11話 彼の痕跡を追って辿り着いたその店で。
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仙台駅にある有名店の店舗に三十分並び、大盛りの牛タン定食を平らげた二人は、西口からしばらく歩いた商業ビルの二十五階へ立ち寄った。
このワンフロアがアルガスの東北支部だ。
渡された追加の資料を手に地下鉄で目的地へと移動する。
京子の実家からは北に百キロ以上移動しているのに、海に近いせいか雪もなく暖かい。
「ここだよね」
資料に載った写真と風景を照らし合わせると、綾斗が「ですね」と頷いた。
勾当台公園から定禅寺通りを東に進んだ広い交差点。
一般的な正月休みの最終日で、道行く人が制服姿の二人に涼しい視線を投げてくる。
胸元がネクタイであれば警備員か何かに思われるだけかもしれないが、妙に華やかな緑のアスコットタイのお陰で、キーダーの常駐しない土地では好奇の目が集まってしまう。
交通量の多いこの場所で、一ヶ月前事件が起きた。
小学一年生の少女が、不注意で走行中の乗用車の前へ飛び出したのだ。目撃者の多い事故だったが、その瞬間を見たという人はほんの僅かだ。
誰もが最悪の結末を予感したその時、少女の身体は宙を舞った。
乗用車との衝突で跳ね飛ばされたわけでもなく、本人の意思を無視して身体が車を避け、歩道へと逃れたらしい。
歩道で尻餅をついた少女に怪我はなく、乗用車にも傷一つ確認できなかった。
運転手はブレーキが間に合わないと思った視界から一瞬で少女の姿が消えたと言い、少女は目を閉じていて何も見てはいないが、フワリと身体が浮いたと言っている。
「この能力って、訓練なしでもそんな器用に使いこなせるものなんですね。でも、女の子が無事で良かった」
「咄嗟の判断にしては凄いよね。けど、綾斗だってアルガスに来る前から力は使えてたんでしょ? 全く……現役の私たちは毎日何してるんだろうって気分になるよ」
15歳を待たずに綾斗は力を覚醒させ、前倒しでアルガスに入っている。
京子は深く溜息をつき、資料をバッグに押し込んだ。
「先週、山梨に旅行してるって。間違いないね」
綾斗は同じ資料をめくって、顔写真の載ったページを探した。出てきたのは白髪交じりの五分刈りの男だ。
釣りあがった眉毛に対し少しだけ下がった細い目尻が少々いかつく、頬も扱けていて、正義の味方というよりは犯罪者的な人相に見えてくる。
この交差点に居合わせたという彼がバスクの力で少女を助けたという可能性を追い、導くのが今回の二人の仕事だ。キーダー不在の東北支部では判断しきれず、関東に応援要請が出た。
京子は歩行者を避けて公園前の歩道にしゃがみ込み、コンクリートに手を触れた。目を閉じて車の騒音から耳を澄まし、その気配を感じ取る。
「結構濃く残ってますね」
綾斗は足元を見回し、人差し指で自分の鼻を撫でた。
「そこでわかるの? 私は嗅ぐの苦手だから、こうしてやっと分かるくらい。綾斗は凄いね」
立ち上がり、京子は仁王立ちで腕を組む。
「京子さんって攻撃力は大舎卿並みなのに。人間得意不得意があるものですね、俺のは分かりますか?」
「そういえば、力使ってる時以外は感じないね」
「良かった。結構得意なんですよ。どっちかと言えば戦闘力を上げたいんですけどね。北陸に居た時、一通り指導員に色々教えてもらいました」
三年間能登の訓練施設に居た綾斗とは違い、十五歳からずっと関東本部にいる京子はキーダーのノウハウを全て大舎卿とマサに教えられた。
「羨ましいな。指導員って、やよいさんでしょ?」
「そうです。知ってるんですか? やよいさんに色々教えてもらったんですよ」
能登の訓練施設には北陸支部が併設されていて、常駐する唯一のキーダーがやよいだった。施設の指導員も兼ねている彼女はマサの同期で、「アイツは俺の親友だ」とよく昔話を聞かされている。酒好きで話も合い、既婚の彼女は京子にとって姉のような存在だった。
「爺はそんなこと教えてくれなかったなぁ」
「銀環してると大分押さえられる筈なのに、大舎卿も京子さんもダダ漏れですからね」
「ダダ漏れってヤな表現しないで」
何度か試したことはあるが、なかなかうまく行かない技だ。
