豊川海軍工廠戦没者供養塔2
豊川稲荷と呼ばれるその施設は、正式な名称を『円福山 豊川閣 妙厳寺』という。
稲荷と聞いてみなさんはどんな光景を思い浮かべるだろう。幾重にもつらなった赤い鳥居のトンネル? 巻物をくわえた狐の石像?
稲荷というのは本来は稲荷神社のことを指す。名前のとおり祀っているご祭神は稲の神さまだ。そして狛犬よろしく神社を守っているのが眷属(神さまの家来)の狐。
ところが。
ここでもう一度豊川稲荷の正式名称を見てほしい。『円福山』は創建当初に施設が建てられた地名から取られた山号だから、まあよかろう。『豊川閣』も皇族によって寄進された扁額(寺社の入り口などに掲げられている大型の額)の文字を意味しているそうだから、これも疑問はない。
だが『妙厳寺』は?
稲荷は稲荷神社の省略系である。つまり神社なのだ。
けれど豊川稲荷は寺。稲荷と冠していても寺なのだ。
なぜ?
ここで少し歴史の勉強をしなおしてみよう。
現在の日本では寺と神社はきっちりと分けられる。お寺が礼拝しているのは仏さま、神社は神さま。仏さまは仏像(人型の偶像)として再現される。神さまは心霊の宿った物体(依代と呼ばれる)をお祀りする。
ところがこの区分け、実はわりと近代に入ってから始まったものなのだ。江戸時代まで神社と寺は同じ敷地内に併設されていることが多かった。というのも、このころのお寺は役所も兼ねていた。信仰の場は神社、実務を司るのが寺。移動手段が徒歩しかなかった時代、主要な施設は近くにあったほうが便利だったのだろう。
だが明治時代に入って神仏分離令が発布され、神社と寺を明確に分けることが強制された。この理由については、いまなお多くの利害関係からはっきりさせることをこばむ風潮があるが、苦笑をまじえた筆者の私見を書かせてもらうと、国民皆兵を押しすすめようとした軍部&政治家の陰謀だろうと思っている。つまりこういうことだ。
幕末に黒船(アメリカが日本の鎖国を解かせようと脅す目的で就航してきた巨大な軍船団)が襲来してきたことで浮き足立った日本。それまで海外を意識することなくのほほんと小さな意地ばかり張りあってきた日本国民にとって、アメリカの軍事力はまさに度肝を抜かれる事態だった。
幸い黒船は日本に戦争をしかけることはなかった。だが、それでも日本人の意識はここで一変する。いまのままの軍事体制で我が国は本当に大丈夫なのか、と。
そこで政治家でもあり軍人でもあった山懸有朋が、それまで武士任せだった戦闘を国民全員に課すことを策定する(初期は山縣一人の案ではない)。これが国民皆兵のシステム。要するに徴兵制のことね。
余談だけどここで豆知識。みなさんは廃藩置県という言葉を知ってるでしょうか? これは、江戸時代まで自治の中心的役割を担っていた藩を廃止して、県という単位に置きなおした明治政府の改革のことなのです。
ところがこの改革、実はある身分の人たちから財産や権力を没収するために行われたとんでもない暴政だったのだな。その迫害を受けたのは、……もうピンときたかしら、そう、武士なのだ。
藩は藩主という武士の親分によって運営されていた。そして一般の武士は藩主に忠誠を尽くすことによって禄(給料)をもらっていた。だから藩を『日本国が所有する』県にしてしまうと、藩主は放逐、武士は失業という事態に陥ってしまうのだ。
ではなんで明治政府がこんなことをしでかしたのかというと……。
ここに先の国民皆兵がからんでくる。山縣を始めとした政府要人たちの中には、全国民を兵とするために職業軍人の武士の存在が邪魔だと考える人たちが少なくなかった。だって軍人がいるのにわざわざ農民町人が兵士になるっておかしいよね?
