4話 新年に迎えた彼女の誕生日
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アルガスから二駅離れたマンションの五階に、京子の部屋はある。
三年前アルガスの沿線で家を探していた京子に、不動産屋のおじさんが大プッシュで勧めてくれた物件だ。京子がキーダーだということで最上階の特別室を勧められたが、遠慮して五階にしてもらった。その後すぐに特別室を埋めたのは、テレビで良く見る芸能人夫婦だ。それ故、京子はあっという間に平穏な生活を手に入れることができた。
窓からの風景は町を一望できるような見晴らしが良いものではないが、東京にしては広い空と、向かいに並んだビルの間にほんの少しだけ見える海に満足している。
そして、最初は一人で過ごしていたこの部屋に彼が来て一年と半年が過ぎた。
鍵を開けて中に入ると、ふわりと暖かい空気と食事の匂いが玄関先まで漂っている。
「ただいま」とコートを脱ぐと、奥から背の高い男が「おかえり」と捲られたシャツの袖を下ろしながら現れた。
「雑煮作っといたぜ。着替えて来いよ」
「ほんと? ありがとう。いい匂い。お正月だもんね」
得意気な表情で、男は京子を部屋へと促す。
「もう食べるか? まだちょっと硬ぇかもだけど」
「うん」と返事すると、男は「よし」と再び奥のキッチンへと姿を消した。
彼が高峰桃也だ。京子より二歳下の大学生で、同じ大学に居る叔父の研究室でアルバイトをしている。
七年前の『大晦日の白雪』で、彼は両親と姉を一度に失った。
事故のあった大晦日は、大舎卿が管轄外へ応援で行っていて、京子も年末の帰省中だった。現場に駆けつけたマサは、それから暫くの間一人になってしまった桃也の面倒を見ていた。
その頃京子と桃也はアルガスで数回顔を合わせる程度だったが、桃也がマサの元を離れて数年経った去年の春、偶然の再会がきっかけで付き合いが始まり、今こうして同じ部屋に住んでいる。
アルガスでこの事を知っているのはセナのみだ。改めて報告しようと思ったことはあるが、気恥ずかしさが先に出て、結局マサには話せずにいる。
部屋着に着替えてダイニングのテーブルにつき、京子は用意してあった赤い塗りの汁椀を手に取った。透き通った汁に浮かぶ三つ葉の香をいっぱいに吸い込んで、表情を緩める。
「お正月って感じがするね」
昨日買った酒を揃いの猪口に酌み交わし、小さく乾杯をした。
一杯目を飲み干し、手を合わせて早々に餅を咥える桃也に、ふとセナの『家政婦じゃないんだからね』という言葉が蘇る。
「いつも任せきりでごめんね。ありがとう」
心からの言葉を伝える。彼を恋人として好きだと思える。それは嘘ではないけれど、余りにも唐突過ぎる言葉に、桃也はキリリと整った眉を心配そうに傾けた。
「もう酔ったのか? まさか熱でもあるんじゃないだろうな」
桃也は箸を置いて立ち上がり、おもむろに京子の額に手を当てた。
「だ、大丈夫だよ。元気だよ」
ほんのり温かく硬い掌に、京子は頬を紅潮させる。
「だったらいいけど。好きでやってんだから気にすんなよ。それに、お前にやらせてたら、いつになっても飯が食えねぇだろ?」
「……そ、そうだね」
返す言葉が見つからない。一人暮らしの時は、野菜炒めと味噌汁を作れれば上等だと自負していた京子にとって、桃也の手際の良さと料理の技術は圧巻だった。マサと男二人で暮らしていた時期に、一通り覚えたらしい。
「いただきます」と花形にくりぬかれた人参を食べると、独特の甘さが口いっぱいに広がった。思わずこぼれる笑みに、桃也が「良かった」と満足そうに京子を眺める。
