17話 その日彼は彼に出会った。
桃也の告白を聞いた途端、溢れかけた涙は自分でも驚くほどに引いてしまった。怒りが込み上げてくることもなく、ただ呆然とコートだけを掴んで逃げ出したい衝動のままに部屋を出た。
追い掛けてきてくれるかと少しだけ期待したが、彼は来てくれなかった。
駅からいつもの電車に乗り、ぼんやりと歩いて辿り着いたのはアルガスの自室だ。
昼下がりのシンとした部屋は少し肌寒かったが、徐々に暖まる温度に張り詰めていたものが緩み、京子はソファに腰を下ろすと横たわるうさぎの抱き枕を抱きしめ、沈むように身体を預けた。
自分の身長の半分以上ある大きな抱き枕は、殺風景な部屋だからと昔セナが置いていったものだ。
あの頃はまだ桃也がマサの所に出入りしていた。そんなことを思うと、彼と初めて会った時のことが蘇ってくる。
七年前。『大晦日の白雪』から一夜明けた、京子の誕生日。
マサに呼ばれて部屋に行くと本人の姿はなく、積み上げられた書類と書類の間に埋もれるように、まだ中学生の小さな桃也がいた。一夜にして家族三人を失った彼は、椅子に座ったまま憔悴しきった表情で下を向いていた。掛ける言葉も見つからず、お互い無言のまましばらくマサを待っていたことを覚えている。
アルガスで会うことも少なかったが、あの日何もできなかった自分に負い目を感じて無意識に彼を避けていた気がする。そのうちに高校を卒業した桃也はマサの元を離れたと噂で知った。
七年前中学生だった桃也は京子が見下ろすほど小柄で、釣り上がった眉毛のせいでいつも不機嫌そうに見えた。次に会った時は見上げるほど伸びた背に驚かされたが、常にむっすりした表情はあまり変わっていなかった。
「とうや……」
どうしてこんなことになっているのだろう。東北から戻り今頃二人でマンションに居たはずなのに、何故一人でここにいるのか。
――「もういいよ」
ふと浮かぶのは、彼にフラれたあの日の言葉だ。思い出す度に心に刺さる。
少しだけ涙が滲んで、京子はそのまま目を閉じた。彼に会えることに心が弾んで昨日なかなか寝つけなかったことと、全力疾走した事でひどく疲れたらしい。目が覚めた時にはすっかり外が暗くなっていて、煌々と付く蛍光灯を眩しく感じた。
トントンと扉を叩く音に身体を起こし、うさぎを抱えたまま目をこする。
「いいか?」という声に目覚めの頭がハッキリした。
「どうぞ」と返事すると、いつものジャージ姿の彼が現れ小さく頭を下げる。
「外から明かりが見えてな。ここに居たのか」
「マンションに帰ったけど、戻ってきたの」
「そうか」と呟いて、マサは手にした小さいお盆をテーブルに乗せ、京子を呼ぶ。
「何も食ってないんだろ? 平次に作らせたから、とりあえず食えよ」
海苔に巻かれた三角のおにぎりが二つと湯気の立つ湯飲みが見え、京子は思わず顔を上げるが、昼間の事が脳裏を過ぎり素直に食べる事をためらってしまう。
「お前は空腹だと全然駄目だからな」
確かにお腹は減っている。朝食以降何も食べていない空っぽの胃が、ふわりと香る海苔の匂いにキリリと痛んだ。
のろりと立ち上がり、京子はテーブルにつく。抱き枕を放す事ができず、子脇に抱えたままおにぎりを咥えた。
「美味しい」
中から昆布が顔を出す。京子の好きなおにぎりの具材ランキングナンバーワンだ。一気に二個を平らげ、添えてあった味噌漬けの沢庵をボリボリと食べる。
まだ熱い緑茶を流し、京子は空になった皿に視線を落としたまま、ためらいがちに口を開いた。
「昼間はごめんなさい。マサさん、私、本当のことが知りたい」
詳しいことを何も聞かずに、子供のように感情的になってしまった。
「悪いのは俺だから、お前が謝る事はねぇよ。全部話すつもりで来た」
マサは開けっぱなしのブラインドを閉め、京子の向かいに腰を下ろした。こんな時間にこの部屋にいるのは珍しく、あまり使われていないブラインドは新調時のまま白かった。
マサはテーブルの上に組んだ手を見つめながら、ゆっくりと話し出す。
「俺が初めて桃也に会ったのはあの現場に駆け付けた時だ。けどその少し前に、アイツの母親には会っててな」
「桃也のお母さんに……?」
「アイツとあんまり似てない小柄で綺麗な人だった。あの年末、アルガスん中がやたら慌しかったのを覚えているか?」
京子は首を捻るが、『大晦日の白雪』の印象が強すぎて、内部の様子などあまり記憶には残っていなかった。
「外に出てた時だったかもな。ほら、あん時北陸支部の創設でやたら忙しかったんだよ」
そういえば、そんな時期だったと京子は頷く。
