冬 * 1
温かい。地面がふかふかしている。
違う。これは地面ではない。これは、
急速に意識が浮き上がっていく。それと同時に冷たい川に落ちたこと、雪に覆われた森を歩いたことを思い出す。
ぱちり、と目を開けた少女、真白の前に見知らぬ男性の顔があった。金色の睫毛に縁取られた瞳は碧色で、真白の国の人間ではないと一目で分かる。
真白の国の人間は髪も目も真っ黒だ。
たまに色素が薄くて茶色の人もいたが、滅多にいない。
窓から射す陽の光が男性をより神秘的に見せる。
じろじろと自分を観察する真白にくすりと微笑みかけた男性は、何を思ったのかぎゅう、と真白を抱き締めた。
真白とその男性はふかふかの布団の中にいる。凍えた真白を温めていてくれたのだろう。凍え死んでしまったと思っていたから、ほっとした。
『―――?』
男性が何かを真白に聞いていることは分かったのだが、真白はその男性が何語を話しているのか分からない。
田舎で育った真白に外人と知り合う機会なんてなかったし、外国語を覚える必要だってなかった。
真白は首を振って、言葉が通じないと伝えた。
『――――! ――。』
なんてことだ、みたいな事でも言ったのだろうか。
男性は天井を仰いでいる。
ここはどこなのだろう。言葉の通じない国であるのは間違いないが、この男性はどんなつもりで真白を拾ったのだろう。
見たところ、それなりに裕福そうに見えた。
金持ちの偽善で助けられたのかもしれない。
それなら助かる。彼に求められるのは幸せになることだ。
自分が助けたから、これは幸せになったのだと自慢したいのなら、餓えることも傷つけられることもない。
当たり前にあった幸せが壊れてしまったから、もう生きることしか真白には頭にない。大人しくしていたら、しばらくは置いてもらえるかもしれない。
それとも、言葉の通じないものは要らないと捨てられるだろうか。
『ユヅル、――――――。』
ぶつぶつと文句を言っている様子の男性の言葉の中に聞きなれた響きの言葉があった。
(人の、名前? もしかして、)
この人の知り合いに真白の国の人間がいるのかもしれない。
待っていてくれ、とでも言うように男性は真白に手の平を見せて、部屋を出ていった。言葉の通じる人間を呼びにいったのだろう。
いい人に拾ってもらえたみたいだ。
あの人に何とか恩返しできないものだろうか。
母の手伝いをよくしていたから力だけはある。
真白に出来ることなんてたかが知れているが、言葉は通じなくても気持ちは伝わるものだ。
ある程度恩返しが出来たらここを出ていこう。しかし、出ていった先の未来がまだ考えられない。つい昨日まで戦禍のごたごたに巻き込まれて、蹂躙されて死ぬものだと思っていたから、真白は自分が何をしたいのか分からない。
「帰りたいなあ。でも帰れないよね。」
燃えてしまった故郷は他国の領土となっているかもしれない。それに、何も残っていないだろう。家族の亡骸も何もかも。
家族が死んでしまったら、泣いてしまうかと思っていた。みっともなく声をあげて、ぐしゃぐしゃの顔で泣きじゃくってしまうと。
なのに、いざ死んでしまうと現実感がなくて涙のひとつも出やしない。さっきまで笑っていたのに、さっきまでうだうだと屁理屈をこねていたのに、あっという間に倒れて目を閉じてしまった。
生きているかもしれない、なんて想像をできない。
だって、見ていたから。皆が絶命する瞬間を。
真白は昔から泣き虫だった。それなのに、泣けない。
「はは、冷たいお姉ちゃんでごめんね。」
そう自嘲気味につぶやいて、ようやく真白は起き上がる。
暫くして、金髪の男性が他の男性を連れて戻ってきた。
黒髪に冬の空のような薄青の瞳。彼が『ユヅル』とやらだろうか。黒髪だし真白の国とここの国のハーフかもしれない。
しかし、金髪の男性よりかなり身長が高い。
もしかして、ハーフじゃなくてクォーターかもしれない。
