氷 * 5
寂しい思いをさせてしまった。
フロレンツィアの面倒を見ている間に、愛しい真白は別荘へ帰ってしまっていた。
本当は、真白と一緒に景色を見ようとしていたのに、どこからかフロレンツィアが嗅ぎ付けて、折角の二人きりのデートについてきてしまったのだ。
おそらく、ルートヴィヒが真白を囲うつもりなのは気付いているから、愛人候補の真白といい関係を築きたかったようだが、それを許すつもりはない。
本当は結弦にだって近付けたくないのに、真白の細かい要望を聞くには結弦の力が必要だった。
しかし、ルートヴィヒが言葉を覚えきった暁には結弦になんて近付けさせない。腕の中で大切に囲って、傷つかないように閉じ込める。
今はまだ簡単な言葉しか言えないが、気持ちは伝えている。
ルートヴィヒの発音がぎこちなくても、真白は嬉しそうにはにかむ。
彼女はこちらの言葉を認識できない。おそらく、ルートヴィヒの父が結弦に頼んでいたのだろう。せっかく結んだ縁談を邪魔されないために。
しかし、フロレンツィアの機嫌も上手くとっているのだから、放っておいてくれと思う。この時期にこの別荘にフロレンツィアを送り込んだのも父だろう。
結弦も結弦で、父の言いなりになる必要はなかったのに。まあ、あの父のことだ。女を近づけるな、もし縁談の邪魔になるようだったらその女を殺す。くらいは言っていそうだ。
結弦は真白に親近感を持っている。半分は同じ国の血を引いているわけだし、結弦にしては珍しく親身に世話をしているようだった。
仲良さげに話す二人の姿を見ては嫉妬している。
真白はルートヴィヒの前では大人しくしているのに、結弦の前ではくるくると表情がよく変わるのだ。それを見て嫉妬しない奴がいるだろうか。
ひと冬しか結弦は別荘に滞在しないのに、真白はなついている。ルートヴィヒの方が長い時間を共に過ごしているのに、喜怒哀楽を全身で表してくれない。
ルートヴィヒと結弦。どこが違うのか分からない。若さだろうか。しかし、真白くらいの年頃なら年上の方が好みだろう。
口付けは嫌がらない、それ以上は嫌がる。
ルートヴィヒを焦らして楽しんでいるのかと思うこともある。
ただ、名前の通りに真っ白だから彼女にそんなつもりはないのは分かっている。しかし、どうも腑に落ちない。
なんだか歯車が上手く噛み合っていないような気がして、ルートヴィヒはいつも不安を抱いていた。真白は腕の中にいるのに、確かに感触はあるのに、実感がいまいち湧かない。
いつか溶けてなくなってしまいそうな存在感だ。
こちらから手を離せばすぐに消えてしまう。
妙な焦燥感を抱いていたルートヴィヒの部屋に、この別荘の管理を任せているトビアスが堅い面持ちでやって来た。
「ルートヴィヒ様。報告が……。」
「なに?」
「先程、イェシカの方からマシロがどこにもいないと。」
心臓が嫌な音を立てた。
「散歩に出てるんじゃないの?」
震えそうになる声を抑えてルートヴィヒは言葉を絞り出す。
「その可能性は低いかと、外は猛吹雪でございます。」
ぐっ、と拳を握り締めた。
まだ真白が居なくなったとは限らない。別荘内で迷子になっている可能性だってある。それか、外に出てあまりの天候の悪さに自分の帰る方向を見失ったかもしれない。
「ユヅルに探査魔法頼もうか。」
「……ユヅル様も朝から姿が見えません。」
「二人の失踪に関係があるとでも?」
「マシロはここ最近沈んだ顔をしておりましたから、ユヅル様が彼女を励ましている姿をよく見ました。ですので、マシロの家出にユヅル様が付いて行ったのではないか。私はそう思っております。」
「なんで家出するの?」
ドクドクと音を立ててルートヴィヒの心臓が早鐘を打つ。
確かに真白は沈んだ顔をしていた。でも、結弦が彼女を励ましていたなんて、ルートヴィヒは知らない。
「この爺の勝手な想像ではありますが、フロレンツィア様の訪問に居場所をなくしたような気分になったのではないかと。」
