13話 ぐらりと揺れた視界
翌日、開店時刻の少し前に店を訪れるが、平野の姿はなかった。
ハタハタと揺れる『臨時休業』と書かれた紙を無視して京子は何度も扉を叩くが、反応はない。
綾斗は扉に手を触れて、首を横に振った。
「いないですね。平野さん気配は感じられません」
「やられたかぁ」と肩を落とす京子。平野の希望通りに着てきた私服が思っていた以上に薄く、撫で付けるような風に身を縮める。
「逃げる気なんですかね」
「力と同じくらい手離したくない店なんだから、彼は逃げないよ」
店と力の両方を選ぶことは不可能ではない。けれど平野がそれを叶えるには最短でも数年は掛かるだろう。
「今日は引こうか」
何の成果もあげられないまま、仙台の二日目が過ぎる。
三日目。
資料にあった自宅住所へ行ってみたが、支部の調査結果通り彼の住んでいる痕跡すら確認できない。店も休業のまま明かりが灯ることはなかった。
四日目の朝を迎え、京子は仙台入りしてから毎日の日課にしていたマラソンを終えると、綾斗を連れ出して町へ出た。
通勤途中のサラリーマンを横目にまだ閑散としたアーケードへ入り、ベーカリーで焼き立てのパンとコーヒーを買い込む。天気予報で今日は晴れと言っていたが、朝の冷え込みは半渇きの髪を下ろしてきた京子にはビリビリと刺すような寒さだ。
雪が降らないだけましだが、マラソンとシャワーで温まった身体がみるみるうちに冷えていく。
口元までグルグルと巻き付けたマフラーに篭る息の温もりさえひと吹きの風で冷め、保温用に買った缶コーヒーも、目的地に付く頃にはすっかり温くなってしまった。
「早く来て。お願い」
平野の店の前。黒い鉄の扉に向かって京子は強く祈る。
彼が現れる予定はないが、もうこの場所で待つことしか策が浮かばなかった。
少し離れた位置にある、背丈ほどに伸びた無花果の木陰に移動する。
建物の隙間から射す太陽に身体を当て、まだほんの少し温かさの残るパンを頬張った。
他愛ない話をしていた二人もやがて無口になったが、昼食を交代で済ませた頃にはマフラーを外せるくらいの暖かな日差しが降り注ぎ、京子がキーダーになってからの思い出をぽつりぽつりと話すと、綾斗も学校や施設に居た頃の話をしてくれた。
しかし、夕方になっても平野がそこに現れることはなかった。
次第に日も落ち、再び風がひんやりと凍り始め、京子は軽い咳を繰り返す。
「風邪じゃないですか? 京子さん、先に戻って下さい。俺が、もう少し粘ります」
綾斗が気遣うが、京子は「大丈夫」と首を振る。
実際体調はあまり良くなかった。身体が騒めくのは熱の前兆だが、まだ平気と自分に言い聞かせると不思議と少しだけ楽になる。
そんな時、ポケットの携帯電話が小さくメロディを奏でた。仙台支部からの連絡だ。京子は「はい」と短く出ると、用件だけ聞きすぐに電話を切った。
「ねぇ綾斗、今から支部に行ってもらえるかな。ホテルに置いといた資料、届けて欲しいんだけど」
「構わないですよ。けど、京子さんはもう休んで下さい。用事が済んだら俺がこっちに戻りますから」
「ありがとう。けど心配しないで。もう少し。大丈夫だよ」
はあっと息を両手に吹きかけると、喉が痺れて咳込んでしまう。
「熱あるんじゃないですか? 京子さんに倒れられたら、俺も困るんですよ」
「お願い。九時位には諦めるから」
待てば平野が来る根拠などないが、ここで帰ってしまったら朝からいた意味がなくなってしまう気がした。
待つことがただの自己満足でしかないと分かってはいるが、綾斗まで付き合わせてリタイヤするのは嫌だった。
「頑固な人は損しますよ。届け物は俺の部屋の金庫に入れたやつでいいんですよね」
「そう。管理部の佐田さんにお願い。ごめんね」
「いいですよ」と諦め顔で綾斗は明かりの灯りだした街へ消えて行くが、五分程でまた戻って来た。手にしたコンビニの袋を突きつけるように京子の目の前に差し出す。
「これ食べて下さい。辛かったら先に帰って下さいね」
そう言って、足早に去っていく。熱々の中華まんと缶コーヒーに、京子は思わず笑顔をこぼした。
「ありがとう、綾斗」
遠くなる背に礼を言うと、急に目眩に襲われる。
ぐらりと揺れる視界に足を踏ん切り、ズルズルと平野の店の前に移動して、扉の前に崩れた。賑やかな夜の音が、一呼吸ごとに遠ざかっていく。
どれくらいそこに居ただろうか。
ほんの少しか、長かったのかさえ分からないが、ぼんやりと開いた視界に一人の知らない女性の顔が飛び込んできた。
「貴女、こんな所でどうしたの?」
着物姿の五十代くらいの女性だ。京子は朦朧とする意識の中身体を起こそうとするが、うまく力が入らず、慌てる彼女の顔をぼんやりと眺めた。
「ひらのさんを、待っていて……」
「平野に用事があるの? ちょっと、すごい熱じゃない!」
京子の額に手を当て、女性は慌てて隣の店へ駆け込んでいった。
暗い夜。
闇の中へ吸い込まれていくような感覚に、京子は静かに目を閉じた。