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36話 さようならの涙

 朝、音を立てて降っていた雨が出発を一日延ばしてくれるのではないかと淡い期待を抱いたが、アルガスに着いた頃にはすっかり晴れてしまった。窓を伝っていた滴も知らぬ間に乾いている。


 昼前に出発したいというコージの意向からいつもより一時間早く本部へ着いた筈なのに、普段あまりキーダーと係わり合いを持とうとしない長官が、この時とばかりに事前ミーティングをすると言い出した。

 先に仙台から現地入りした平野を除く移動組の面々が彼の部屋に呼ばれたのは、もう一時間も前の事だ。


 ただそんな長いミーティングも京子にとっては都合が良かった。

 別れを直前にして桃也と二人きりになったらきっと泣いてしまうと思ったからだ。一緒の時間が減るのは淋しいが、彼を笑顔で送り出せればいい--そんな想いを訪ねてきたセナに話すと、アルガス人気ナンバーワンの愛くるしい笑顔が一変した。


「ちょっと! それ本気で言ってるの?」


 愕然としたセナの表情を前に、京子は逃げるようにうさぎの抱き枕で顔を覆った。

 この一月というもの、キーダーの急な増員や戦闘の事後処理に管理部門はきりきりまいの忙しさで彼女とは挨拶程度の会話しかしていなかった。


「だって。行かないで、って泣くわけにはいかないでしょ? どうにもならないんだし」

「だからって、どうぞ行ってきてくださいって平気な顔で送り出すのは冷たすぎるわよ!」


 勢いに気圧されつつ、「でも……」とうさぎ耳の隙間から様子を伺うと、セナはキッといつもに増して整えられたアーチ型の眉を寄せた。


「でもじゃない! 今日出発なのよ? てっきり毎晩桃也くんにベタベタ泣きついてると思ったのに、一ヶ月も何してたのよ。まさかよそよそしく別の布団に寝てたとか言うんじゃないでしょうね」

「そ、それはないけど」


 いつも通り同じ布団には寝ているが、彼に一度も涙を見せることはなかった。


「昨日、二人でお墓参りに行ったんでしょ? どうだったの?」

「どう、って。普通に……」

「普通に手を合わせて帰ってきたの……」


 がくりとセナが頭を下げる。透き通るような頬が、ぷるぷるっと震えているのがわかり、京子は視線を逸らしてテーブルの上の水筒を手に取った。


「それ、桃也くんが?」


 不満に満ちた顔を起こし、セナは深い溜息を漏らす。

 今朝最後に桃也が用意してくれた水筒の中身は、大分前に一番好きだと伝えたメープルシロップの入ったほんのり甘いコーヒーだった。一口飲むとホッとする甘さが口いっぱいに広がる。その温かさに決心が鈍ってしまうような気がして、京子は水筒の口を締めた。