山縣がなぜ国民皆兵にこだわったのかははっきりしていない。一説には、下級武士だった山縣が自分を侮蔑しつづけた上級武士をお役御免にするために仕組んだとも言われてる。ただまあそれだけじゃないはずだけど。そんな私憤じゃあ賛同者は得られないからね。大義名分として言われているのは予算の問題。職業軍人の武士には軍人としての報酬を常に渡さなければならないが、農民町人なら戦争時にだけ徴収をかければいいから予算が低くてすむ。国民に金をまくことをしぶる政治家にはウケそうな理由だよね。
で、そんな工作を重ねて武士を壊滅に追いこんだ山縣は、平行して国民皆兵による富国強兵への道を進む。帝国陸軍を創り、近代兵器を買いまくり、徴兵令を発布し、それからちょこっと汚職もしたり。
ところがここで問題が発覚。軍人として鍛えられた武士と違って、農民町人で構成された民兵は、戦闘時に怖気づいてしまうことが多いのだ。いくら高価な武器を与えても志気が上がらないんじゃあ、猫に小判もいいとこだったの。
どうすれば民兵を一人前の軍人にすることができるのか。
ふつうなら長い時間と金をかけて訓練することで成しえるその成果。けれど急速な近代化を求めた日本はその方法を取れなかった。そこで代わりに好まれた訓練法は。
精神論による統率。
つまり、たとえ民間あがりのにわか兵士であろうと命がけで日本を守れば必ず勝利はもたらされる、なんて妄言を国民に植えつけたのね。そして具体的に日本国の象徴にされたのが天皇。『天皇を守るために命を投げだせ。天皇は神であるから、天皇のために戦うことは正義である。そして正義は勝つ』というマインドコントロールを行ったんだな。
そこでもうひと押ししようと策定された秘策が神仏分離令。
この法令が発布された当時、仏と神は価値が混在していた。というか、むしろ国民にとって身近だったのは寺のほうだった。でもこれでは天皇=神と位置づけた軍部&政権にとって都合が悪い。だって「神は偉大だ」と国民に信じこませようとしている横で、寺が「うちにお参りすれば神さんのご利益と同じ効果が得られますよ~」なんて言ってたら目も当てられない。だから、まず寺と神社をしっかりと区別させる。そのうえで「国民が信じるべきは神のほうだ(国家神道)」と導き、裏でこっそりと「寺は金に汚い。権力ばかり欲しがる」などと流布して各地で寺に反発する暴動を起こさせる(廃仏毀釈)。
あ。一応くりかえしておきます。これは私の私見。
でも日本にはこういう戦術が、少なくとも戦国時代から、あるんだよね。しかも第二次世界大戦中にも同じ方法が取られているし。
近代史って学生のころから人気のない分野だったけど、こういう陰謀に目を向けて勉強しなおしたら、少しは興味の持てるジャンルに昇格するかもしれないね。
というわけで、大きく脱線したが、話を豊川稲荷に戻す。
豊川稲荷、正式名称は妙厳寺。なぜお寺に稲荷神社の通称を用いているのかというと。
実はここは明治の神仏分離令の圧力にも負けずに生きのこった神仏習合の寺院なのだ。
江戸時代まではお寺と神社は併設されていたことが多い、と先に書かせてもらった。具体的に言うと、お寺の敷地に神社のお社を建てて一緒にお参りしていたのである。
豊川稲荷も同じで、いまも妙厳寺の境内にはお稲荷さんが建立されている。というか、訪ねて初めて知ったのだが、あれはもう寺ではない。入口には立派な石造りの鳥居があるし、その向こうにある建物はお寺の本堂ではなく神社の本殿だ。ただし中に祀られているのは仏さまだが。
豊川稲荷がこのような形状で残されていた理由は、ひとえに知名度の功績らしい。今川義元やら徳川家康やら、三重県の志摩で大活躍していた九鬼水軍なんかも帰依していたというから驚きだ。わりと新しいところでは大岡越前とか。
でまあ明治政府もゴリ押ししきることができずに、妙厳寺の中に稲荷神社を残すことを認めた。が、それでも当初は鳥居も撤去され、豊川稲荷と呼称することも禁止されたようではあるが。いまある鳥居は戦後に建てられたものとのこと。
ちなみに現在の豊川稲荷本殿の写真がこれ。
それと、特別におもしろい画像ではないが、このあとに掲載させていただくものとの比較のために二つほど貼らせてもらおう。
八月一六日。盆明けのこの日の豊川はうっすらとした曇り空だった。また見たとおり、撮影していた機材(筆者のスマホのカメラ)にも問題はなかった。
豊川稲荷で撮った写真は全部で一九枚。明日に宿題の提出を控えている高校生息子を待たせながらも、わりとしっかり観光してきたと思う。
そして小学生息子には、やはり、
「楽しくなかった!」
とのブーイングの嵐をもらった。……だよね~。
主目的だった豊川海軍工廠戦没者供養塔にもお参りでき、妙厳寺の門前町ではなかったが昼食にもありつけた。突発的な訪問にしてはまあまあ充実した、そして穏やかな参拝だったと思う。
……と思っていた。
それに気づいたのは、旅行から帰って三週間もしたころだ。
八月の母は忙しい。夏休みで毎日うちにたむろする小学生息子の友人たちを、
「ねえねえ、一緒に怖い動画見ない?」
と接待したり、無事に出校日を乗りきった高校生息子に、
「心霊スポット行こうよ~。どっか遠出してさ~」
と癒やしを与えたり。
だから記憶から消えかかっていたその旅行のデジタル画像を見たとき、
「なんじゃ、これ?」
と最初は気づかずにPCのゴミ箱に入れてしまった。それぐらい『ただの失敗写真』に見えたのだ。
では次回、エピソードもからめて、その画像に映っていた子たちを紹介しよう。
具体的な姿がないので怖いことはないが、映っているのはまちがいなく霊体なので、過剰に影響を受ける方は心して見てほしい。
なお霊障はない。本人たちに言い聞かせてある。