30話 キーダーからバスクになるということ
靴はヒールからスニーカーへ。腰には蝶罵刀、最後に足首の包帯を確認すると、天井の向こうに激しい気配を感じた。
「屋上か?」
一瞬遅れてドンという強い衝撃があり、ガタガタと壁が軋んだ。
京子は階段の途中で壁と桃也に挟まれるようにしゃがみ込む。
「落ちるなよ」
手摺を握る桃也の腕が力強く京子を支えた。揺れはすぐに収まったが、天井に蠢く気配は更に強まっていく。
「外に出よう」
正面入口まで行くと、扉の内側を護る二人の護兵の真ん中で、マサが京子を仁王立ちで待ち構えた。
敬礼する護兵たちは窓から落下したのとは別の顔ぶれだ。
「マサさん、今の衝撃は屋上から?」
司令室で質問攻めにあっていると思ったが、予想以上に早く解放されたようだ。
「そうだ。出れるか?」
「出るよ。オジサンたちには何か言われた?」
「そっちは大したことなかったよ。まだ俺はアルガスに必要とされてるみたいだ」
マサの表情が心なしか嬉しそうに見えて、京子は「了解」と短く安堵した。
「この建物なんか、壊しちまっていいからな? これ以上被害を外へ出さない努力をしろよ」
最初の鉄柱を外に出してしまった事を思い出しただけで心が痛い。
「うん。さっきは、ごめんなさい」
「やっちまったもんは仕方ねぇよ。その為の避難だからな。あと、桃也は下に潜ってろ」
「はあっ? 何でだよ。ボロボロの京子を行かせて、俺に避難しろっていうのか?」
マサの指示に、桃也は声を荒げた。
「今のお前なんて、ただの足手纏いだ。そんな奴が居たら、京子だって心が乱れるだろう?」
「俺だって戦える。ここで逃げたら、何の為にヘリ飛ばしてもらったのか判らねぇよ」
強く訴える桃也に、マサは冷静に「違う」と首を振る。
「京子を泣かせるな」
「そんなつもりは、これっぽっちもねぇよ」
衝動を堪えるように桃也は自分の拳をきつく握り、京子を見下ろす。
問い掛けるような彼の視線に、京子は唇を噛み目を逸らした。
彼をこの扉の向こう側に行かせたくはない気持ちは、マサの言う通りだった。
けれど。
彼の意思を虐げる事はただの私情に過ぎないのではないか。
もし彼が恋人でなかったら、自分はどう答えを出すだろうか。
「京子はどうしたい?」
マサに問われて俯くと、再び天井が轟く。
屋上には綾斗がいる。彼はまだ高校生だ。彼は命を掛けて戦うと言っていた。大舎卿だって、ベテランとはいえ忠雄よりも年上なのだ。
「ねぇ。桃也は今、何ができるの? 蝶罵刀に刃を付けることは?」
「あぁ。物を飛ばしたりするのはまだうまく出来ねぇけど、それ以外なら一通りやれる」
「……そう。じゃあ、頼ってもいいかな」
「京子……いいのか?」
困惑するマサに、京子は小さく笑ってみせる。桃也の気持ちを受け入れる事も彼を好きだと言う覚悟なのかもしれない。
それが、キーダーを選ぶという事なのだと思うから。
「お前等……こういう時だけど、入りたての時くらい我儘言ったっていいんだぞ? カッコつけるなよな。本当なら俺が一番戦いたいんだからな。けどやるって決めたなら俺の分も暴れてこいよ」
呆れ顔のマサに、京子と桃也が「了解」と声を合わせた。力を失いトールとなったマサが桃也へ装備を全て譲った覚悟を、しっかりと受け止めなければならないと、そう思う。
「護武運を」と再び敬礼する護兵に見送られ、京子と桃也は外へ出た。
暗がりに目を凝らすと、大舎卿の姿があった。屋上を見上げるその視線を追って後方を仰ぐと、ぶつかり合う光が見えた。
「父親の方だな」と桃也が呟くと、大舎卿が「そうじゃ」と眉を潜める。
「綾斗が一人で戦っているの?」
「見えるか? 奴の作る壁が、柵のギリギリで防いでおる」