「淋しいって泣きついて、鬱陶しいと思われたら、別れ話になるかもしれないでしょ? そんなの嫌だよ」

「京子ちゃんが泣くのを面倒に思うようなら、京子ちゃんを好きになんかならないわよ。遠慮ばっかりしてると、心が離れちゃうわよ」


 「忠告」と添えて、セナは京子を睨んだ。


「桃也くんカッコイイから、一年も向こうに居たら北陸の若い施設員に寝取られるわよ」


 ピンクの唇を尖らせるセナに、京子は「それは嫌ぁ!」と、涙目でうさぎを抱き締めた。


「んもぅ! そんな人形に泣きつかないで、桃也くんの胸で泣きなさい!!」


 京子はきゅっと目を閉じ、ふるふると首を震わせた。


「何ならコージさんに頼んで、一緒に現地まで送ってくれば?」

「やめてよ。そんなことしたら、余計踏ん切りがつかなくなる。それにマサさんと彰人くんもいるんだよ? 難易度が高すぎるよ」


 狭いヘリの中でその面子では桃也に泣きつくどころの話ではない。セナは「それもそうね」と人指し指をビシッと立て、京子に念を押す。


「とにかく。素直になりなさい!」


 うん、と返事はしたものの、どう送り出していいのかはさっぱりイメージできなかった。

 笑顔で送り出すという一ヶ月間築いてきたシミュレーションを駄目出しされ、見送りの言葉さえ思い浮かばなくなってしまう。


「ごめんね。京子ちゃんの気持ちを掻き乱すつもりじゃなかったんだけど」


 ふと目に入ったセナの表情が悲しそうに歪んで見えた。けれどそれはほんの一瞬で、見間違えたかと思うほどだ。


「京子ちゃん、一年は短くなんかないんだよ? だから……」


 何か言い掛けたところで、ドンドンと部屋の扉が騒々しく叩かれた。


「会議終わったぞ、すぐ出発だ」


 扉越しに急ぐマサの声に、「はい」と京子は返事する。

 別れの時は唐突に訪れる。彼の声に急にその実感が沸いてきて、京子はうさぎを抱く手に力を込めた。


「いよいよ……か。セナさん、さっきのは?」


 途切れた言葉を尋ねるが、セナは、


「ううん。京子ちゃんが後悔しないように送ってあげて」


 と立ち上がり、「行こうか」と扉を開けた。


   ☆

 アルガスの屋上は清清しい春の陽気に包まれていた。

 副操縦士と共に、既に操縦席にスタンバイするコージの愛機の前で、出発の三人と先に来た綾斗が二人を待ち構える。


「あれ。爺来てないの?」

「若いのだけでどうぞって言われちまってな。下でガミガミと見送られてきたトコだ」


 疲れ顔をアピールするマサを京子は「お疲れ様」と労った。


「これ平次さんから、みんなで食べて下さいって預かってきました」


 綾斗がよいしょと手にしていた紫の風呂敷包みをマサに渡した。

 縛った布の隙間に重箱が覗いている。昼時を迎えるアルガスで、きっと平次は今一番忙しく厨房を駆けずり回っていることだろう。


 「サンキュ」とマサは両手で受け取った昼食に鼻を当て、満足気な表情を浮かべてヘリの中へ積み込んだ。

 京子はマサの後ろで彰人と並ぶ桃也をぼんやりと見つめていた。本当に彼は行ってしまうのだろうか。

 ふと重なった彼との視線にたじろいで、京子は思わず下へ目を逸らした。


「京子さん? どうしたんですか?」


 うつむく京子を心配して、綾斗がそっと耳打ちしてくる。「何でもないよ」と顔を起こすと、桃也が何か言いたそうにこちらを見ていた。

 全身に緊張が走り、京子はぎゅっと唇を噛む。


「皆さん気をつけて行って来て下さいね。やよいさんにもよろしく伝えて下さい」


 はきはきと送り出す綾斗は戦闘で壊れたメガネを新調し、以前とは少しだけ雰囲気が違って見えた。丸みを帯びたフレームの効果で、表情が柔らかくなったように見える。

 自分も何か言わねばと京子が言葉を探していると、横からセナが前へ出た。


「彰人くん、桃也くんと喧嘩しちゃダメよ。雅敏さんも気をつけて」


 「分かりました」と微笑む彰人に重ねて、マサが「おぉ」と歓喜する。彼のセナへの一方通行の愛は、まだまだ健在のようだ。

 マサは左手を自分の頭に当てて破顔する。


「いやぁ光栄だなぁ。セナさんが俺の為に見送りに来てくれるなんて」


 あぁまた始まったと、京子と綾斗が顔を見合わせると、


「そうよ」


 予想外のセナの言葉に、聞き間違いではないかと耳を疑う。

 しかし、それは言われた本人が一番驚いたようで、マサは呆気に取られた表情で、


「そう……なんですか?」


 思わず聞き返すマサに、セナはきまり悪そうに頬を染め、きつく彼を睨み上げた。


「だから……。待ってるから。きちんと仕事をしてきて下さい」


 言葉を噛み締めるように頷いて、マサは「はいっ!」と武者震いする腕を高く掲げた。


「よっしゃああああ!」


 春を夏に変えてしまいそうな、熱く力強いガッツポーズだ。


「京子ちゃんも、ちゃんと伝えるのよ?」


 セナにそっと促され、京子はぐっと息を呑み込む。


「じゃあ、僕は先に下りますね。皆さん気をつけて」


 二人の様子に気付いた綾斗が、気を利かせて一足早く屋上を後にすると、「私も」とマサの期待を裏切ってセナも即行屋上を後にしてしまった。それでも彼女を送るマサの顔は満足そうだ。扉が閉まるまでその背を見つめ、「じゃあな」とヘリへ乗り込んでいく。


「京子ちゃん、僕等に遠慮しなくていいからね」


 悪戯っぽく笑い、彰人は「バイバイ」と手を振ってマサの後に続く。

 シートに座った彼は窓の奥でもう一度京子に手を振り、反対の方向へと顔を向けた。


 桃也と二人きりになってしまった。笑顔で送り出す予定だったのに、いざその時が来ると何も言葉が浮かばず、泣くまいと思うと彼の目を見ることさえ出来なかった。


 出発の時間。

 ヘリのエンジン音に急かされて、刻々と迫るその時に焦りを覚える。

 行かないでと言ったら彼を困らせてしまう。淋しいと言ったら、きっとそのまま泣き崩れてしまう。

 答えを求めるように視線を上げると、桃也が「どうした?」と京子を待った。


 ――「一年は短くないんだよ」


 セナの言った言葉の意味を強く噛み締める。後悔の無い様に。気丈にマサを送り出した彼女もまた同じ想いだったのかと思うと、泣くわけにはいかなかった。


「とう……や。気をつけてね」


 口を開くだけで目頭が熱くなる。

 それだけ言うのが精一杯で、京子は強く瞬いて、彼の目から視線を下げた。けれど耳に入ってきたのは、桃也の短い溜息だ。


「ばーか」


 吐き捨てるような声に顔を上げると、呆れたような表情が京子を見つめていた。


「ったく。そうじゃないだろ?」


 桃也は組んだ腕を解き、「ほら」と微かに笑って見せる。

広げられた腕に涙がとめどなく流れ、京子は飛び込むように彼の胸に顔を埋めた。子供のように声を上げ泣きじゃくる京子を、桃也は強く抱きしめた。


「一人で無理するなって言っただろ?」

「淋しいよ。行かないで」


 それが叶えられないことだと分かっている。だから、口にする事が出来なかった。


「たまに帰ってくるから、一年だけ我慢してろ。そしたらずっと一緒に居てやる」


 縋りつくように頷いて、彼の上着を握り締めた。うっすらと鼻腔をくすぐる彼の匂いを名残惜しく感じてしまう。


「頑張って。無事に帰ってきてね」

「あぁ。お前も元気でいろよ」


 見上げる彼の顔に、涙いっぱいの笑顔で「うん」と答える。

 最後のキスは、ほんの僅かの時間だった。

 お互い見合わせた顔に微笑んで、もう一度きつく抱きしめ合った。


 END




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