19話 ハンバーグとカキフライ
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浩一郎の件で東北支部へ向かった大舎卿と、冬休みを終えて新学期が始まった綾斗のせいで、ここ数日一人の時間が多かった。訓練を終えた京子は上着を脱いでタイを外し、訓練室の壁に寄り掛かって水筒のコーヒーを飲む。
「薄すぎ……」
桃也の真似をして自分で淹れてみたが、同じ豆を使っているとは思えないほどの残念な味に肩を落とす。
この一週間、最初は桃也の居ない虚無感に泣きそうになってばかりいたが、三日過ぎてようやく涙の衝動が収まった。彼への気持ちは変わらないが、辛いと思う感情を訓練にぶつけると、少しだけ前向きになることができた。
京子は「行くか」と気合を入れて訓練場の真ん中に立つ。
汗の滲む火照った身体には、いつも寒いと感じるここの空気が心地いい。静かに深呼吸して京子は目を閉じた。
塞がれた視界に聴覚が過敏になる。ただ静かだと思っていたのに、遠くの足音や空調の音、屋根を叩く風の音、自分の呼吸さえ音として入ってきた。
そんな中で力の気配を読み取る。訓練場は溢れるほどの気配が散らばっていた。
一度大きく力を使うと、その場所に気配が留まり、数日かけて消えていく。故にほぼ毎日キーダーが訓練しているこの場所には絶えず気配が舞っていた。
特定の場所での気配を読み取ることはできる。けれど京子にとって問題なのは、キーダーやバスク本人の気配だ。いつ現れるか分からないバスクに、毎日敏感に警戒していなければ気付くことができないのか。
人の気配を感じて目を開けると、「やってるな」と半袖ジャージ姿のマサが入ってきた。
「ねぇマサさん、マサさんは嗅ぐの得意だった?」
「嗅ぐ練習してるのか? 俺は爺さんやお前と同じで、破壊系の能力を使うほうが好きだったぜ。けど、お前が苦手なのは感じ取るほうだろ。いいか、感じ取ることは嗅ぐことじゃない。全然別だ」
京子の前に立ち、マサは腕組みして片方の手を自分の頬に押し当てた。
「例えばだ、今お前が繁華街の駅に下りて、人通りの多い交差点で信号待ちをしていると仮定する。交差点の向こう側には気配を制御していない無自覚のバスクがいるが、お前は気付かない。けど信号が変わって渡り始めると、人の波に飲まれてそいつと肩がぶつかっちまう。そしたらお前はどうなる?」
「……バスクだって、気付く?」
気配を故意に消していなければ、触れることで分かる筈だ。
「そうだな。じゃあお前がその時、綾斗と一緒に居たとする。そしたら綾斗は信号待ちをしている時点でバスクに気付くんだ」
「流石、綾斗」
それだけの人がいる中でバスクを感じることが出来るなど京子には想像もできない。感心して声を上げると、マサは腕を組み直し、
「そしてもう一つ。お前がそこで綾斗じゃなくて、桃也といたとする」
「桃也?」
「あぁ。こんな時例に出して悪いな。けど桃也だとしたら、その交差点じゃない、お前たちが駅に着いた時、バスクの存在に気付く」
京子が顔を上げると、マサが「そういうことだ」と人差し指を突き付けた。
「綾斗がキーダーで、桃也がバスクだからってこと?」
「そうだ。まぁ綾斗は優秀だから、もっと前に気付けるかもしれねぇけどな。銀環のないバスクの力はケタ外れだ。国がここまで管理したがる理由が分かるだろう? いいか、そしてそれは同時に反対の立場にもあるんだぞ。相手のバスクがもし覚醒していたら、駅に着いたお前に気付くだろう」
雪山での平野の力を思い出す。銀環で管理されているからと言い訳をすればそれきりだが、今のままの自分では、彼にはまるで力が及ばない。
「だから、自分を守る術を身に付けろ。気配なんて感覚で抑えられるもんなんだけどな。桃也にも俺は別に教えたわけじゃない。覚醒して、俺も桃也も本能的にできるようになったんだ」
「本能、って……」
力を覚醒して十年近くなるが、京子はいまだにそれができない。
「感じるのもそうだ。夕方の住宅街を歩いて、どっかの家の夕飯がカレーだ、って分かる程度の感覚だ。知ろうとしてカレーの匂いを求めなくても分かることだろう?」
理屈は分かるが、実際分からないのだからどうしようにもない。
「それとも、何かあったのか?」
京子は少し考えて、すぐ横に手を振った。大舎卿に猩々寺の話を聞いて、色々記憶を辿ろうとはしているが、未だに答えに辿り着かない。
「ないよ。爺にも聞かれたけど、見当がつかなくて」
「なら、覚えるしかないな。俺が教えてやれればいいんだが、どうするって方法がイマイチわからねえんだよ。大分前になくなっちまった力だしな」
自虐的に笑い、マサは入口を振り返る。コツリという足音がして甘い声が訓練場に響いた。
「京子ちゃん! ニュースよ、ニュース。大ニュース!」
「セナさん!」
顔いっぱいに喜びを表現するマサ。セナは興奮気味に細いヒールを鳴らして入ってくる。
