18話 彼が語った過去
☆
法廷もとい報告室前。
一時間の質問攻めの末ようやく部屋を脱出した京子は、よろよろと廊下のソファに崩れた。
「今日は三人とも機嫌が良かったですね」
先に報告を終えた綾斗が京子を迎えると、質疑担当の三人の男たちが中から出てきた。三人は綾斗の敬礼に、満足気な表情で手を上げて去っていく。
「まさかのキーダー確保だからね。年齢は置いておいても、一年後には東北支部にキーダーが入るってだけでアルガス全体がお祭り騒ぎだよ」
「東北はずっと空席でしたからね」
「まぁ嬉しいのは分かるけどさ。三人ともテンション上がりすぎて、眉毛なんて「熱出してまでご苦労様」って労ってきたのよ、気持ち悪い」
眉毛・髭・眼鏡で京子に呼び分けされている三人のうち、一番突っかかってくるのが眉毛だ。眉間の産毛で眉毛の繋がった彼は毎回京子を苛立たせるが、今日に限ってはすこぶる御機嫌で始終笑顔を振り撒いていた。
「それだけ京子さんが頑張ったってことですよ」
「綾斗にもいっぱい迷惑かけちゃったけどね。ありがとう」
「俺はいいですけど。それより」
ソファに座り込む京子の前に、綾斗は仁王立ちになって腕を組んだ。
「昨日ずっと泣いてたんですか? 顔が酷いことになってますよ」
「えっ、ほんと?」
京子は腫れぼったい瞼を片手で押さえた。
「ずっとじゃないんだけどな」
「ちょっとの顔じゃないですよ。あれから桃也さんには会えたんですか?」
「うん」と頷いて、京子は上目遣いに綾斗を伺った。
「あの後マサさんに話は聞きました。俺とセナさんは全部知ってます」
「そうなんだ。マンションに戻って桃也には会えたけど、その後色々あって出て行っちゃったの」
「出て行った、って桃也さんがですか?」
「うん。数日で戻るって書置きはしてあったけどね」
うな垂れる京子に綾斗は「そうですか」と呟く。
「一人で泣くくらいなら、俺のトコに来てくれれば良かったんですよ。話し相手くらいにはなれると思ってます。こんな時は泥酔したって文句言いませんからね」
「綾斗は優しいね」
「俺は京子さんより五つも下だけど、それでも俺にできることをしたいんです」
不服そうに拗ねる綾斗。見上げると、フレームの奥の瞳が寂しそうに歪んだ。
ひりひりと痛む目を擦り、京子は「甘いもの食べに行こうか」と彼を外へ連れ出した。
☆
チリンと音を鳴らす格子窓の扉を開けると、低めに響く声が「いらっしゃいませ」と二人を迎える。
大舎卿より少し若い、喫茶恋歌のマスターだ。
カウンターまで伸びる通路を挟んで、左右にソファ掛けのテーブル席が並ぶ昔ながらの喫茶店。昼にはまだ早い時間帯のせいか他に客の姿はなく、挽きたての香ばしいコーヒーの香りが漂っている。
壁には旅行好きのマスターが描いた葉書サイズの風景画が何枚も飾られていた。
カウンターに近い右側のテーブル席に座り、京子はマスターを呼ぶ。
「私はいつもので。それとプリンアラモードを二つ下さい。あとホットミルクをお願いします」
「かしこまりました」とサイフォンをセットしながら穏やかに笑むマスター。
アルガスの施設員も多く利用するこの場所で客を見守る彼は、もしかしたらアルガス一の事情通かもしれない。
「綾斗はここ来るの初めて? 残念ながらモンブランはないから、私のオススメね」
「ありがとうございます。こんな所があったんですね」
「私はよくサボりに来てるけどね」
先に運ばれてきた水を飲み、京子は大きく溜息を吐き出した。
マサが桃也の母親とここへ訪れたという状況を想像してしまい、何ともいえない気持ちになる。その母親はもうこの世にいないのだ。
「少しは落ち着きましたか?」
「ううん、全然。風邪は大分良くなったけど」
はっきりと答える京子に綾斗は苦笑する。
