14話 後輩からの評価
ハンマーで殴られたような頭痛に、一瞬で意識が戻ってくる。
「痛ったい……」
瞼に掛かる氷嚢を外し、最初に視界に入ってきたのは、オレンジ色の光に包まれた暗い天井だった。
熱めの暖房と掛けられた毛布の温もりに安堵し、米神を抑えて起き上がると、京子はハッと目を剥いた。
「もう少し、寝てたほうがいいぞ」
自分の状況を理解するのと同時に飛んできた声。
振り返ると、部屋の主がカウンターの椅子からこちらを見下ろしていた。
「平野さん……私、どうして」
彼の店の中のようだ。隅に置かれたソファの上に京子は寝かされていた。
店の前で女性に話し掛けられた所までは覚えている。
支部へ行った綾斗の姿はなく、店内は無音で壁際の席は椅子がテーブルの上へ逆さまに乗せられていた。
「まだ熱が下がりきってねぇから、立つと倒れるぞ」
心が急いて彼に駆け寄ろうとするが、言われた通り目眩を感じた。
再びソファに腰を落とし、毛布を身体に巻きつける。
「姉ちゃん、いつから外で待ってたんだ?」
「朝です。九時前からずっとそこにいました」
真面目に答えた京子に、平野は頬杖をついていた肘をずるりと滑らせ、唖然として「馬鹿か」と罵った。
「一人でか。一緒に来たガキはどうした。キーダーってのは、そんなこともしなきゃなんねぇのか?」
「彼には用事で支部に行ってもらっていますが、夕方まで一緒でした」
腕時計を確認すると八時を回った所だった。綾斗と別れてから二時間ほど経ったらしい。ここから支部への往復時間を考えると、心配を掛けてしまっているかもしれない。
「アンタ、美佐子が居なかったら凍死してたぞ。後で礼言っとくんだな」
「美佐子さん……あの女の人が……」
「隣の店の女将だよ。俺の客がぶっ倒れてるって電話してきやがった」
「そう……ですか。ありがとうございます」
京子は恐縮して頭を下げる。
「俺は何もしてねぇよ。今日もここに来る気はなかったしな。お前の勝ちってことか」
結果、平野に会うことができた。良かったと胸を撫で下ろすが代償は大きく、頭痛と全身の寒気に座っているのがやっとだった。
「寝てていいぞ」
平野はカウンターの奥へ行き、京子の所へ戻ってくる。
側にある丸テーブルに持ってきたトレーを乗せ、テーブルごとソファへ寄せた。
湯気の立つ中華まんと湯飲みだ。
「アンタがぶら下げてたのをあっためただけだぞ。それと熱いの飲んどきゃ明日には治るだろ」
綾斗が買ってきてくれた中華まんらしい。湯気で少し柔らかくなってしまっているが、数時間振りの温かい食事にほっとする。
肉まんかと思っていたが、中身は予想外にあんこだった。
そして湯飲みからの湯気の香りに、京子は眉を上げる。
「嫌いじゃねぇんだろ? ガキに止められるくれぇだからな」
鼻を刺激してくるアルコール臭。恥ずかしさに下を向く京子に、平野は「はっは」と笑って再びカウンターへ戻り、水割りのグラスを手に取った。
「アンタ俺に、トールってのになれって説得しに来たんだろう? でも、二晩考えたけどまだこの力を手離す気にはなれねぇな」
京子は日本酒の熱に寒気が和らいでいく感覚を楽しんで、少しずつ湯飲みを口に運んだ。
「平野さんは山梨で力を撃って気持ち良かったですか?」
「あれは、何回やってもやめられねぇな」
満足気に笑う平野。京子は左手首の袖をまくり、銀環を撫でる。
「私たちキーダーは、銀環で力を制御されています。恐らく今使える力は、本来の半分以下だろうって言われているけど、実際の所は分かりません。これを付けたまま力を撃つと、私で半径五十メートルくらいの穴を開けることができます」
「まぁまぁってところだな」
「自慢にはならないけど、破壊系の能力に自信はあるんです。でも、私たちは撃つ訓練をを殆どしません。キーダーは蝶罵刀という剣の柄を携帯して、力で刃を生成して戦います。銀環も蝶罵刀も、キーダーではなく力を持たないノーマルが作ったものです。三十年前の隕石の落下を防いで、それなりの地位を得ることはできたけど、根本は何も変わりません。力を持たないノーマルにとってキーダーは恐怖なんです。だから撃つことは好まれない。訓練は肉弾戦が基本です」
「結局国に飼われてるんだろ? 覆そうって奴はいねぇのか? 力があればアルガスを掌握して国を制することだってできるんじゃねぇのか」
「……それをやったところで得るものは少ないですよ」
力を誇示して国を得ようなんて野心家は、今のキーダーに居るだろうか。
銀環をしていても、扱われ方が荒くても、力を備えて生まれてきて、キーダーという居場所を提供されることは自分にとっては好都合だ。
程度の問題はあるが、利害はきっと一致している。
「貴方のようにバスクが人里離れた所で力を撃つ事は良くあるんです。私も撃つと気持ちいいし、それはキーダーの本能なのかもしれない。だから、貴方の気持ちは分かります」
「でも、規則だから仕方ねぇっていうんだろ。気にくわねぇ」
水割りを煽り、平野は横にあった黒い瓶を傾けグラスに黄昏色の液体を満たす。京子はすっかり火照った身体から毛布を外し、手でパタパタと顔を扇いだ。
「こんなこと言ったら周りからめちゃくちゃ非難されるかもしれないけど……別に私は国に対して信念を持ってキーダーという役目を果たそうとしているわけじゃないんです。力を持って生まれて、キーダーになるのが当たり前のように育ってきたから。他にどうしようかなんて考えたこともなかった」
