氷 * 4
じくじくと熱を持ち始めた足首より、この場所から逃げられないことの方がきつかった。目を逸らしたいのに逸らせない。
どうして気付かなかったのだろう。
ずっと、寂しかったのに。
この愛情が続くわけがないと言い聞かせて、自分の望みなんて見ないふりをしていた。
あの場所は真白の居て良い場所じゃないから、今は羽を休めるための場所。疲れが取れたらどこかへ旅立つのだと。
今だけは、愛情が欲しいからルートヴィヒを利用しているだけ。
そんな風に抑えて、堪えた感情が今になって零れだす。
どうして、こんなところにいるのだろう。
あの日、家族がいなくなった日に選ぶことがなくなった。
これをしたいからこうしよう。そう思っていた。昔は。
それが、こうなってしまったからこうするしかない。
そうやって選択することがなくなっていた。
欲しいものができても欲しいと口にしなかった。
私だけを想ってくれる誰かが欲しい。
それがルートヴィヒだったら、とても嬉しい。
ああ、それなのに。
ルートヴィヒは他に大切な許嫁がいる。
彼に愛情があるかどうかは分からない。でも、フロレンツィアの方はルートヴィヒを恋い慕っているようだった。
放っておけば愛情が芽生えそうな二人の間に異物は入り込んではいけない。
結婚相手は自分のことを大好きな人に、そう母が教えてくれた。だから、ルートヴィヒもフロレンツィアの手によって幸せになるだろう。
(早く、帰らないと。)
痛みはいつのまにか感じなくなっていた。
*・*・*
あれから勝手に帰ってしまったことをルートヴィヒに怒られたが、フロレンツィアは満足そうにしていたから、真白の選択は間違ってない。
間違えていないのに、どうして苦い気持ちになるのだろう。
真白は自室で一人膝を抱えて泣いていた。
どうして泣いてしまうのかもよくわからなかったが、感情がぐちゃぐちゃになって勝手に涙が零れていく。
ようやく涙が止んだ頃には目は腫れて重たくなっていた。
明日までに治さないとルートヴィヒに何か言われる。
ルートヴィヒのことを思い出し、また胸が締め付けられて、一滴の涙が真白の頬を伝っていった。
許嫁が、フロレンツィアが居なければ、こんな気持ちにならなかったのに。どうして、ルートヴィヒは真白に愛の言葉を贈るのか。真白の気持ちを知っているだろうに。本当に何がしたいのか分からない。
どうして、真白ばかり嫌な目に合わないといけないのだろう。
昏い凝った感情が真白を浸食していく。
そのまま、身を任せてしまうかのように微睡みはじめた真白だが、コンコンと扉を叩く音がして、「俺だ」という声が聞こえた。
「ゆ、づる?」
結弦は初めて会った時から何も変わらない。
そんな結弦の声に縋るようにドアノブに手をかけた。
「なんて顔してるんだ。」
扉を開ければ、心配そうな面持ちの結弦があった。
「不細工に磨きがかかったでしょ?」
涙の跡を誤魔化すようにおどけて言ってみるが、笑おうと思った顔は泣き笑いのように歪んでしまった。
「可哀想に。」
なぜか真白以上に苦しそうな顔をする結弦を不思議に思う。
結弦がどうしてそんな顔をするのか分からない。
優しい人だから泣いている真白を見て同情しているのだろうか。でも、結弦は同情とかはしなさそうに見える。
「私、可愛くないのにね。泣いたらお面みたいになっちゃうよ。ここの人みんな綺麗な顔してるから羨ましい。やっぱり、みんな綺麗な人が良いよね。」
フロレンツィアの姿を思い起こす。彼女はスタイル抜群で、顔もお人形さんのように綺麗で、声も透き通っている。髪もルートヴィヒと同じ金糸のような髪だ。
真白はお世辞にも美人とは言えない。それでも、両親から産まれたからこの顔なのだと誇りを持って生きている。
真っ黒な髪も父から受け継いだ。ここまで黒いのは中々いないと、「父さんの娘の証だ」そう優しい声で腕で抱き締めてくれた。
ぽたぽたと涙が落ちていく。