綾斗がここに来る前に居た北陸の訓練施設だ。支部を併設していて、候補地だった金沢を避けてひっそりと能登に建てられた。
「書類仕事にイラついて煙草を買いに出た時、門の外で彼女に会った。俺の顔見て向こうから声掛けてきてな。立ち話じゃ話しずらそうにしてたから、『恋歌』に連れてったんだ」
『恋歌』は、アルガスの入口から道を一本隔てた路地にある小さな喫茶店だ。
マサは組んだ手を額に当て、ふうっと溜息を漏らす。
「そこで、息子がバスクかもしれないって相談されたんだよ」
「えっ、お母さんが気付いてたの?」
「超能力が使えるってな。もしやキーダーの力じゃねぇかって心配になって、彼女なりにネットとかで調べてここへ辿り着いたらしい。もしそうならって話をしたら、彼女泣いちまってな。何も知らないで生きてきた子供だから、力を消して普通の子として生きて欲しい、って」
「そんな……」
「俺があん時すぐに対処してれば良かったって、今も後悔してる。言い訳にしかならねぇけどな。あん時は本当に忙しくて、息子に会いに行くのを年明けにしてもらったんだ。ほんと、俺の怠慢でしかねぇ。すぐに行けば未来は変わってた。少なくとも『大晦日の白雪』は起きなかった。あの夜の詳しい事は桃也に聞いたのか?」
京子が横に首を振ると、マサは「そうか」と力なく手を下ろす。
「事件の瞬間は俺も見てないから、本人に聞いた話だが」
京子は息を呑み、うさぎの抱き枕を強く抱きしめた。
「桃也の父親は海外にもグループを多く持つ大会社の社員で、大分裕福な家庭だったみてぇだ。桃也自身も生まれたのは日本じゃないらしいから、検査をスルーしちまったんだな」
そういえば、そんな話を聞いたことがある。三歳までアメリカに居たらしく、京子が「凄い凄い」と絶賛すると、「覚えてねぇよ」と笑っていた。
「妬まれたんだろうな。あの日、桃也の留守中、家に強盗が入ったんだ」
「強盗? って、まさか……」
「あぁ。桃也の両親と姉は、その強盗に殺られた」
全身がざわめいて、京子は声にならない悲鳴を上げる。
「アイツは見ちまったんだよ。鉢合わせだったらしい。刺された家族と犯人を前に、次は自分だってなった時、不安定だった桃也の力が解放された――バスクが起こす力の暴走ってヤツだな。それが『大晦日の白雪』だ」
一瞬部屋がシンと静まり返るが、廊下に響いた足音に引き戻され、京子は唇を震わせた。
「じゃあ、その強盗が四人目の被害者」
「そうだ。そいつだけ『力』で死んでる」
人を殺した事があると告白した桃也。自分の家族が血だらけで倒れている現場など想像の域を超えている。京子も母親を病気で亡くしているが、それとは全く別だ。
「そんなの、辛すぎるよ」
「俺が駆けつけた時、アイツは倒れた家族の横で呆然としてた。俺にはとっくにキーダーの力がなかったから気配を読み取ることはできなかったが、事件がその家だと聞いた時、すぐアイツだと予想ができたし、本人も認めた。ただ、桃也は両親を殺された事より犯人を殺しちまった事に酷く怯えて混乱してな。状況から考えても、全部正直に報告すればそれなりに考慮してもらえたんだろうが……」
マサの顔が悲痛に歪む。
「俺に、魔が差しちまったんだ。母親の言葉をアイツへの遺言として、力を縛ってトールにしてやるのが最善だったんだろうが、そんな状況でだぞ? 俺はアイツの力に嫉妬したんだ。選べって言ったんだよ、アイツに。『大晦日の白雪』がなかったら迷いもなく消してた力なのに。もちろんトールを選ぶと思ってた。それなのにアイツ、すぐに消すのは嫌だって言ったんだ。力に拒絶しながらも、考えてから答えを出すってな」
「答え? トールになるか、ってこと? まさかキーダーに……」
「まだ、答えは出てないけどな。とりあえず俺は技術部の奴にこっそり頼んで、桃也にあの指輪を渡したんだ。バスクの力は不安定だが、普通のキーダーみたいに生まれた時から銀環で管理されていない分、力も強くて飲み込みも早い。覚醒が早かったのもそのせいだろう。銀環みたいに結ばなくても、やり方さえ覚えれば、あんな指輪一つで気配を抑えることくらい容易いんだよ。お前も桃也とベタベタしてたくせに気付かなかったんだろ?」
突然振られて答えに詰まる京子に、マサは「そういうことだ」と眉間に皺を刻んだ。
「バスクは恐ぇよ。妬ましくて仕方ねぇ。でも本当に、お前に話してやれなかったことは悪いと思ってる。今更だが、すまなかった。アイツの力は勿体無ぇと思うが、無理強いしようとは思わない。一番辛いのはアイツなんだ。出した答えは受け入れるつもりだし、望むなら今のままでもいいと思ってる」
