2話 女子トークと水筒の珈琲
☆
始発のバスを乗り継いで目的地が視界に入る頃、町はようやく朝の色に包まれる。
下りたバス停の側にある古い花屋の店主が、箒の手を休めて腰を伸ばし「おはよう」と声を掛けてきた。
普段は店が開いていない時間だが、最初の年にまだ下りたままのシャッターを叩いたら、次の年から店主が朝支度を終わらせて店の前で待っていてくれる。
白髪混じりで初老の店主は大舎卿のような威圧感もなく、おっとりとした雰囲気で物腰も柔らかい。京子の父親とも同年代だが、タイプはまた別だ。
下がった目尻を更に下げて微笑み、店主は「こちらでよろしいですか?」と台に置いてあった花束を京子に差し出した。白い花がいいと言って、最初の年に見立ててもらったカサブランカだ。これもまた京子の来店を待って準備されている。
キンとした空気に広がる甘い香を嗅ぎながら、京子はゆっくりと坂を上った。
時間のせいもあるが、相変わらず静かな墓地だ。
丘から見下ろす先には、白銀に光る慰霊塔の頭が見える。向こうは総理大臣クラスの役人を迎える為に、朝から式典の準備に勤しんでいる頃だろう。
慰霊塔に大きな祭壇。当事者の誰もがそこに居ないのに、その場所に執着し、祈る事で事実を美化していこうとする国の対応に吐き気すら覚える。
けれど、逃げているのは自分のほうだ。この場所に来る事を理由に、あそこに行けないことを正当化しているのは自分なのだ。
「ごめんなさい」と。
墓碑に手を合わせて祈る言葉は謝罪しかない。刻まれた三つの名前を目でなぞり、「安らかに、お眠り下さい」と嗚咽する。脳裏に巡るあの日の光景は、七年経っても尚、鮮明に京子を支配していた。
「また、来ます」と涙と鼻水に濡れたタオルを鞄に押し込んで、深く頭を下げる。
手向けた白い花束の脇に、先客の残した花束があった。ピンク色のガーベラは、中に眠る少女が好きだった花で、京子の持参したカサブランカと同じ白いリボンが結ばれている。
彼もまた現場を訪れることなく、毎年ここに同じ花をあげて行く。
時折吹く風が、今日は少しだけ温く感じる。京子はグルグル巻きにしていた首のマフラーを解き、風に乗って運ばれてくる鎮魂歌を唱えるように口ずさんだ。
☆
数駅向こうの鎮魂ムードとは打って変わり、電車を下りて改札を抜けると豪快な和太鼓の音が響き渡っていた。駅に併設された商業ビルが入口に大きな角松としめ縄を飾り、一足早く正月ムードを漂わせている。
青灰色に整備された石畳を歩いて、京子はその奥に構えられた背の高い門へ向かう。
少しずつ変わるこの町を眺めながら毎日を過ごし、もう八年が経とうとしていた。最初来たばかりの頃は、大きな工場が並ぶ雑然とした町だったが、小さい商店をまとめたビルが駅の横にできると、人も増え町並みも華やかになっていった。
先月開店したお洒落なベーカリーを横目に機械工場を壁伝いに歩くと、すぐにその門は姿を現す。
京子の背の二倍はある両開きの黒い格子門は、同じ高さの塀で囲まれた敷地で唯一の出入り口だ。右側の塀には『ALGS』という施設名を示した茶色の銅板がはめ込まれている。
ここは非人道的『力』から非人道的『力』で日本を守る、国家組織の中枢だ。
耳当つきの帽子に濃紺の外套を着た大柄な男が二人、門を衛って立っている。二人は京子を見つけると「おはようございます」と口を合わせて敬礼した。
「おはよう。今日は寒いね、お疲れ様」
京子は立ち止まり、開かれる門を待った。三十年変わらないと言う手動の門は、本部に配属されている十人の護兵が交代で二十四時間の護りをしている。彼等はアルガスで唯一「兵」と呼ばれる存在だ。
ノーマルでありながらキーダーよりも厳しい訓練を乗り越えた精鋭で、各々が銃を携帯していた。
中へ入ると冬色の芝生が広がり、その中央を五十メートル先の建物まで広いコンクリートの道が伸びている。奥行きのある立方体の茶色い施設は四階構造になっていて、窮屈な印象を与える小さな窓が並んでいた。
建物の少し手前には、アルガスのトップである長官の胸像が、これ見よがしに建てられていた。接待という名目で殆ど本部に居ることはなく、年に数度しか顔を合わせることがない割に口だけは達者な彼が、京子は苦手だった。おまけに重度のナルシストである。彼の要望で作られた胸像は全支部に建てられていて、その偽善を表すかのような微笑みに、京子は毎度睨みをくれていた。
京子は正面扉の前に立つ護兵に挨拶し、中へ入る。