家に居ると、自分がキーダーであることを忘れそうになる。こののんびりした平和な空気をずっと吸っていたいと思うのに、彼の小指にはめられた小さな銀色の指輪が京子を現実に引き戻す。
いつも視界に入れまいと努力しているのに、こんな時に限って目に付いてしまう。彼の姉が残した形見の指輪だ。
片時も外すことなくしているそれが、京子に七年前を蘇らせる。
『大晦日の白雪』も指輪の話も、その話を切り出すことで今の生活が壊れるかもしれないと思ってしまうのは、自分の弱さだ。
あの日何もできなかった自分の、桃也への後ろめたさ--だから何も言わない。セナの言う通り、自分をさらけ出すことは京子には怖くてたまらなかった。
先に箸をおいた桃也が、空になったそれぞれの猪口に酒を足した。
「明日、時間あるか?」
「夕方には戻れると思うけど」
「じゃ、六時にいつもの所。誕生日なんだし、久しぶりにデートしようぜ」
桃也は笑顔で「よし」と頷く。
一月一日。元旦が京子の誕生日だ。
期待していたわけではないが、つい緩む表情を隠すように口をつぐみ、京子は頷いた。
☆
元旦もアルガスは、通常通りに動いている。ただ帰郷している施設員も多く、昼の食堂はどこかのんびりとした空気が漂っていた。
カウンターに並ぶと前に居た施設員の男が京子に気付き、「誕生日おめでとうございます」と振り返ってきた。食事の入った蓋付きのランチボックスを受け取ると、配膳のおばちゃんにまで「おめでとう」と祝福される。
「京子さぁん!」
窓際の席から大声で呼んできたのは、綾斗だ。食堂の視線が集中し、京子は慌てて手招きする彼の向かいの席に駆け込んだ。
「んもぅ! 大きい声で呼ばないで! 恥ずかしいんだから」
「今日、京子さんの誕生日だったんですね。おめでとうございます!」
ランチボックスの蓋を取ると中は九つに仕切られていて、正月に合わせて昆布や紅白かまぼこといったおせち料理が並んでいたが、真ん中の升には苺のショートケーキが抜群の異物感を放っていた。
食堂長である平次の計らいだ。キーダーの誕生日に合わせてお祝いメニューが準備されていて、前回の大舎卿の時はイカ飯に紅白饅頭が付いていた。昔からの恒例で、当日は昼を過ぎると周りから必然と声を掛けられてしまう。
「おめでとう、京子ちゃん」
綾斗の声で気付いた平次がテーブルにやってきた。お盆に乗せられた雑煮を京子の前に置く。関西出身の彼が作る雑煮は煮た丸餅で汁が濁っているが、これもまた美味しかった。
平次はマサと同じ歳で、京子がアルガスに来た頃からこの食堂を切り盛りしていた。穏やかな性格で笑うと目尻が下がる彼は、洋菓子店の次男だという。
「ありがとうございます、平次さん」
「どういたしまして。それよりマサが元気がないけど、またセナちゃんにフラれたの?」
流石、無二の親友とマサが豪語している相手だ。結局大晦日を一人で過ごしたらしいマサは新年からぼんやりとしていたが、毎度の事ながら昼前にはいつもの彼に戻っていた。
「もう大分元気になってますよ」
「それならいいけど。マサもホント、頑張るよね」
平次は既に結婚していて、三歳になる娘が居る。
「そうだ。綾斗くんも、誕生日は特別メニューにしてあげるよ。デザートは何がいい?」
「本当ですか? じゃあ、モンブランでお願いします」
迷うことなく綾斗は答える。
「了解。なら、特製のマロングラッセを仕込まなきゃね」
「やった。有難うございます」
「任せて」と意気揚々に調理場へ戻っていく平次を、綾斗は笑顔で見送った。
「そんなに好きなの? モンブラン」
「栗に目がないんですよ」