桃也が居なくなってからの一週間、意気消沈の京子とは裏腹に、アルガスは公園でのことや平野の件で慌しく、セナとゆっくり話す暇もなかった。
セナはクリップで挟まれた書類を両手に握り締め、鼻息を荒くする。
「どうしたの、何かあったの?」
「何かあったのじゃないわよ! 生まれたのよ、女の子!」
「おぉ、本当か!」
「今報告があって。大舎卿がいないから京子ちゃんに、って」
京子は書類を受け取り、食い入るように目を通す。文字ばかりの内容でうんざりするが、一枚目で大体把握できる。キーダー候補の子供が出生検査に引っ掛かったらしい。
「近いね。電車で行っても二時間かからないくらいか」
「うんうん。大分久しぶりよね。しかも女の子! 是非キーダーになってもらわなきゃ」
前回は確か『大晦日の白雪』の少し前で、男の子だった。京子がキーダーになってから、今回が二回目になる。
「とりあえず、綾斗拾って行ってくるよ」
「うん。お願い。綾斗くんの制服クリーニングしてあるから、持って行ってあげて」
「了解。じゃあ、すぐ向かうよ」
書類に記された訪問の期日が今日になっている。
訓練室の隅から脱いだ上着と水筒を拾い上げると、「ちょっと待って!」とセナが京子を呼んだ。
「京子ちゃん、大丈夫? あんまり頑張りすぎないで。私も応援してるから」
心配そうに顔を覗き込むセナ。そっと捕まれた手がしっとりと温かい。
「桃也くんが、早く帰ってきますように」
祈るように瞬きする彼女に、女ながらに癒される。釣られて作った笑顔は自分も驚いてしまうほど久しぶりで、京子は「ありがとう」と微笑んだ。
☆
待ち合わせの店に行くと、既に綾斗の姿があった。
昼時のファミレスは相変わらず客で溢れていたが、綾斗の高校の最寄駅にあり、トイレに更衣室が付いているのでここを指定した次第だ。
昔京子も同じ高校に通っていて、よく利用していた。馴染みの店員は居なくなってしまっていたが、窓の向こうに小さく見える東京タワーの風景が好きだった。
「遅いですよ、京子さん」
窓際の端の席で空になったグラスを前に、綾斗は読んでいた本を閉じて鞄にしまった。
「出る時バタバタしちゃって。ごめんね、早退までしてもらってるのに」
訓練後の汗が気になって急いでシャワーを浴びてきたが、急いで髪を乾かしたことも空しく、予定の電車を逃してしまった。
「仕事ですから。それよりあんまり遅いんで注文しちゃいましたよ、日替わりランチ」
「ええええっ! ちょっと、カキフライ定食が食べたかったのに!」
「諦めて下さい」
十分の遅刻が災いして予定外な事が起きてしまった。時既に遅しで、京子が外套を脱ぐと、日替わりランチのハンバーグセットがジュウジュウと音を立てて運ばれてきた。
待ち合わせをここに決めてから、ずっと定番のカキフライ定食を食べようと思っていた。予告なしのメニュー変更に頭を抱えるが、湯気にまみれるデミグラスソースと半熟の目玉焼きに胃はテキパキとモード変更する。一口ですっかりハンバーグの虜だ。
「京子さんて、酒飲んでる時と食べてる時が本当に幸せそうですよね」
「本当に幸せだもん。ハンバーグ美味しいよぉ」
「そうですか」と綾斗は箸でハンバーグをつつきながら小さく笑った。普段余り見ない学生服姿の彼が新鮮で、懐かしくもある。
深緑のジャケットにえんじ色のネクタイは、京子の通って居た頃から変わっていない。
「ところで綾斗は気配読むの得意でしょ? 私がここに来たのはどこで分かったの?」
「京子さんですか? 店に入るくらいですかね」
やはりマサの言っていた横断歩道の例えは合っているようだ。
「それより今日の仕事、俺初めてで良く分からないんですけど、どうすればいいんですか?」
「最初は見てればいいよ。私も前の時はそうだったから。銀環結ぶのなんて滅多にないから、私もやるのは今日が初めてなんだ」
京子は鞄から書類を二冊取り出し、セナから預かった厚い方を綾斗に渡す。
「昨日の明け方生まれた女の子。父親は会社員、母親は産休中の看護士で第一子だって」
紙をハラハラ捲って確認する綾斗。
京子はドリンクバーから汲んできたメロンソーダを飲みながら、もう一つの書類を開いた。いつになく真剣な表情に綾斗が上から覗き込んでくる。
「マニュアルだよ。バスクの処理は何回かしてるけど、覚醒前の赤ちゃんは少し方法が違うの。私も前回は爺のを見てただけだから、自分でやるのは初めてなんだよ」
銀環の結び方と、家族への応対マニュアルだ。用紙三枚にびっしりと埋め込まれた文字に、頭がくらくらする。
蛍光ペンでマーキングした箇所をテスト勉強よろしく何度も何度も確認して、「はぁぁ」という溜息と共にテーブルに伏せる。
思った以上に緊張しているのが自分でよく分かった。
せめて大舎卿が居てくれれば良かったのに。彼の引退を押してはいるが、まだまだ側で指導して欲しいと言うのも本音だ。
「期待していますよ」
残りのハンバーグを食べきり、京子は「頑張ろう」と気合を入れて立ち上がった。