助けた結果、いつも損ばかりしてるのに、それでも懲りずに助けるんです、兄さんは
爽やかな朝の空の下、煉瓦造りの門柱と壁が印象的な、レトロなデザインの校門に、濃紺のブレザーに身を包んだ少年少女達が、吸い込まれて行く。
登校して来た生徒達は、徒歩の者達が殆どだが、自転車通学の者達もいる。
校門の前にいるのは、生徒達だけではない。
スーツ姿やジャージ姿の、十人程の教師達もいれば、あちらこちらに警察官達の姿もある。
賑わう校門の前から、三十メートル程離れた歩道で、足を止めた十数人の生徒達が、街路樹を見上げている。
二十メートル程の高さがある、根元で二股に分かれたクスノキであり、街路樹にしては育ち過ぎてしまった感じだ。
登校中の生徒達が、不自然に足を止め、クスノキの回りに集っているのに気付いた一人の教師が、理由を確かめる為、クスノキの方に歩いて来る。
二十代前半だろう、金色の髪と青い瞳が印象的な、派手な顔立ちの青年である。
着ているスーツはブラウンと、顔立ちとは違って、目立ちたく無いかの様に、地味な感じだ。
「あ、リロイ先生! おはようございまーす!」
教師……リロイ・サカザキの接近に気付いた、一人の女生徒が挨拶をすると、他の生徒達も次々とリロイに、朝の挨拶をする。
「おはよう!」
生徒達に挨拶を返しつつ立ち止まると、リロイもクスノキを見上げる。
すると、豊かな枝葉に隠されている為、見え難いのだが、ジャケットを脱いでクスノキを登っている、男子生徒……制服姿の少年の姿が見えた。
既に十メートル以上の高さまで、少年はクスノキを登っていた。
「危ないじゃないか! 彼は何で、あんな高い所まで登っているんだ?」
「猫を助けようとしてるんです、兄さん」
誰に……という訳でもなく、発せられたリロイの問いに答えたのは、クスノキの一番近くで少年を見上げていた、ジャケットを手にしている、不安げな表情の女生徒。
長いストレートの黒髪が印象的な、端正な顔立ちの少女である。
「天神さんに……雉岡君か」
リロイの問いに答えた少女が天神勇気で、勇気の左側に寄り添う様に立っている、背が高く精悍な身体つきの少年が、雉岡如矢。
如矢はベリーショートの黒髪が似合う、凛々(りり)しい少年だ。
勇気と如矢は同じクラスであり、そのクラスの授業を担当している為、リロイは二人と顔見知りであった。
「あれは……君のお兄さん?」
リロイの問いに頷くと、勇気は兄である少年が近付きつつある、枝の先端を指差す。
「あの辺りの枝に、猫がいるんです。登ったまま、降りられなくなったみたいで」
勇気の言葉通り、枝の先の方には、黒っぽい猫がしがみついていた。
かなり高い枝の上にいるので、猫は子鼠程の大きさにしか見えない。
だが、聞き耳を立てれば猫の不安げな鳴き声が、車の騒音に掻き消されずに聞こえるので、猫がいるのだと分かる。
高い所まで登ったけれど、自力では下りられなくなってしまったらしい猫が。
リロイは声を張り上げ、木を登る少年に注意する。
「天神君、危険だから下りなさい! 落ちたら軽い怪我じゃ済まないぞ!」
「言っても無駄ですよ」
兄からリロイに目線を移し、勇気は言葉を続ける。
「私達も、危ないから止める様に言ったんですけど、私達の言う事なんて無視して、これ預けて登り始めちゃいましたから」
手にしたジャケットを、勇気はリロイに見せると、目線を兄に戻す。
「昔から、危ない目に遭ってたり、困ってたりする奴を見かけると、自分の身の危険とか気にもせず、すぐ助けようとするんですよ、あいつは……」
困った奴だと言わんばかりの口調で、如矢が口にした言葉を、勇気が同様の口調で受け継ぐ。
「助けた結果、いつも損ばかりしてるのに、それでも懲りずに助けるんです、兄さんは。後先とか損得とか、考えもしないで」