「私ね、この間も話したけど。ずっと『大晦日の白雪』の犯人を見つけて、敵をとってやろうって思ってたんだ。それなのに昨日の話を聞いて、どうしていいのかわからなくなっちゃったよ」
「仕方ないですよ。俺だって混乱しているんです」
「でもね、綾斗。事実を知って苦しいとか、桃也が可愛そうだとか思ったりもするけど、昨日流した涙は全然違うの。ただ、桃也が私を離れたことがショックだったんだよ。ずっと一緒に居た筈なのに、気付けなかった自分も情けなくて」
込み上げた涙を堪えて瞼に熱いおしぼりを押し付けると、店内に流れる恋愛ソングが、タイミング悪く失恋ソングに切り替わった。
「でも、帰るって残して出て行ったんなら、京子さんから離れて行ったわけじゃないと思いますよ」
そうは書いてあったが期間は曖昧だ。それに、次に会うのが彼の答えを聞く時なのだと思うと、会いたくてたまらない反面恐くてたまらなかった。
「男と女って、好きだけじゃダメなんだね」
「気を取り直せって言っても無理かもしれませんけど、指輪の事もあるし自信持って下さい」
――「それ見て俺の事思い出してくれたら、少しは立ち止まって冷静になれるんじゃねぇかって」
桃也に聞いた、指輪の意味。指輪を見てこくりと頷くと、綾斗が「そうだ」と手を打った。
「願掛けでもしてみたらいいんじゃないですか? ほら、京子さんが出張の時、桃也さんに電話しないのと同じですよ。この機会に願い事が叶うまでお酒を飲まないとか」
「き……禁酒ってこと?」
「飲みたいんですか……」
ハッと眉をしかめる京子に、綾斗は「もう」と呆れ顔だ。
辛さに浸っていても、桃也が帰ってくるわけでないことは分かっている。
「そう……だよね。ちょっと我慢してみようかな」
「泣くのも禁止ですよ? 男と二人の時に泣くなんて、抱けって言ってるようなもんなんですからね」
さらりと口にした綾斗の言葉に、京子は「え」とグラスの氷をグルグルと回す手を止めた。
「綾斗もそんなこと考えてたの?」
急な発言に動揺する京子。しかし綾斗は強く否定する。
「俺は違いますからね! けど、男なんてそんなもんですよ」
綾斗は子供を叱る親のように、ムッとした表情を見せる。
京子は慌てて水を飲み干し、「だよね」と呼吸を整えた。
「京子さんは、俺にそういう気分になって欲しいんですか?」
「ちょっと、変なこと言わないでよ。意識しちゃうでしょ?」
「俺は真面目に言ってるだけですからね?」
はぁ、と溜息を漏らす綾斗に、京子はぷんと頬を膨らませる。
「楽しそうですね」
銀のトレーを手に笑顔でやってきたマスターが、注文の品を並べていく。
「うわぁ、美味そう」
目の前に置かれたデザートに、綾斗の不機嫌な表情がパッと明るくなる。
信楽焼のカップに入った湯気の立つミルクと、白い陶器の器に入ったプリンだ。てんこ盛りの生クリームと果物の上にカラメルソースをかけ、綾斗は満足そうに頬張った。
「ね、美味しいでしょ? 私の大好物だよ」
プリンアラモードと特製ブレンドが、京子の定番だ。他にも幾つかメニューがあるが、殆ど食べたことはない。
京子はカラメルがけのクリームをいっぱいに口に入れ、流れ出したアイドルのラブソングを御機嫌に口ずさんだ。
扉の鐘がガラガラと激しく音を立てる。
マスターの「いらっしゃいませ」に京子が何気なく視線を向けると、見知った顔の男が一直線にやって来て、「やはり」と呟いて綾斗の隣にさっと腰を下ろした。
突然の登場にスプーンを置き、綾斗は「お疲れ様です」と背筋を伸ばす。大舎卿は「そんなに気張るな」と笑って、マスターに「いつもの」と手を上げた。
「爺どうしたの? よくここに居るって分かったね」
「仕事中にお前が行く所くらい大体見当が付くわ。それより話はマサから聞いたぞ。お前、小僧がバスクだということを、本当に気付いてなかったのか?」
不意打ちのように尋ねられ、京子は慌ててコーヒーカップを置いた。