こんな時なのに日本酒が回ってきて、また桃也を思い出してしまう。
もう東京を離れて五日目。仕事に集中するという理由で電話もしていない日々は、もはや仕事を早く終えるための願掛けのようだ。
全てが平野にかかっていると思うと心が逸り、京子は湯飲みを手に立ち上がると、足をフラつかせながらカウンターへ移動し、平野の向かいにどんと座った。
平野は京子の顔色を伺いながら、そっと湯飲みの中身を追加する。
「大丈夫か? 最初からキーダーだってのも大変なんだな」
「私の事は気にしないで下さい。平野さんがどうするかを決めていただけますか? 平野さんが逃げないなら、私だって連行なんてしたくないんです。ただ、こうしてると時間だけが無駄になってしまうと思いませんか? 私だって早く東京に帰って、彼に会いたいんですよ」
平野は呆気に取られた顔で「はぁ?」と聞き返した。
京子は桃也にもらった指輪を見つめ、目を細める。込み上げる思いを振り払うように、湯飲みの八割方を一気に流し込み、気合をいれるように右手でその薬指を握り締めた。
「平野さん、『大晦日の白雪』を覚えていますか?」
「何年か前の……東京に穴が開いたやつか」
「七年前の大晦日、東京で住宅街の半径八十メートルが一瞬で焦土になった事件です」
「あぁ、そんなんだったな」
あれだけ大きな事件でも、その土地を離れれば他のニュースと大差ないのだ。京子は震える拳を右手で押さえ、低く深呼吸を繰り返した。
「あれはバスクが起こしたものです。七年経った今でも、犯人がまだ捕まっていません。あれがまた起きるんじゃないかと、私はいつも懸念しています。あの事故で四人が亡くなっていて、その中に私の恋人の家族が三人居るんです」
平野が我に返ってグラスを置き、「そうなのか?」と首を傾げる。
「私はあの時キーダーだったのに、すぐ駆けつけることができなかった。何もできなかったんです。だから自分への戒めとして、事故の後からずっとあの事件の敵を取ろうと思っています」
「俺じゃねぇぞ」
「そうでなくても、貴方がバスクだと知った以上、野放しにはできません。あの日あそこに居たら、私がすぐに駆け付けることができたら、全員死ななくて良かったのかもしれない。一人でも助けられたかもしれないんです。もう後悔したくない。仕事に信念を持っているわけではないけど、私なりにできることはしたい……日本を守りたいんです」
「だいぶ病んでるな。なぁ、俺が言うのも可笑しいけどよ、その被害者がアンタの恋人の家族っつうのは置いといて、そんなに自分を責めるんじゃねぇよ。キーダーだから何でもできるなんて、俺はそんなにあんた等に期待してねぇし、自分がなったとして出来るとも思えねぇぜ」
大舎卿が隕石から人々を救って、英雄になった。キーダーは常にそうあれと言われているような気がしていた。
「わかってはいるんですよ。でも……自分に納得できることをしないと」
「真面目だなぁ。酒の飲みっぷりとは真逆だな」
平野の顔を見上げて、京子は少しだけ彼を睨んだ。話すことは話したと思っている。
バスクである自覚がなかった人間ならともかく、彼はこちらが来ることを予想していた。なら、もう答えを出す時間だ。
「平野さん。私の主観になってしまいますが、やはりトールを受け入れていただきたいんです」
「アンタは……」
何か言い掛けた平野の声を掻き消すように、激しく入口のドアが叩かれる。
「京子さん! 京子さん! 無事ですか!」
綾斗だ。
きっと『だだ漏れ』の気配を読み取って、中に居るのが分かったのだろう。
ドンドンと興奮気味に殴る音に平野は眉を吊り上げ、足早に入口へ向かいドアを開けた。
「無事ですか、京子さん!」
睨み付ける平野に硬く頭を下げ、綾斗が京子の元へ駆け込んでくる。
「あんまり無事じゃないかも」
綾斗は京子の酒気に眉をひそめ「失礼します」と前髪と額の間に手を滑り込ませ、眉間に皺を寄せた。
「でも、大分回復したんだよ。倒れてるところを助けてもらったの」
「倒れたんですか! かなり熱いですよ?」
えへへと笑う京子に綾斗が「京子さん!」と叱咤する。
「やっぱり無理矢理でもホテルに戻ってもらえば良かった。俺が居るんですよ? 京子さん一人で突っ走らないで下さい」
ピシリと言い、綾斗は改まって平野にもう一度頭を下げた。
「ありがとうございました」
「だから俺は何もしてねぇよ。……なぁ、アンタはこんな頭の固い酒乱の下で仕事して、それでもキーダーを選んで良かったと思うのか?」
突然何を聞いてくれるのだろう。京子は酔いも覚める勢いで、驚愕の表情を綾斗に向けた。
しかし綾斗は悩む素振り一つ見せず、京子をちらと見ると、
「良かったと思っています。後悔はしていません」
余りにもはっきりとした答えが法螺に聞こえ、京子はあんぐりと口を開く。
「田母神は呑んだくれですが、上司として嫌だと思ったことはありません。彼女は違うかもしれませんが、僕はこの仕事に誇りを持っています」
一応、褒め言葉として解釈して良いのだろうか。平野は長い溜息を吐き出す。
「……そうか。キーダーも色んな奴が居るんだな。もう少し早く名乗り出れば良かったか」
「トールになること、承諾していただけますか?」
カウンターの丸椅子をくるりと回して飛び下り、京子は破顔一笑して彼に駆け寄るが、平野はすっと手を前に広げてその勢いを制止させた。
「条件がある。最後に一発撃たせてくれ。そしたら諦めてやる」
にやりと笑う平野だが、その表情は少し寂しそうに見えた。