真白の国にここまで身長が高くて足の長い人はいないから。
それにしても、すごい威圧感だ。少し怖い。
目付きも鋭くて、とても不機嫌そうにしている。
黒髪の男性がちらっと真白を見て、口を開いた。
『―――――。』
『――。―――?』
『―――、―――――――!』
黒髪の男性と金髪の男性が言っている。
話の内容が分からないから真白はどうしようもない。
『―――?――。』
『―――。』
「お前、名前は? どこから来た?」
「え、」
唐突に聞き取れる言葉になって真白は固まる。
黒髪の男性は固まった真白にもう一度同じ質問を投げた。
苛立っているのが分かって真白は萎縮してしまう。
だが、助けてもらったお礼は言わなければと思って、真白は頭の中で言葉を組み立てる。分かりやすく丁寧に話せるように。
「えっと、名前は真白です。住んでた町が戦争でなくなっちゃって、故郷はもうありませんし、家族もいません。奴隷商らしき人たちに連れてかれてる最中に乗り物ごと川に落ちちゃって。助かりました。」
「なるほどな。面倒くさい。」
面倒くせ、どの辺に対して面倒くさいなのだろうか。
故郷がもうないことか? それとも奴隷商に身柄を拘束されていたからか?
短い言葉だが、弱っている真白には刺さる。今なら泣ける気がした。
面倒くさいなら真白をこの家に入れなければ良かったのに。真白を助けなければあの真っ白な森で勝手に死んだのに。真白の頭には卑屈な考えしか浮かばない。
「で、これからどうするつもり? 色々あったみたいだし、今はあんま考えられないかもしれないけど。いつまでもここにいられるわけじゃない。まあ、今は熱があるみたいだし、暫くは安静にしてなよ。」
安静にしてろ、と言われて真白は呆気に取られた。
そんなに悪い人ではないのかもしれない。
「……私を助けていただいたようで、ありがとうございました。とそちらの方にもお伝えください。身体の調子が戻りましたら直ぐにでも出ていきますので、それまでの間ここに置いてください。お願いします。」
「うん、熱が下がったらさっさと出ていって。」
この家の主っぽいユヅルとやらは、やけにあっさりと滞在を許してくれた。目が覚めたなら出ていけ、なんて言うほど鬼畜ではなかったらしい。
『―――。―――――。』
黒髪の男性が金髪の男性に話しかける。今の真白との会話内容を伝えているのだろう。
『――――!?』
『―――?―――。』
『……。―――! ――――――――――。』
『――、――真白―――――――――――――。』
『―――――。―――。』
「こいつはルートヴィヒ、この別荘の持ち主。真白に身体は辛くないかって言ってる。で、俺は結弦。父親が真白の国の生まれ。」
なんと、結弦が家の主ではなかったのか。
尊大な態度を取っているから主かと思ってしまった。
「そうですか。では、ルートヴィヒさんに身体は少し熱っぽいくらいです、とお伝えください。」
「ああ。」
『――――――。―――――――、―――――――――――――。』
『―――――。―マシロ――!』
突然、ルートヴィヒに名前を呼ばれたかと思うと、頭の上に重みを感じた。よしよしと頭を撫でられている。どうしてだろうと、戸惑う真白にルートヴィヒは労るような笑みを向けてくれた。
ぶわっと顔が赤く染まる。
あまり異性との接触がなく免疫のない真白にそれはきつい。
というか、心身ともに弱った今そんなことをされると泣きそうになってしまう。顔をくしゃりと歪めた真白にルートヴィヒは狼狽えて、少し躊躇した後に優しく真白を抱き締めた。
背中も宥めるように撫でられて、涙が堰を切ったように溢れていく。
言葉が通じないのに行動で真白を慰めてくれている。
『―――――――――――――。』
そのまま、泣きつかれて眠ってしまうまでルートヴィヒは真白を抱き締めてくれていた。