テーブルに押し付けるように頭を下げるマサに、京子は困惑する。
バスクを続けることはできないと平野にも説いてきたばかりだ。たとえ指輪がその役割を果たすと言っても、銀環で結ばれない力は不安定だろう。ずっと銀環をはめていた自分が左手首のそれに依存しすぎているのは分かるが、それだけ大きな力なら余計にもしものことを考えてしまう。
「今のままバスクでいるのは、やっぱり良くないよ。そんな過去があるなら、キーダーの仕事は辛いと思うし、やっぱりトールになったほうがいいと思う」
毎日の訓練とバスクの起こした破壊現場に行く仕事は、桃也にとって過去を彷彿とさせるものが多すぎる。
「大学に入ってからずっと会ってなかったけど、今はどう思ってるんだろうな」
「マサさんはどう思うの? 桃也の過去を隠そうとしたんでしょ? どうして報告書を紙に残したりしたの? それがなければ隠し通せたと思うのに」
全てを葬る事を貫けば、こうして明るみに出ることもなかった筈なのに、敢えて紙として残すリスクは大きすぎる。けれど、マサは「いいんだよ」と顔を上げた。
「真実は消しちゃいけねぇんだよ」
「矛盾してるよ。バレたらマサさんが処分されちゃう。結局、自分が罪を被る気だったの?」
「悪人になりきれねぇんだよ。性分なんだ。上が桃也の事を罰しようってんなら、俺が守ってやる覚悟はある。爺さんだって恐らく気付いてるぜ。あんな指輪ごときで、あの人の目を騙し通せてるとは思えん」
「爺も知ってるの……? 結局、私だけが知らなかったんだね」
何も知らずに、一人で勝手に悩んでいた自分が恥ずかしくてたまらない。
「でも、事件の後最初に桃也に会ったのが私だったら、同じ事をしたかもしれないよ」
「そうか? お前ならハッキリ真実を言って、上の意見を覆してたんじゃないのか? 俺は弱くて駄目だ。トールになってから、お前にだって嫉妬してるんだぞ」
確かにその通りかもしれない。伊達に十年近く付き合っているわけではないようだ。
マサを責めるのが一番楽なことかもしれない。けれど、京子はどうしてもそうする事ができなかった。
そして、ずっと気になっていたことを聞くチャンスだと思った。
「マサさん……一つだけ聞いてもいい? マサさんは本当に力を失っちゃったの?」
アルガスに入ってから、ずっと聞きたくて聞けなかった話だ。能力者の力は不安定なものの、出生検査での検出率はほぼ百%だと聞く。覚醒後の喪失など他に例がないらしい。
マサは眉間に寄せた皺を指で揉みながら、溜息を漏らす。
「野暮な事聞くなよ。傷つくだろ? もう何も感じねぇし、何も出ねぇよ」
「ごめんなさい」
「謝るな。こんなになってもアルガスに残ることを選んだのは俺なんだからな。桃也のことも、ちゃんと整理が付いたら上に本当の事を言ってくる」
「そう……だね。それがいいんだよね」
そうなったら、桃也はどうなるのだろうか。
「行かなきゃ。私は……桃也と話がしたい」
今までの事を話したい。
よくよく考えると、一年半も一緒に居るのに彼のことをあまり良く知らなかった。
心が焦って立ち上がる。抱き枕をソファに戻し、コートを手に扉を開けると、マサが京子を呼び止めた。
「お前が仙台に行ってる間に、桃也がうちに来たぞ」
そういえば公園で二人が再会した時、桃也がマサにそんなことを言っていた。
「お前に全部話すんだ、って決意表明だ。先にバレちまったけどな」
額を手で押さえ悲痛に顔を歪めるマサに、京子は「いいよ」と首を振った。
「なぁ、お前はまだ桃也のことが好きか?」
「好きだよ!」
固く頷く京子に、マサは「そうか」と微笑んだ。
☆
寒い夜を駆け抜けて、京子は電車で二駅向こうの自宅へ戻る。
すぐに桃也に会いたかった。上階で停まっていたエレベーターを待ちきれず、五階までの階段を駆け上がる。
けれど、玄関のドアを開けると中は暗くひんやりとしていた。
照明を点けて彼を呼ぶが返事はなく、リビングのテーブルに一枚のメモが残されていた。
『数日で戻るから、心配するなよ』
右上がりの見慣れた癖字。京子はメモを握り締め、衝動のままに再び外へ飛び出す。
当てはない。
駅を横目に近くの堤防まで走ると、開けた空に、ぽっかりと丸い月が浮かび、一面を青白く照らしていた。
誰も居ない静かな夜の風景に涙が溢れる。こんなところに彼が居ないことは分かっている。ただ、家を出て一人になりたかった。
先に飛び出したのは自分なのに、家に彼が居ないことが辛くてたまらない。
「桃也ぁあ!」
感情を吐き出すように。京子は吠えるように彼の名前を叫んだ。