「うん。爺は知ってたの? 知ってて止めなかったの?」
「小僧の力くらい、最初アルガスへ来た時から気付いておったわ」
すぐに運ばれてきたのは、何故か湯気の立つ湯のみだった。匂いに気付いた綾斗が「何ですか?」と首を傾げる。
「あぁ、昆布茶だ。特別のな」
「もぉ。喫茶店なのに、そんな我儘を」
京子が側にあったメニュー表を確認するが、昆布茶どころか緑茶の文字もない。
大舎卿は「ふっ」と笑って沸き立つ湯気を吸い込み、ズズズと音を立てて昆布茶を飲んだ。
「マサがコソコソと小僧を庇い立てしてるのは知っておったが、別にわしは何とも思っとらんかった。アイツが最善だと判断したんじゃろ? 小僧がもしマサを裏切るようなことがあれば、わしがケリを付ければいいだけの話じゃからな」
綾斗が斜め切りのバナナを口に運びながら、大舎卿に尊敬の眼差しを向けている。
「桃也は裏切るなんてしないと思うよ」
「もしもの話じゃよ。しかしな京子、それよりもお前が小僧の力に気付けないことは大問題じゃぞ。一緒に暮らして、裸の付き合いもあったんじゃろう?」
綾斗は思わずコーヒーを噴きそうになり、慌てて口を押さえた。
「ちょっと! そんな生々しいこと言わないでよ!」
京子は一気に頬を紅潮させ、興奮気味に立ち上がる。
「じゃあお主、ワシにセックスとかいう言葉を使えと言うのか? 節操がない」
白髪混じりの太い眉を吊り上げてギロリと睨む大舎卿に、京子はわなわなと唇を震わせる。
「そんなこと言ってないでしょ!」
「ちょっと、大声で何言ってるんですか! 二人とも落ち着いて下さい!」
仲裁に入る綾斗は赤面しながら、京子を再びソファへと促す。
「ふん、本当のことじゃろ。銀環を結んでいないバスクが、寝食を共にしているキーダーに力を隠し通せるとは到底思わん」
真面目な顔で叱る大舎卿に京子は押し黙るが、やがて静かに口を開いた。
「私だってそう思うよ。けど、気付かなかったんだもん。私が嗅ぐのを苦手なことは爺も知ってるでしょ? 探ろうと思えば気配を追うことはできるけど、感覚として入ってこないのよ」
予告なく気配を感じ取ることができない。昔からずっとそうだ。
意気消沈する京子に、大舎卿は「うむ」とだけ頷き昆布茶をすする。
「お主、福島の出身だったな。猩々寺浩一郎という男を知っているか? ワシと同じ位の歳じゃが」
「知らない……そんな珍しい苗字、一回聞いたら忘れないよ」
「……じゃの。昨日の会議で奴をそこで見掛けたという話を聞いてな。監獄時代、わしと一緒にアルガスに居たヤツじゃ。見掛けたって言うだけじゃから本人かどうかさえ定かではないが、お前のその能力の低さがいささか気になっての。ワシも嗅ぐのは得意でないが、小僧の力くらい軽く見抜けたわ」
「京子さんの能力にその人が何か関係があるんですか?」
プリンアラモードを食べ終えた綾斗は、のんびりとホットミルクを飲んでいる。
大舎卿は二人に目をやると、胸元のアスコットタイを緩めて語り出す。
「京子にもまだ話していなかったが、ワシはずっとそいつを捜しているんじゃ」
「そうなの?」
「あの隕石騒動の後、アルガス開放と共にトールへの選択肢がキーダーに与えられたのは知っておるの?」
「うん」
「とはいえ皆、歳も歳じゃったから一般的な社会へ出ることより、キーダーとして残ったやつの方が多かったんじゃ。もちろんアルガスを出て行った奴はいるが、中でも浩一郎は少し毛色が違っていての」
「違う、って?」
「過去のアルガスは牢獄と言われていたが、ワシはそれ程嫌ではなかった。外へ自由に出られないこと以外、不自由はなかったしの。他の奴もそうじゃったと思う。しかし奴はアルガスを憎んでおった。トールとして外に出る日、ワシに言ったんじゃ」
京子と綾斗が顔を見合わせると、大舎卿はテーブルの中央へと視線を泳がせて呟いた。