目の前の大階段を上り、二階の西奥から三番目が京子の部屋だ。入口横の小さなパネルにパスワードを入力すると、小さな電子音と共に丸いランプが赤から青へと変わる。ドアの解錠と共に空調がオンになった部屋は、温度管理された廊下とは対照的に、外の温度のままひんやりとしていた。
京子がバッグから取り出した水筒をテーブルに置くと、部屋の扉がノックされる。
返事を待たず「入るわよ」の声と同時に入室して来たのは、管理部門のセナだ。京子より二つ年上の女性で、男が多いアルガスの女神的存在である。
「おはよう」と言って向かいの椅子に座ると、持参した花柄のマグカップに入ったコーヒーを飲みながら「どうだった?」と、くりっとした丸い目で京子を覗き込んだ。
「どうって。えっと、いつも通りお墓参りに行ってきた……けど」
「いつも通りって、やっぱりまた一人で行ったの? カサブランカ持って」
がっくりと溜息を吐き出すセナに気圧されて、京子は慌てて水筒の蓋を開けた。キャラメルの甘さを滲ませたコーヒーの湯気に鼻を寄せ、一口飲むとまだ熱い温度が冷えた身体に広がっていく。
「それ、桃也くんが用意してくれたの?」
色々と見透かされている。
京子にとってセナは、頭が上がらない数少ない人物の一人だ。
水筒のコーヒーは京子と同棲中の恋人である桃也が朝用意してくれたものだ。
セナは「もう」と頬を膨らませ、ボンと音を鳴らしてテーブルに両手をつく。
「そんなに仲がいいなら、一緒に行けば良かったじゃない。同じ場所に行くのに、どうして時間をずらしてバラバラに行くのよ」
「だって、何か気まずくて」
朝起きると既に彼の姿はなかった。朝食のサンドイッチとコーヒー入りの水筒を置いて、彼は先に墓地へと向かった。
同棲を始めてから二回目の大晦日。去年も家でその話題が上ることはなく、何事もなかったかのように一日が過ぎて行った。
墓に刻まれた三つの名前は、彼の両親と四つ年上の姉のものだ。
「七年経ったのよ? そんな、お互い腫れ物に触るようにしてるのおかしいわよ」
腫れた京子の目を見て、セナはピンク色の唇を尖らせた。
「恋人なんでしょ? そんなに泣きたいなら二人で行って、彼の胸で泣いて来れば良かったじゃない」
「ちょっと」と飲んでいたコーヒーを噴いて、京子は慌てて口を拭った。
「恋人、だけど……」
京子はテーブルに点々と散った茶色の滴をティッシュで拭き、大きく溜息を吐き出した。
「何をどう切り出していいのかも、切り出した後にどうしていいのかも分からないから」
「んもぅ」と唸ったセナが、整ったアーチ型の眉をぐっと寄せる。
「やっぱり昨日、電話すれば良かった。朝から居ないし、雅敏さんも朝会ったのに何も教えてくれないし。昨日の報告書のまとめやら何やらで、言うの忘れちゃったじゃない」
セナはアルガスの中で唯一『マサ』を本名の『雅敏』と呼ぶ。彼女に恋焦がれるマサにとってはこれ以上にない喜びだが、当の本人には全くその気がないらしい。以前京子が不思議がって聞いた事があるが、「年上だし、佐藤って苗字は他にもたくさん居るでしょ?」と、あっさり返されてしまった。
「分かったよ。来年までは何とかするから!」
京子は苦し紛れの決意表明をするが、それは逆にセナを燃やす火種となってしまった。
「来年って! 恋愛に来年なんて保障はないの! それとも京子ちゃん、まだ初恋の人が忘れられないの?」
言われて京子は、思わず苦笑して手を横に振った。
「それはないよ。もうだいぶ前の話だって言ったでしょ」
昔彼女に話した恋愛話。何年も前に諦めた学生時代の話なのに、未だにその相手の夢を見ている。未練がある自覚はないが、夢から目覚めるたびに気持ちが過去を辿ろうとするのだ。
「だったら、もっと桃也くんに頼ればいいよ。付き合ってるって、自分が遠慮しなくていい相手かどうかを見極めるってことなのよ?」
「そうなの? けど私、頼ってないのかなぁ……」
両手で握った水筒に視線を落とす。毎朝用意してもらうコーヒーに感謝しつつ、ふと思い出す笑顔に口元を緩めると、すかさずセナが、
「家事してもらうのは別の話よ? 桃也くんは家政婦じゃないんだからね!」
声を荒げるセナに、京子は「ごもっともです」とがっくり頭を下げる。
脳裏に浮かんだ桃也の顔に謝りつつコーヒーを一気に飲み干すと、セナがマグカップを手に立ち上がった。
「大晦日の白雪の事、京子ちゃんが悪いなんて思ってる人は誰も居ないんだからね」
そんな言葉を残して、部屋を出ていく。
「……ありがとう、セナさん」
バタンと閉まるドアに、京子は小さく笑顔を返した。