自分のことばかりで、家族のことを考える時間を作らなかった。もしかしたら生きているかもしれない、そんな風に思っても、あの焼け野原へは探しにいけない。今は無理だから。
そうやって先伸ばしにして、ここから出て行かなかった。
理由は分からないけど、ルートヴィヒが愛してくれているようだったから、居心地が良かったから。
でも、会いたい。家族に会いたい。
せめて、あの場所に帰って見つけたい。それが希望でも絶望でも構わないから、会いたい。
ここは寒くて寂しい。疑わないで愛情を受け取れるような人なんて家族以外にいない。これから先になんて見つかりっこない。
諦めてしまえば、楽になる。分かっている。
でも、どうしても頭の中に浮かんでしまう。
「ルートヴィヒさん、私のことどう思ってるのかな。ねぇ、結弦は私のことどう思ってる? 身の程知らずの不細工とか?」
とんでもなく面倒な女になってしまった。でも、口から零れた言葉は元に戻せない。後悔しながら、結弦を見上げる。
「顔の美醜はどうでもいい。顔を見て俺が不快になる人間だったら、とっくに離れてる。真白にも見所はあると思うけど。」
「ほんとに、結弦は優しいね。」
そう言って、くしゃりと顔を歪めた真白にハンカチを渡してくれる。
「多分、懐に入れた人間にだけ。その他は切り捨てられる。」
「羨ましい。私も、もっと白か黒かくらいはっきり決めれたらいいのに。いっつも中途半端なことしかできないんだよね。」
「どうにもならないものじゃないのか。感情なんて。日によって気分も変わるだろ。今は大丈夫だと思っても、いつかは駄目にもなる。」
年下のはずなのに結弦はいつも落ち着いていて、自分の芯を持っている。流されっぱなしの真白とは雲泥の差だ。
「駄目な時が来たらどうしたらいいかなあ。」
「逃げればいい。」
その返答に驚いて目を丸くする。
足掻けとか、戦えと言われるかと思っていた。
「逃げるのって、いけない事じゃない?」
「いけない事とか関係ない。真白はどうしたい?」
「私? どうして?」
「何か望みがあるなら俺が叶える。必ず。」
真剣な顔で結弦は言った。いつも真白のことをからかうのに、薄青の瞳は真白の心の奥底まで見透かすように真っ直ぐ真白を見据えていた。
「望み……。私の望み。」
何だろうと考えようとするが、思い浮かばない。
「なんでもいい。頼むから教えて。」
ないものを教えてと言われても、困る。
(望み、したいこと……。)
一分考えて、浮かんだものはさっきも考えたことだった。
「帰り、たい。家に帰りたい……。」
いつも、ルートヴィヒに嫌われないようにする為にはどうすればいいかを考えていた。家族のことを思い出す時間は少ない。
でも、ここは居心地が悪い。ルートヴィヒの腕の中は心地よくても、それ以外は肌に合わない。言葉が通じる結弦は別として、他の人との関わりは疲れるだけだった。
「ここは嫌。誰も助けてくれない、好きな人も私の気持ちなんて考えてくれない。もう……嫌っ!」
初めて好きになった人は、許嫁とキスをした後にキスをしてくる。でも、懸命に真白の国の言葉を覚えてくれる姿が愛おしかった。
それで、我慢できると思っていた。そんなこと堪えられるわけないのに。壊れたばかりの恋心は行き場をなくして、涙となって流れていく。
このまま、この涙のように心も流れて消えればいいのに。
「私だって好きなのに。どうしてあの人は、あんなに簡単に隣に行けるの? 言葉が違うから、身分がないから? なんで、なんで、なんで。私だって好きでここに来たわけじゃない。」
もう、何が言いたいのか分からない。抑圧していた様々な感情が口から飛び出して、みっともなく声を上げて泣く真白の頭を結弦はそっと撫でた。
「ごめん。追い詰めて。大丈夫だから、俺が助ける。」
躊躇いがちに真白に触れた結弦の手は、ルートヴィヒの手と違って氷のように冷たい。でも、それが今の真白にとっては充分過ぎるくらいだった。