「復習してやる、とな」
「ふくしゅう? って……アルガスに?」
京子は思わず出た高い声に、慌てて口をつぐんだ。
「じゃが、奴はトールになり銀環を外しているし、ああは言ったがこの三十年何も起きていない。奴だってもういい歳じゃ。お前がワシに引退しろとか隠居じゃとか言うせいで気になっての。何かするなら、体力的にもそろそろ限界じゃと思う」
「何か起きるかもってことですか?」
「わからん。しかし、アイツは絶対に戻ってくる。この数年奴を捜したが、居場所を突き止められんかった末の、昨日の話じゃ」
最近、遠方の仕事にもよく足を運んでいたのは、そういう理由だったらしい。
「何が起こっても対処できるように、お前たち鍛錬を怠るなよ」
歯切れ良く返事する綾斗の向かいで、京子は不安げな表情でテーブルの下に拳を握る。
「戦うことになるかもしれん」
大舎卿が何かを待っているのは何となく気付いていた。もし戦いになってもフォローできればと思っていた。けれどいざ告げられると、途端に自分の中で現実感が増す。
人を相手に戦うことを想像するだけで手が震え出す。戦うということは、自分の死を覚悟すると同時に、相手の死を受け入れる覚悟が必要だ。
「恐いか? 浩一郎であれ他のバスクであれ、別に相手を殺せと言ってるわけではない。わしらの仕事は守ることじゃろ?」
そんなにうまく使い分けることができるだろうか。ずっと続けてきた訓練は相手を殺すことを想定していたわけではないけれど。
「それでお主、本当に奴に会った事がないのなら関係のない話なんじゃが。前に話したじゃろ、記憶を操ろうとしたキーダーがいたと。それが奴じゃ。改名してるかもしれんし、その名前の男じゃなくともいい、何かされた記憶はないか?」
「えっ? 爺が言ってたのは覚えてるけど、記憶を操ることなんて本当にできる事なの?」
確かにそうは言っていたが、確実でないとも言っていた筈だ。
大舎卿は「だから、わからん」と不機嫌に言葉を吐いた。
「お前がただの力不足なら問題ないが、もしもと思ってな。場所も偶然お前の出身地だ。可能性はなきにしもあらずじゃろ」
「記憶……って。別に誰かに何かされたことなんてないよ」
「けど本当にそんなことができるなら、消された時の記憶だって無くなってるんじゃ……」
「そうじゃの。だから、そんな奴がいたことを頭に入れておけ」
大舎卿は昆布茶を飲み干して、さっさと店を後にした。
「知らないことばっかりだな」
京子は左の手首を捲り上げ、銀環を指でなぞる。これだって、まさか指輪型が存在するなんて思ってもみなかった。
実家にいた頃の記憶は、時間の経過で殆ど思い出すことができない。ふいに浮かんだ彰人の顔に、先日会った大人の彼が重なり、京子は込み上げた衝動を振り払うように首を振った。
☆
桃也がいなくなって一週間が過ぎ、京子はまた夢を見た。
見知らぬ家のリビング。いつもの夢とは少し違うが、やはり小学生の自分と彰人がいた。
会話は聞こえず、奥からジュースを運んできたのは彰人の母親だ。
彼の家だろうか。
けれど、そこに行った記憶はない。窓の外を確認するが、白くぼやけて何も見えなかった。
ただの夢だろうか。
彰人は同じクラスで京子の初恋の相手だが、家を行き来して遊ぶような仲ではなかった。
ジュースを飲みながら談笑する幼い自分は、本当に嬉しそうだ。こんな無邪気な表情、もうずっとしていない気がする。
しばらくして、母親と入れ替わりに誰かが部屋に入ってくる。
声も顔も、男か女かさえ分からない影がやってきて、自分は警戒することもなくその人物に何か話し掛ける――。
そんな夢だった。
そこで途切れて目が覚めた。
「何、だったんだろう」
何度思い返しても、その人物が誰であるのか思い出せないし、夢か現実の区別も付かない。ただ記憶にしても曖昧すぎて、どうにもスッキリしない朝だった。