15話 キーダーとバスクの差
山形と宮城の県境。
ひっそりと建てられた小さな白い小屋は、アルガスが所有するこの土地の管理室だ。
訓練施設にと二十年ほど前に国が確保した広大な土地が、キーダーの不足で計画が実行されないまま無人の空き地となっている。
ここは無条件でキーダーに開放されていて、京子や大舎卿も年に数度訪れ、普段できない『撃つ』訓練をしていた。
支部に車を借りてペーパードライバーの京子が運転して来る予定だったが、晴れの予報とは裏腹に圧雪とアイスバーンの報告を受け、皆の大反対を受けて急遽支部からヘリを飛ばしてもらった。
敷地の端へ移動したヘリがブレードの回転を止めると、辺りが急に静寂に包まれた。
京子と綾斗そして平野の三人以外に人気はなく、雪を撫でる風が五月蝿いと思えるほどに静かだ。
平らに均された広い荒野は一面を白で被い、手袋をしていても指先が悴んでくる。
深夜営業のディスカウントストアで急遽買ったボア付きのブーツ。制服の外套の上から私用のマフラーを巻いてカイロも大量に仕込んできたが、機内との温度差に京子は身体を震わせた。
青空で太陽も眩しいのに、暖かさを微塵も感じない。
常備していた風邪薬と、コンビニで一番高額だった栄養ドリンクの甲斐あって熱は下がっていたが、倦怠感がどうしても抜けてくれなかった。
気合を込めて、いつも下ろしている髪を高い位置で一つに結わえる。首元が更に涼しくなるが、頭がスッキリとしてきた。
「たいそうな場所だな」
「ここなら誰も文句言わないので」
感心する平野に京子はポケットから小さな白い箱を取り出す。
「これはもう、いらないですね」
京子は蓋を外し、中を彼に見せた。
京子や綾斗のそれと同じ、幅十五ミリ・厚さ二ミリの銀環がクッション代わりの黄色い布に乗せられている。
力の暴走を防ぐ為、本来なら初めて彼に会った時点で付けるべき物だった。京子の独断で時期を延ばしていたが、それももうトールを選んだ彼には必要は無い。
「手錠みてぇだな。いいのか? 俺が裏切って、ここでお前等を殺っちまうかもしれねぇぜ」
「平野さんは女の子を助けて、私まで助けてくれた人ですよ。信じます。それに、何かしても私が絶対に止めてみせます」
「はっ。姉ちゃん大した自信だな。俺の力を見くびるんじゃねぇよ。この間の山梨は半分の力も出してねぇぜ。これが最後なら全力でやらせてもらう」
にやりと笑う平野。
「喜べよ、すぐ男の所に帰してやるからな」
思わず「えっ」と声を出したのは綾斗だ。
「何の話してるんですか、京子さん!」
京子は銀環の入った箱をポケットにしまい、周囲をぐるりと確認した。
山間にある広い荒野のほぼ中心。膝下まで積もった新雪には管理室から伸びる三人の足跡があるのみで、時折吹く風に雪の表面が白い波を作る。
京子が「山側へ」と撃つ方向を指で示すと、平野は返事の変わりにゆっくりと瞬いた。
京子は後ろで手招きする綾斗の位置まで下がる。流石の綾斗も今日はマフラーをしていて、結び目を後ろに回し、構えをとる平野を見張った。
京子は名残惜しく外した手袋を空のポケットへしまい、左の袖を少しだけ捲った。
二十三年間一度も外すことなく連れ添ってきた京子の銀環があらわになり、右手でそれに触れる。触れるだけだ。何もしない。彼はきっと大丈夫。
しかし「いくぞ」と掛け声を上げた平野が、次の瞬間突然くるりと踵を返した。伸ばした手が真っ直ぐに京子の顔を捉えている。
「平野さん!」
綾斗が蝶罵刀を腰から抜き、おもむろに刃を作るが、京子が手を伸ばしてそれを制す。
「駄目だよ、綾斗」
京子は平野を睥睨する。平野の力が高まっていくのが分かった。撃つ前の状態だ。
自信有り気に笑う彼が、ふんと鼻を鳴らす。
「冗談だよ」
悪戯に吐いて、平野は再び示された山の方角に向くと、伸ばした右腕に手を添えた。
ほんのわずかの出来事だ。バスクを甘く見ていたと反省すると同時に、その力の大きさに憤りすら覚えた。
彼の手から現れたのは、黒いまだら模様を刻んだオレンジ色の炎の球だった。球がその手を離れる勢いに平野自身が強く踏ん張ったが、滑るように数歩分ズルズルと後退する。
彼の動きの何倍もの速さで炎はぐるぐると回りながら空中を走り、数百メートル離れた地面に轟音と共に沈んだ。