人の姿は見えないが、確かに薄い膜が張り裂けんばかりにビリビリと音を立て、大きくしなっているのがわかった。それと同時に、彼はバスクである浩一郎と戦っているのだ。
綾斗一人でまともに戦える相手だとは到底思えない。
「息子のほうが上に居ないとなると、わしはここを離れられん」
「私が行くよ」
桃也を促し、先を急ごうとする京子に、しかし大舎卿は「まて」と声を上げる。
「綾斗は思っている以上に強い。信じろ。そして京子、わしの銀環を外せ」
目の前に伸ばされた左手。
「外すってどういう事?」
こんな時にトールになるというのか。一瞬そう思ったが、すぐにそうでないことに気付き、京子は「えっ」と声を漏らした。
「力を解放させるつもり?」
つまりキーダーがバスクになろうと言うのか。そんな行為は浩一郎の件以外に聞いた事がない。
キーダーは銀環によって力の暴走を防ぎ、心身へ負担がなくなるように制御されている。
生まれながらにバスクとして育った人間は、彰人や桃也のように自信の耐性が出来上がるが、生まれてからずっと銀環を付けているキーダーは、それを外すことで本来数倍の威力だと言われる自分の力を制御できずに大暴走を起こすと教えられている。
「浩一郎ができたんじゃ。何も臆する事はない」
「無茶だよ……彰人くんのお父さんだって、寝込んだって言ってたでしょ?」
「京子、時間がない! 綾斗を見殺しにする気か」
見上げる屋上。放出する強い気配がビリビリと体中に纏わりついてくる。
考える暇はないのか。
大舎卿は英雄だ。経験も豊富。きっと、大丈夫――。
両手で大舎卿の手を取り、地面に腰を下ろす。キーダーの銀環を外すのは初めてだが、それだけなら難しい事はない。
大舎卿の銀環に右手をあてがうと、ほんのりと熱を感じた。力を少しずつ出していくと徐々にその熱が上昇し、熱いと感じるほどになる。六十年以上彼と連れ添った銀環は、細かい傷が全体に広がり、艶が殆ど無くなっていた。
「爺、死んじゃ駄目だからね」
「わしは、死なん」
呟いた大舎卿の表情が険しくなる。京子もその気配に気付いて、視線だけを彼に向けた。
「やめておいたほうがいいですよ」
暗闇からのんびりと現れた彰人が、二人を見て忠告する。
今まで何処に居たのだろうか。
「お前、何考えてるんだよ」
遮るように、桃也が彼に詰め寄った。
「別に。心配してるだけだよ。京子ちゃんも無事で良かった」
浩一郎のアルガス襲撃の真っ只中、彼の息子であり本来の敵である彰人と、どうしてこんな会話をして居るのだろう。
しかも、全然無事ではない。こうしている間も地面に伏せてしまいたいのを必死に堪えている。痛みの現況は彰人との戦闘だというのに。
「父さんは銀環を外して大分苦しんだらしいので。ご老体には余計きついと思います」
「爺、やっぱり……」
離そうとする京子の手を右手でガシリと押さえ、大舎卿は彰人を睨み付ける。
「何がご老体じゃ、ふざけるな。わしは死なんと言ったじゃろう。それよりお主、何をぼんやり見ておる。今攻撃して来れば、わし等なんて容易く消す事が出来るぞ」
「別に焦る事はないですよ。じっくり、行きましょう」
ぼおっと火が点いたような音を立て、彰人の手に青白い刃が現れる。
「俺がやる。京子は大舎卿を、早く!」
「君はキーダーになったんだ。折角バスクだったのに、銀環をするなんて勿体ないね。京子ちゃんの為だとか思ってるの?」
「うるせぇ。お前に言われる筋合いはねぇよ」
挑発する彰人に桃也は星印の付いた蝶罵刀を握り、構えをとった。刃を生成する様を目の当たりにして、京子は込み上げる衝動を堪えた。
「小僧、任せるぞ」
「はい」と大きく返事して、桃也は剣先を彰人の目の前に突き付ける。
「お前には殺らせねぇ」
いきり立つ桃也に、彰人は剣を両手で構え素早く地面を蹴った。