天才的な運動神経の持ち主なのに、猫の爪も避けられないんだ
勇気は少年に歩み寄りつつ、手に提げていた紺色のボストンバッグ型の鞄を開けると、応急処置用のグッズが入った、小さな白いポーチを取り出す。
そして、自分の鞄と少年のジャケットを如矢に預けると、ポーチから取り出した応急処置セットで、少年の傷に応急処置を始める。
「いいよ、消毒とかしなくても。この程度の傷、どうせすぐに治るんだし」
傷口に消毒液のスプレーを向けられた少年は、顔を顰めながら、言葉を続ける。
「前に刺された傷だって、半年で跡形も無く消えたの知ってるだろ。俺は傷の治りは早いし、傷跡も残らない体質なんだから」
「野良猫の引っ掻き傷、甘く見たら駄目! 菌やウイルスに感染して、酷く後引く事だってあるんだよ!」
少年の意見を無視し、勇気は少年の傷口に、消毒液を吹き付ける。
「それ染みるから、嫌いなんだよな……」
勇気は慣れた手付きで、愚痴る少年の手の傷に、応急処置を行う。
消毒を終えた傷口に傷薬を塗ると、ファンシーなキャラクターのイラストがプリントされた、大き目の絆創膏を取り出し、傷口を覆う様に貼り付ける。
手際良く応急処置を終えた勇気は、如矢から鞄を受け取ると、役目を終えたポーチを仕舞う。
「ありがとな」
絆創膏のデザインが、少し恥ずかしくはあったのだが、少年は勇気に礼を言いながら、如矢から自分のジャケットと鞄を受け取る。
ジャケットは勇気に預けていたのが、傷への応急処置の際、如矢の手に渡っていた物。
鞄の方は木に登る前に、少年が如矢に預けておいた物だ。
より正確にいえば、有無を言わせずに押し付けたのだが。
「悪いな如矢、鞄……長々と持たせて」
鞄を脚の間に挟み、ジャケットに袖を通しつつ、少年は如矢に礼を言う。
「そんな事はどうでも良い。それよりも、勇気に心配かける様な、危ない真似するなよ」
「大して危なくもないだろ、この程度の事」
しれっとした顔で、少年は言葉を返す。
「落っこちそうだったじゃないか、逆さ吊りになって」
如矢の言う「落っこちそうだった」とは、風に吹かれて半回転した時だ。
「あんなんで落ちやしないって、お前とじゃ運動神経のレベルが違うんだ。凡人のお前の基準で、天才的な運動神経の持ち主である俺にとっての、安全や危険の度合いを計るなよ」
ダブルのジャケットのボタンをはめながら、少年は軽口を叩き続ける。
「仮に……あの枝から落ちたところで、枝がこれだけある木なら、余裕で他の枝つかめるから、間違っても下まで落ちたりはしないしな」
「天才的な運動神経の持ち主なのに、猫の爪も避けられないんだ」
勇気は棘のある口調で、少年に言い放つ。
「いや、ほら……さっきは助け終わったばかりで、油断してたからさ」
気まずそうに言い訳する、ボタンをはめおえた少年に、勇気は追い討ちをかける。
「油断したり……裏切られたりで、酷い目に遭ってばかりな気がするけどね、兄さんの場合は」
思い当たる節があるので、少年は渋い表情を浮かべるだけで、言い返せない。
そして、鞄を右手に持つと、気まずさを誤魔化す様に、別の話題を持ち出しつつ、少年は校門に向って歩き始める。
「――そういえば、さっき話してた外国人みたいなの……誰?」
勇気と如矢も、少年と共に歩き始めるが、少年の問いに答えたのは、呆れ顔の勇気。
「うちの学校の先生なのに、知らないの? 英会話のリロイ先生だよ」
「たまに学内で見かけるんで、先生か何かだろうとは思ってたけど、名前までは知らなかっただけだって」
リロイの名を知らなかった言い訳を、少年は口にし続ける。
「授業受けた事もなければ、担任でも顧問でもない先生なんだし」
「そういえば、お前のクラスはエヴァ先生だっけ?」
如矢の問いに、少年は頷く。
勇気と如矢は同じクラスなのだが、少年は別のクラスであり、英会話の担当教師が違うのだ。
リロイに関する話をしながら歩いている内に、当のリロイがいる校門辺りに、三人は辿り着こうとしていた。
門柱には、「風目学園高等部」と刻まれた石版が、埋め込まれている。
高等部とあるのは、他に初等部と中等部があるからだ。
エスカレーター式である三校は、同じ敷地内にあるのだが、校門だけでなく施設は基本的に分けられている。
「おはようございまーす」
校門の前で、少年と勇気……如矢の三人は、教師達に朝の挨拶をする。
「おはよう」
教師達が返す挨拶の言葉を耳にしつつ、三人は校門を通り抜け、校舎に向って歩き続ける。
「朝から大変だよな、先生達も警察の人達も」
教師や警察官の姿が多い、校門付近の様子の感想を、少年は口にする。
「さっさと逮捕されりゃいいのに、『月曜日のコスプレイヤー殺し』の犯人」
そんな少年の言葉を耳にして、勇気と如矢は一瞬だけ目線を合わせると、複雑な表情を浮かべ、同じ言葉を呟く。
「――そうだね」
勇気と如矢の表情や口調に、少年は微妙な違和感を覚える。
だが、その違和感を上手く言語化出来なかったので、僅かな間だけ訝しげな表情を浮かべはしたが、少年は違和感については触れられず、三人の間に微妙に気まずい沈黙が訪れる。
三人の会話から分かる通り、多数の教師達だけでなく、警察官達までもが、登校時間の校門付近にいるのは、「月曜日のコスプレイヤー殺し」から生徒達を守る為だ。
風目学園の高等部は、九月の四日に三人、「月曜日のコスプレイヤー殺し」に殺されたと思われる、犠牲者を出していた。
一ヶ月に渡り続いている、連続殺人事件と思われる、通称「月曜日のコスプレイヤー殺し」の最初の犠牲者は、風目学園高等部から出ていたのだ。
事件発生直後は、マスメディアの取材も殺到し、保護者からも一時休校を求める声が上がるなど、かなりの大騒ぎになっていた。
その後も事件は続いているのだが、風目学園からは犠牲者が出ていない為、騒ぎは一応、風目学園では収まりつつあった。
それでも、保護者達や生徒達から上がる不安の声は大きく、登下校時は教師達に加え、地元警察の警察官達が、警備する状況が続いているのだ。