そして、吐き捨てる様な口調で、勇気は言葉を続ける。
「沖縄にいた時に刺されたのだって、停学になって空手部を退部させられたのだって、元々は……兄さんッ!」
話の途中で、一陣の風が吹きぬけたかと思うと、勇気の言葉が、悲痛な叫び声に化ける。
十五メートル程の高さにある、猫がしがみついている枝まで辿り着き、枝に跨ろうとした少年が、身体を半回転させてしまったのを見て、勇気は驚いたのである。
「大丈夫だよ! ちょっと強い風が吹いたせいで、回っちゃっただけだから!」
悲痛な声を上げた妹を安心させる為、少年は声をかける。
実際、強い風を身に受けたせいで、少年は身体を風に流され、半回転してしまっていたのだ。
枝にぶら下がる形になった少年は、鉄棒で逆上がりでもするかの様に、事も無げに枝の上に戻る。
そして、ロープに跨って建物の間を渡る、消防隊員を思わせる動きで、枝の先端にいる猫の方へと、少年は移動し始める。
自力で下りれぬ不安に怯えて、猫は元から鳴いていた。
だが、見知らぬ少年が近付いて来るのも怖いらしく、枝に爪を立ててしがみ付いたまま、猫は毛を逆立てて唸る。
「――唸るなよ、俺は敵じゃない」
猫を刺激しない様に、努めて優しい声で話しかけながら、少年は猫に右手を伸ばす。
「一人じゃ下りられないから、鳴いてたんだろ? 一緒に下りようぜ」
唸ってはいるのだが、怯えて四肢をまともに動かせない猫は、手を引っかいてまで、少年を撃退しようとはしない。
唸ったまま首根っこをつかまれ、少年に引き寄せられてしまう。
「暴れないで、良い子にしてな」
少年の右腕に抱き抱えられた猫は、枝の代わりに少年の胸元に爪を立てる。
「痛っ!」
妹同様に整った顔を苦痛に歪め、声を上げながらも、少年は猫をしっかりと抱き抱えたまま、枝の上を後ずさる。
そして、右手が使えないハンディをものともせず、登った時と大差無いスムーズさで、枝と幹を上手く使って、猿の様な身軽さで木を下りて行く。
程無く、猫を抱えた少年は、歩道へと無事下り立つ。
勇気と如矢の安堵の表情と、十数人の気楽な見物人達からの拍手と歓声に、少年と猫は迎えられる。
双子である為、少年の顔は勇気と瓜二つと言える程で、完全な女顔。
だが、ラフに整えられたショートヘアの髪は、明るい茶色に染められているし、背も勇気より五センチ程高い為、かなり見た目の印象は違う。
少年は男子生徒用の制服を着ていなければ、背が高いボーイッシュな少女と、見紛いかねない外見だ。
背が高いといっても、それは少女である勇気と比べての話で、高校生の少年としてであれば、普通と言えるレベルでしかない。
腰を落とすと、少年は右腕を緩めて、抱き抱えていた猫を解放する。
すると、怯えてパニックを起していた状態で、身体の自由を取り戻した猫は、興奮して暴れ始めてしまい、少年は右手の甲を、猫に引っ掻かれてしまう。
苦痛に悲鳴を上げる少年を残し、猫は脱兎の如く駆け出すと、学校の敷地を囲む、煉瓦の塀を跳び越し、姿を消してしまう。
「――ったく、猫って奴は……しょうがねぇなぁ」
猫が走り去った方向に目をやりつつ、少年は渋い表情を浮かべ、愚痴を吐く。
そして、少年は立ち上がると、痛む右手の甲を見る……見事に三本の赤いラインが引かれ、出血している右手の甲を。
そんな少年の姿を目にした勇気は、「言った通りでしょう?」とでも言わんばかりに、リロイに向けて苦笑する。
「ホント、損ばかりしてるんだから」
「――その様だね」
リロイは肩を竦めて言葉を返すと、大事に至らなかったのを見届け終えた為、校門に向って歩き始める。
見物していた生徒達も、少年と猫の無事を見届けたので、リロイ同様に校門に向う。