「覚えなきゃいけないとは思ってるんだけどね」
公園で突然襲われた元旦の事件。
京子が狙われたとすれば、原因はそこにあるはずだ。今まで気配を消すことなど大して重要視してこなかったが、それを追って相手が京子に辿り着いたとなれば、危機感を感じなければならない。
「頑張って下さい」と綾斗は再び資料に視線を落とし、ふと複雑な表情を浮かべて京子を呼んだ。
「京子さん、東京に帰るまで昨日みたいにならないでくれますか?」
「ど、どうしたの、急に」
「仕事中に、あんな醜態晒さないで下さい、ってことです」
くるりと振り向いた綾斗の視線は京子を貫くほどに鋭い。京子は慌てて綾斗の手元を覗き込み、資料に目を走らせその文字を見つけた。
バスクと思われる男は名前を平野芳高といい、仙台の歓楽街でバーのマスターをしているらしい。
☆
アーケードを国分町の方角へ抜け、歓楽街を暫く歩いた所で、地図通りの狭い路地へ入る。
小さい店が建ち並ぶ袋小路の手前から四軒目が彼の店だ。町は夜の華やかさに包まれていたが、路地に入り込んだ途端明るさが半分に落ち、静かな空気が広がっている。
「高校生の来る所じゃないね」
「仕事だからいいんです。京子さんも……」
「わかってるよ。仕事とプライベートは別」
綾斗の言葉を遮って京子は店の扉に手を掛けた。
小料理屋が多い並びに黒い鉄の扉は異色に見えたが、中に入るとまだ九時前だというのにテーブル席に何組かの客がいた。暗めのライトが光る中、静かにジャズが流れている。
「いらっしゃいませ」と、よく通る男の声。
右奥のカウンターに立つ男が一人で店をやっているようだ。男の顔を確認し、京子は綾斗の背中をそっと叩いた。
奥に進むとマスターの平野に「どうぞ」とカウンター席を勧められ、二人は軽く頭を下げて外套を脱ぎ、腰を下ろした。
「物騒な格好で来たもんだな」
グラスを磨きながらぼそりと呟く平野に、京子は「すみません」と顔を起こす。写真では見ていたが、ひょろりと痩せた男だった。若干こけた頬が顔全体に刻まれた皺と相俟って実年齢に深みを与えていたが、大きく開かれた瞳がそれを打ち消すほどに凛と光った。
彼は気配を消しているようで、京子にはすぐに彼がバスクであるかを読み取ることができなかった。
ただ綾斗が「確定です」と耳打ちしてくる。嗅ぐ能力は本人が自負する通り強いようだ。
「平野芳高さんですね。私たちが来ることは予想されていたんですか?」
「来た所でどうしようってんだ。他の客もいるんだ、帰ってくれると有り難いね」
「明日、お店が始まる前に私たちと会う約束をしていただけるなら帰ります」
「笑わせるなよ。それより、ガキが来る場所じゃねぇぞ」
じろりと睨む平野に、綾斗は「仕事ですから」と返した。
客から注文が入り、平野は豪快にシェイカーを振る。
「お客さんたちも注文お願いします。こっちは商売なんで、空いてる席はないんですよ」
言っている側からも別の客が来店してくる。大分繁盛しているらしい。
「じゃあ……」と京子は側に置いてあったメニュー表を手に取り、目の前でグラスに注がれる藍色のカクテルに目を輝かせた。
「京子さん!」
けれど横から飛んで来る声に、京子は「ウーロン茶で」と肩を落とす。
綾斗は「僕は牛乳で」とマニュアル通りだ。
「ガキには言わねぇが、アンタは飲めるだろ。ウチは茶店じゃねぇんですがね」
あからさまに不愉快な顔をする平野に「どうする?」と京子が綾斗の顔色を窺った。相変わらずの仏頂面で「仕事ですよ」と念を押し、綾斗は「一杯ですよ、約束ですよ」と半ば諦めたように答える。
満面の笑みの京子に昨日の記憶をひしひしと蘇らせ、綾斗は頭を抱えた。そして、そんな京子の注文は「私のイメージでカクテルをお願いします」だった。
綾斗は思わず京子に怪訝な表情を投げつける。
「アンタ、本当にアルガスから来たのか?」
半分呆れ顔の平野に、京子は胸ポケットから取り出したカード型の証明書を見せる。
十年毎の全体更新が故、八年前に撮られた高校生の京子が写っている。あまりにも幼く、平野は何度も本人と見比べるが、やがて納得したのか「わかったよ」と呟いて、コンロの火を止めた。