居場所をなくす? なぜだろう。
「僕がこんなに愛しているのに?」
「伝わっていなかったと考えた方がよろしいでしょう。」
あんなに言葉を重ねて、唇だって重ねていた。
それが真白に伝わっていなかった? 真白がここに来てもう四年も経っている。付き合うようになって三年、では真白はどんな感情でルートヴィヒと向き合っていたのだろうか。
「二人を探すよう手配しといて。何がなんでも探し出せ。もしかしたら、まだその辺にいるかもしれないし見てくるよ。」
部屋を出て、真白の居そうなところを全て探した。しかし、彼女の痕跡ひとつ見つけられなかった。身体の一部が千切れてしまったような感覚になる。
真白の部屋には何も残されていなかった。
だが、結弦の部屋に一通の手紙が置いてあった。
~・~・~
ルートヴィヒへ
今まで世話になった。
成人の年齢に達したから好きに生きようと思う。
フロレンツィアと元気にやって長生きして。
追伸
真白のことは心配しなくても大丈夫。
結弦より
~・~・~
まさか、結弦は真白に恋情を抱いていたのだろうか。いや、そんな素振りはなかった。
純粋に親切で手を貸した可能性もある。
(それにユヅルは、マシロに対して罪悪感があるはず。)
彼女がこんなところに流れ着いた原因に、結弦は関わっているから。
*・*・*
「ねぇ! 本当に大丈夫?」
夜の内に別荘を出て、町の宿で一晩過ごした。
次の日の朝、別荘のある森は雪が降っているのか真っ白になっていて、何も見えなかった。
「大丈夫ってなにが?」
「私なんも言ってないよ? お世話になりました、とか。辞めさせてもらいます、とか。本当の本当に大丈夫?」
助ける、と言われてからすぐに荷物を纏めて別荘を後にした。四年もお世話になった人たちに何も言わないというのは如何なものか。
「大丈夫。俺が言っといたから。」
「でも、」
尚も言い募ろうとする真白の肩に手を置いて、困ったように笑った。
「真白はもう心配しなくてもいい。泣きたいときは泣けばいいし、叫びたければ叫べばいい。もう我慢するな。俺に出来ることは何でもする。何でも言って。」
昨日から、結弦がおかしい。
(変なものでも食べたとか? や、頭打ったのかも……。)
こんな性格だったっけ、と首を捻る。
もっと皮肉屋だった記憶があるのだが気のせいだろうか。
「なんで、そんなにしてくれるのか分かんない。」
「知らなくていい、今は。」
「じゃあ、いつかは教えてくれるんだ。」
「うん。いつかは。それより、真白のいびきのせいであんまり寝れなかったんだけど、どうしてくれる?」
唐突に結弦の雰囲気がごろりと変わった。
ぽかん、としてしまった真白を見て結弦はくすくすと笑う。
「……そりゃあ失礼しましたね。鼻が悪いから仕方ないでしょ。」
「明日からは耳栓つけて寝ることにする。」
「そうした方がいいかもね!」
ふん、とそっぽを向いて真白は歩き出した。
あの場所から逃げてしまった、という複雑な感情はある。
あのまま、春まであそこで我慢したって良かったのに。
誰も助けてくれない、と思っていた所で結弦が手を差し伸べてくれたから、弱くなっていたところに入り込まれてしまった。
あそこを離れたら、何か変わるだろうか。
でも、もう『悪いこと』はしたくない。
いっそのことフロレンツィアがルートヴィヒを慕っていなければ、遠慮なくルートヴィヒに寄り掛かれたかもしれない。
でも、フロレンツィアのルートヴィヒを見る目は恋する乙女のものだった。そして、ルートヴィヒもフロレンツィアのことを嫌っていないようだった。
もう限界だったのだ。あそこにいるのは。
だから今、真白は清々しい気持ちになっている。
まだ、心にルートヴィヒの影があるが。それもいつかは無くなってしまうだろう。
だからそれまでは、もう少し淡い想いを抱いていたい。
実らなかった初恋を記憶することは『悪いこと』ではないのだから。




