される。
傍らの桃也の寝顔に必死に涙を拭うが、彼の瞼が動いて目が合った。
「どうした? また夢でも見たのか?」
桃也の手がベッドサイドにあるライトに伸びる。オレンジ色に照らされた彼は、少しだけ哀しそうな表情を見せるが、それもすぐに消えてしまう。
いつもの桃也だ。
初恋相手の夢の話を、まだ付き合っていない頃に彼へ話したことがある。
「……ごめん」
「謝るなって。気にするなって言っただろ?」
欠伸して、桃也はゆっくりと身体を起こし、京子の頭をそっと撫でた。
「他の男の夢見たくらいで、俺が怒るわけねぇだろ」
「うん」と頷くと、ふと自分の左手に違和感を感じた。
薬指に見覚えの無い指輪がはめられている。小さな石と花が刻まれた女の子らしい華奢なものだ。
「お前、いつも俺の指、恨めしそうに見てるだろ。でも悪いな、これは外せねぇから」
「――ごめん。でもありがとう、桃也」
「だから、謝るなって。誕生日なんだから、もっと笑ってろ」
嬉しさと罪悪感が同時に込み上げる。引き寄せられた胸に涙を拭うように顔を埋めた。
☆
公園での爆発騒ぎの翌日、アルガス三階にある報告室から出てきた京子を綾斗が迎えた。
「待っててくれたの?」
「大した時間じゃないですよ。お疲れ様です。大分長かったですね」
「オジサンさんたち根掘り葉掘り聞いてくるんだもん。もう疲れたよ」
疲労困憊で、京子は廊下に並んだソファに崩れるように腰を下ろす。
朝九時前にアルガスへ来て、そこからずっと報告室に入り、時計は既に十一時半を過ぎていた。
上層部の年寄り三人を相手に一人で受け答えする形式から、『法廷』や『取調室』といった異名を持つその場所は、京子にとってこの上なく苦手な場所だった。
綾斗は報告室から出てきた三人の男に会釈し、京子の隣に座る。
「足は平気なんですか? 朝、セナさんが病院に連れて行ったって聞きましたよ」
グルグル巻きにされた包帯の上に履いた靴下が、こんもりと膨れている。
「まだ痛いけど、どうにかね。本当はタクシーで来ようと思ってたんだけど、朝ご飯食べてたら突然来て大変だったのよ」
アポなしで現れたセナに急かされて、アルガス御用達の整形外科を受診した次第だ。マンションの前に横付けされた赤のスポーツカーは、道行く人の大注目を浴びていた。
「桃也くんに久しぶりに会った、って喜んでましたよ」
「そんなことまで言ってたの……」
はあっと京子は溜息をつく。予測はしていたが、相変わらずのおしゃべり好きだ。
「まぁね、桃也がここに来てたのは、彼がまだ中学生の頃だから。背も随分伸びたし」
「成長を喜ぶ親みたいでしたよ。報告室では聞かれたんですか? 桃也さんのこと」
「聞かれたよ、あの眉毛に! 誰と何でそこに居たんだ、とか。全く!」
報告室で質疑する三人の男は、京子の中で『ヒゲ』『眉毛』『メガネ』とあだ名が付けられている。事ある毎に入れられているせいで、顔を思い出しただけで気が滅入った。
「それで、答えたんですか?」
「まさか。そこまで言う必要ないし。恋人とご飯食べて、海見てたって言っただけ」
「災難でしたね。それより年下の彼ってどんな人だろうって思ったけど、何だか京子さんの保護者みたいだったって言うか」
心当たりがありすぎて、胸がチクチクと痛む。昨日あれから検証に立ち会った、ほんの一時間程度でそう思われてしまったことに、気恥ずかしさが込み上げる。
頭を垂れてどんと沈む京子に綾斗は、
「気にしないで下さい。京子さんの怪我がその程度で、俺ホッとしたんですよ? 他に巻き込まれた人もいなかったし。京子さんがいなかったら、もっと大惨事になってたと思います」
フォローする綾斗の言葉に、京子はゆっくりと顔を起こす。
「そうじゃないよ、綾斗」
昨日の記憶。まだ、あの熱の感覚をはっきり覚えている。
「いなかったら、じゃない。多分。居たから起きたんだよ」
「……京子さんが狙われたってことですか?」
「うん」と頷いて視線を落とす。桃也にもらった指輪が天井の明かりを受けて白く光り、その横で銀環も負けじとその存在を主張していた。
「綺麗な指輪ですね」
綾斗は立ち上がり、京子の前に手を差し出した。彼の手首にもまた、銀環が光る。
「歩けますか? 大舎卿が戻っていますよ」
京子は「ありがとう」とその手を掴み、立ち上がった。