ゴォと地面が鳴り、熱い爆風が正面から吹き付けてくる。炎はすぐに消えたが、目視できる範囲で半径百メートル程が一瞬の炎に焼け、土の色をあらわにした。
今まで京子が調査に出た中で一番の大きさだ。障害物の有無を考慮しても『大晦日の白雪』と同レベルの威力に値するかもしれない。
京子と綾斗は手を銀環から外し、その様子を見守った。
平野はしばらく無言で土色に広がった地面を見つめていたが、やがて自分の両手に視線を落とし、静かにそれを握り締めた。
「やっぱり捨てられねぇな、これは」
背中を向けたまま、二人に聞こえる音で言う平野。
「キーダーが人類の盾だって言うなら、若いアンタらより俺みたいな年寄りの方が捨て駒にはちょうどいいんじゃないか?」
彼は青く澄み渡る空を仰ぎ、肩越しに二人を振り返った。
「体力にはまだまだ自信があるんでね、姉ちゃんには悪いが俺はキーダーを選ばせてもらおうじゃねぇか」
☆
三回目のコールが途中で途切れた瞬間、京子は飛びつくようにその名前を呼んだ。
「桃也!」
「終わったか? そろそろだと思ってたぜ」
すぐに返って来る声。懐かしささえ込み上げる感覚に、京子はぎゅっと目を閉じる。
現場から支部に戻った三人はキーダーを選んだ平野の後処理を慌ただしくしていたが、夕方には銀環を結び無事に彼を管理の人間に引き渡すことができた。
京子は当日の帰省を望んでいたが、雪山にいたことが災いしてまた熱が上がってしまい、綾斗に猛反対を食らってしまった。渋々ながら翌日まで仙台に居ることになった次第だ。
ようやく部屋に戻ってきたのが八時過ぎ。京子は軽くシャワーを浴び、持ってきた水玉のパジャマに着替えると、ベッドの上に正座して桃也に電話を掛けた。
「終わったよ。明日本部に顔出してから戻るから、昼過ぎには帰れると思う」
「お疲れ様」と返って来る声にホッとする。会いたくなる衝動にびょんと身体を弾ませると、ベッドがギシリと軋んだ。
「そっち雪は? 声は元気そうだけど、ケガとかしてないか?」
「駅前は全然積もってないよ。かなり寒いけど。ケガはしてないけど、ちょっと風邪気味」
「じゃあ、早く寝たほうがいいな」
少しだけ心配して欲しい反面、倒れたことは黙っておく。酔っ払って綾斗に迷惑を掛けたことも内緒だ。
キーダーの仕事は守秘義務が多いので、言える範囲でこの数日を振り返ると、八割方が食べ物の話になってしまった。
「相変わらず食ってばっかだな」
大分部屋の暖房を上げたつもりだが、まだ少し寒気がして京子は布団に包まる。そして思い立って「そうだ」と左手を目の前に広げた。
「この間もらった指輪だけど、薬指だからみんなに色々言われるよ」
「プロポーズされたのか、って?」
ストレートに返って来る言葉に、京子は赤らめた顔を横に振った。
「そこがぴったりだと思っただけだよ」
「どういう意味かわかんないよ」
平然とした素振りを装いつつも、彼の言葉に期待してしまう。
「そうだな。まぁ色んな意味があるんだろうけど、そういう時はちゃんと言うから」
ポジティブに解釈してしまうような言い回しはやめてほしいと思いつつ「ありがとう」と呟くと、桃也は「京子」と呼び掛けた。
「そこまで深い意味はなかったけど、お前は良く一人で突っ走ろうとするだろ? それ見て俺の事思い出してくれたら、少しは立ち止まって冷静になれるんじゃねぇかって思ったんだよ」
「桃也……」
「お前のことは俺が守る。だから、一人で無茶するなよ」
決意に似た音を感じる。締まりなく緩む顔を両手で強く押さえ、京子は呼吸を整えた。
ベッド横の時計を見る。まだ東京への終電には間に合う時間だ。
会いたくてたまらなかった。
今すぐにでも帰って、彼の胸に飛び込みたいと思うのに、布団の温もりがみるみる熱くなっていくのが分かり、京子は慌てて薬用に買っておいた天然水を流し込んだ。
「どうした?」
「ううん。ちょっと喉乾いてジュース飲んだ」
「お前がこんな時間にジュースなんて飲むのかよ。けど、てっきり今から戻るとか言い出すのかと思ったぜ」
「ひどい。お酒じゃないよ。帰ろうかなとはちょっと思ったけど」
「だろ?」と桃也が楽しそうに笑う。
「明日まで我慢するよ。もう少しで会えるね」
今日は駄目と自分に言い聞かせて、京子はベッドに戻った。