先に綾斗の前に温められたミルクとチョコレートの入った皿を出し、シェイカーを開ける。
彼が京子に出したのは、カクテルグラスに入った淡い赤のお酒だ。女子らしい華のある色で、京子はパッと笑顔になる。ウォッカベースで飲みやすく、何か言いたげな綾斗を横目に京子は一口で半分を空けた。
「京子さん、これってそんなに急いで飲むものなんですか?」
焦る綾斗に京子はにっこりと笑い掛け、グラスをカウンターの奥へずらした。
「で、俺をどうするんだ」
平野が先に声を掛けて来る。京子は改まって姿勢を正した。
「その前に。平野さん、貴方が先週交差点で小学生の女の子を助けたのは事実ですか?」
「歳なんてわからねぇが、別に俺は責められるような事をした覚えはねぇからな」
「分かっています。イエスかノーでお願いします」
「イエスだな。その様子だと、この間の山のことも足が付いているのか」
あっさりと平野は事実を認めた。
「山梨の山中で爆発の痕跡が見つかった件、これも貴方で間違いないですね」
バスクが力試しに人気のない場所を選んで力を解放する事は、珍しい事ではなかった。銀環付きの綾斗ですらアルガス入官前に能登に行くきっかけとなった事件を起こしている。
「イエス。商店街の福引で富士御来光ツアーが当たってな。あれは感動して涙が出たぜ」
「あれは良かった」と繰り返す平野に、京子と綾斗は顔を見合わせ短く頷いた。
「アルガスの事はご存知ですか?」
「詳しくは知らねぇな」
「何らかの理由で出生検査を逃れた、銀環をしないままの能力者を、我々はバスクと呼びます。今の貴方がそうです。そしてバスクには私たちと同じように選択する権利が与えられます」
通常なら産院毎に検査をして、陽性が出れば国へと報告される。けれど、稀にその流れから外れてしまう人間がいるのだ。
「選択する権利ねぇ」
「一つはキーダーとなって私たちと共に訓練し、国のために生きる事です。ちなみに、元々力のない人間はノーマルって呼んでいます。もう一つはキーダーを選ばずにトールになること。この国の規則では、理由なく個人で力を所有することはできません。アルガスに入らない選択をするなら、力を消す必要があります」
「力を残したいならキーダーになって働けってことか。それが嫌なら消されちまうんだな。そんなのどっちもノーとしか言いたくないね」
はっきりと口にして、平野は京子を睨んだ。負けじと目に力を込めるが、思った以上に強かったアルコールに額が熱くなる。
「力を悪用しようなんて思ってねぇし。今のままここに居させてくれねぇか」
「それはできません。我々はバスクを野放しにはできない」
「俺の力は役に立っただろう? 俺が居なかったら、あの子供は確実に死んでたぜ」
「それでも、私たちキーダーには貴方を取り締まる義務があるんです。力は銀環がないと制御しきれなくなる恐れがあります。だから!」
興奮する京子の腕を綾斗が掴んだ。
「京子さん、落ち着いて下さい」
店内の視線が集まるのを感じ、京子は言葉を飲み込んだ。奥歯を噛んで衝動を抑える。
カクテルを運んで戻ってきた平野に、綾斗が説明する。
「貴方はもう六十歳を超えています。選択する権利はありますが、キーダーの訓練や仕事はかなり体力を消耗しますよ」
「俺に凡人になれっていうのか」
「誘導しているわけではありません。けど、」
「うるせぇ! もう帰れ」
したたかに、低く怒鳴る平野に、綾斗は開きかけた唇を強く結んだ。
「……また来ます。失礼しました」
残りのカクテルを一気に流し込み、京子は支払いをカウンターに乗せて立ち上がる。
「客として来るなら歓迎するが、その格好はやめてくれよ。他の客がビビっちまってる」
返事はせず、京子は深く頭を下げ外套を抱えて店を出た。
気丈に振舞う京子だが、店の扉が閉まると途端に表情が緩む。
「駄目だ綾斗……やっぱり、私、酔っ払っちゃった」
「ええっ?」と口元を震わせる綾斗に、京子は「ごめん」と手を合わせる。
「でも一人で歩けるよ。仕事もまぁ上手くいったほうじゃない?」
「あれでですか?」
案件が片付くことはなかったが、失敗したわけではない。
「わかりました。ホテルまで歩いてくれれば構いませんよ」
綾斗は外套を羽織り、京子を促した。