23話 初めて会った日の記憶
物音に気付き、京子はそっと部屋を出て右隣のドアを叩いた。
施設員の避難も大分済み、ひっそりとした廊下はいつもより薄暗く感じられる。
返事はないが、入口横のライトが青になっているのを確認し、「入るよ」と一言添えながら中へ入った。
キーダーの部屋は全部同じ間取りだが、彼の部屋だけ何故か和室だ。
「お帰りなさい」
昇り龍の掛け軸が下がる床の間の前にいるのは、制服姿の大舎卿だ。靴を脱いで上がり込む京子に身体を向け、正座を崩して胡坐をかく。
京子は大舎卿の前に正座し、うつむいたまま「ごめんなさい」と頭を下げた。
「謝られる覚えはない。やはり浩一郎の術中にあったんじゃな。気付かなかったことなんぞお主の非でないわ」
京子は顔を起こすが大舎卿の顔を見ることが出来なかった。珍しくきちんと結ばれた緑色のタイに視線を置く。
「夢の話を聞いたぞ」
そんな情報まで伝わってしまっているのが恥ずかしくなって、京子は焦りを抑えるように唇を噛んだ。
「浩一郎の力が不完全だったということじゃ。お前の感覚が鈍いのは、事実を消されたことで、感じ取ることに脅えているからじゃろう。もしかすると、これをきっかけに感覚が戻るかも知れんぞ」
浩一郎に記憶を消される前、自分の力はどうだっただろうか。彰人以外、身近にバスクは居なかったし、十五歳になるまでアルガスに来た事もなかったから、感じ取る機会もなかった。
感覚が戻るという状態が想像付かない。
「けど、もう間に合わないよ。バスク相手に戦うなんて、勝ち目はあるのかな」
「向こうに余程自信があるのかは知らんが、お主も今までずっと訓練をしてきたんじゃ。勝ちに行けばいい」
「相手はバスクが二人なんだよ?」
キーダーとバスクでは力の差がありすぎる。
どうして自分は銀環をしているんだろうと疑問にさえ思ってしまう。制御され押さえ込まれたキーダーの力三人分で、フルパワーのバスク二人を制することができるのだろうか。
「わしは、浩一郎がアルガスを去ってからの三十年、ずっとこの日のために生きてきた。この日のためにアルガスに居た。アイツの顔を思い出すだけで、血が滾るわ」
大舎卿が笑った気がして顔を上げると、得意気な表情が「恐いのか?」と茶化した。
「恐いよ。訓練してきたけど、本当に戦うなんて思ってなかった」
「戦いたくないなら、今からでもトールになればいい」
「違う、そうじゃないの」
あっさりと放つ大舎卿の言葉に、京子は抵抗する。心のどこかで燻っている本心を見抜かれた気がして、打ち消すように訴えた。
「そんなに重く考えるな。キーダーを選ぶということは義務じゃない。わしは浩一郎のしようとしてることだって非難はしない。わしらの力は国のために授かったものでないことは頭に入れておけ。ただ秩序に従ってここを選んでいるだけじゃ。ここに居て、国の為に力を使ってやるくらいの心構えでいればいい」
大舎卿はふんと腕を組み、のけぞり返る。
「キーダーでいたいなら、仕事をしろ。分別くらい付くじゃろう?」
アルガスを守ること。核を守ることが今の仕事だ。そしてそれは自分の命をも厭わない。
分かっている。分かってはいるけれど。
「そういえば、子が生まれたんじゃと?」
再び俯くと、大舎卿はわざとだろうか、話を逸らした。
「うん。女の子。綾斗と行って来たよ」
「別に難しい事はなかったじゃろう?」
「そうだね。とりあえずマニュアル通りにやってきた」
病院に行ったのがもう何日も前のような気がした。包み込んだ小さな手の感触が蘇り心がほんわりとするが、同時に美和の言葉がそれを貫く。
――「謀反の子にする気もないので」
「銀環を結ぶのは簡単だったけど、心が痛かったよ」
「……そういうこともある」
「ねぇ爺。私の時はどうだった? 私のお母さんは」
同じ様に泣いたのだろうか。娘がキーダーになることを嫌がっただろうか。
病気で死んでしまったが、生前の母親はとても勝気な人だった。死を宣告されて一年程病床に居たが、泣き顔なんて一度も見たことがなかった。
「お主の時か。申し訳ないが父親の印象が強くて、あまり母親の事は覚えていないんじゃ」
忠雄については、言われなくとも想像できる。舞い上がって小躍りでもしたに違いない。
もう二十年以上前の話だから覚えていないのも仕方ないが、残念に思う。
しかし大舎卿は首をひねり、「そういえば」と顎を掻いた。
「あれは結んだ後じゃった。それまで騒々しかったお前の父親が妙に大人しくなっての。母親と共に神妙な面持ちで頭を下げてきおった」
「えっ? お父さんが……?」
「あぁ。宜しく頼みます、とな。その時にあの酒を貰ったんじゃ」
かすり模様の半纏を着た忠雄の姿を思い出し、京子は小さく笑みを零す。
「大事にするんじゃぞ」
印象に残っていなかったのなら母親はきっと父親の隣で笑顔だったに違いない。
自分らしく生きればいいと、そう母親が言ってくれそうな気がした。
彼女がそうであったように。
いつも豪快で男勝りだったが、父親の側ではいつも嬉しそうに微笑んでいた。
「ありがとうね、爺」
戦のことを少しだけ忘れて、ほんの僅かな思い出に浸る。
頑張ろうという意思に立ち上がり、京子は再び心を疼かせた。
幼い頃記憶の回想に彰人の姿を登場させてしまったからだ。