最後まで残してあった栗きんとんを至福の顔で頬張る綾斗に、京子は自分のランチボックスを「食べる?」と差し出した。
「いいんですか? 俺、昨日のことも申し訳ないって思ってるのに」
「気にしなくていいよ。もう平気だから」
昨日のビー玉の件だ。打たれた場所が少し青黒くなったが、問題はない。
「すみません、じゃあ有難くいただきます」
普段、比較的クールに見える彼だが、喜びに緩む表情は子供のように無邪気だ。綾斗は返した箸で受け取ると、満足そうに頬を上げた。
「そういえば京子さん、今日誕生日なら、夜は彼氏さんとパーティでもするんですか? 聞きましたよ。年下の彼と同棲してるって。やりますね」
あまりオープンにしたくない話題なのに、綾斗は興味津々に目を輝かせた。聞かなくても、何となく話の出所は予測できる。
「そんな情報もらってこないでよ。そうだなぁ、パーティはしないんじゃないかな、別に」
「そうなんですか? 勿体無い。折角相手が居るのに」
去年は家でケーキを食べた記憶があるが、パーティという程ではなかった気がする。それに、桃也の誕生日は出張で、大分経ってから簡単に済ませてしまった。先日のクリスマスも、京子が買って帰ったケーキを二人で食べただけだ。
「そういう綾斗はどうなのよ。彼女とか居ないの?」
綾斗は自動販売機で買ってきたパックの牛乳を飲みながら少し考えるように首を傾げた。ランチにはセルフで玄米茶がついているが、それとは別に食事ごとの牛乳が彼の習慣になっている。
「特定の人は居ないですね。キーダーっていうだけで相手には不自由しないし」
「え、何それ。キーダーってモテるの?」
「京子さんは違うんですか? 騒がれるの面倒で、伏せておきたいくらいですよ」
困り顔の綾斗に京子は数の子を挟んだ箸を止め、目を丸くした。キーダーという肩書きを付けられて二十三年目を迎えたが、何度振り返ってもそんな記憶には引っ掛からない。
「あ、でも女性だと別かもしれないですね。異能力なんて逆に恐いイメージかも」
「恐い、って。私が?」
「そりゃ恐いですよ。やっぱりキーダーっていったらエリートだし、力はあるし。男はちょっと遠慮しちゃうというか。彼女にするにはちょっと荷が重いっていうか。だから、いくら年下好きでも俺の事は諦めてくださいね」
「ちょっと、誰がアンタのこと好きだなんて言ったのよ!」
からからと笑う綾斗に、京子はぷっと頬を膨らませる。別に年下が好きだから桃也と一緒に居るわけではない。
「けど、私だって人並みには男子と付き合ってきたつもりだよ? 今までそんな目で見られてたなんて考えたこともないよ」
「京子さんの事は分かりませんけど、大舎卿なんて凄かったんじゃないですか? 何せ僕らの英雄ですから」
「そうなのかな。若い頃はモテたのかな。私がここに来た時には、ハナさんていう奥さんが居たの。去年亡くなってしまったけど、綺麗な人だったんだよ。結婚するまでここでセナさんの仕事をしてたみたい。北海道出身の人で、よく差し入れを持ってきてくれたの」
解放前からアルガスにいて、セナ同様男性陣の憧れの的だったらしい。英雄である大舎卿が彼女を射止めたのだから、やはり彼もモテたのかもしれない。
「あぁ、それでイカ飯好きなんですか。名物ですよね」
「そう。爺の誕生日に食べれるよ。それ以外でも、たまに平次さんがランチに入れてくれる時があって、喜んで食べてる」
「思い出の味なんですね」
そうだね、と京子は窓の外に視線を向けた。静かな晴れの正月。広い芝生の向こうに、壁に遮られた工場の屋根が並び、一番奥に細く海が見える。
「京子さん、今日は何かいいことがあるといいですね」
雲一つない青空を見上げ、京子は胸を躍らせた。