豊川海軍工廠戦没者供養塔1
二〇一五年八月一六日 天気 曇 愛知県豊川市豊川町豊川稲荷内
この話を掲載するにあたって最初にお伝えすべきことがある。お手数ですが、まず聞いてください。
筆者は心霊体験が多い。姿を見たという一過性のものから会話にこぎつけるという高等なことまで経験がある。
だが実は私自身はその能力を認めていない。というのも、私は幼いころからものを創作する力に長けていた。だから、私が見ている、会話をしていると思った内容は、自身がふくらませた妄想ではないかとつねに疑っているのだ。
しかし昨今、具体的に言うとここ五年ほどの間に体験した事例の中には、写真に写ってしまったり、同行した他人も巻き添えになったりといった『証拠』が上がったものが少なくなかった。
もちろん、その一つ一つをいちゃもんじみた理屈で否定することは可能だ。実際に私も、どれだけ証明されようと、自分の体験を信じきることはできない。
ただ。
世の中にもし幽霊というものが存在したとして。
その彼らが生きている私たちに何かを訴えたかったとして。
不可思議な現象や夢枕などでそれを実践しているとしたら。
これは無視してはいけないことだろう。
ここより先に記すことは、ともすれば読者の鼻につく書き方になってしまうかもしれない。それは『心霊体験ができていると確信する筆者』が綴る体験談だからだ。自称霊能力者の胡散臭さや怪しさは私も嫌悪している。だからこそ自分がその仲間に入る可能性を強く危惧している。
けれど、それでも今回のことは「私の個人的な見解ですが」などと遠回しな保身を図らずに、思ったままを書いていこうと思う。
『死んだ方々の代弁者』として。
そして、読んだ方にも、できればまずは信じてほしい。
『死んだ方々を受け入れる一歩』として。
では本編を始めます。ここまでの面倒なお願いを読んでくださってありがとう。
今夏、筆者の突発的な欲求により愛知県豊橋市の古い旅館で一夜を過ごした我が一家。
この旅行の詳細は『逸脱! 歴史ミステリー! ……的旅行記?』の本編で語っているので省かせてもらうが、それ自体もなかなかに個性的な旅ではあった。
だが!
この旅行の真髄は、実は帰途にあったのだ。
私たち家族は宿をチェックアウトしたあと、どこに立ち寄るでもなく、まっすぐ家路についていた。八月一六日のことだ。
というのも、とちゅうからこの旅行に合流した高校生息子は、自分だけ一三日から旅行に出ていた。つまり、すでに四日自宅に帰っていない。そしてそんな彼を待ちうけるのは、明日の出校日に提出する宿題の山であった。
「できれば昼ごろにはうちに帰りたい」
と要望するやつを拒否することが、どうしてできようか……。
盆明けの国道一号線には微妙な帰省ラッシュがかかっていた。ふだん真昼に混むような道ではないのだが、本日に限っては信号のたびにのろのろとした列が伸びていく。
「昼食をどこで済ませよう?」
と運転席の筆者が尋ねる。このペースが続けば自宅に昼にたどりつくのは難しい。
「どこでもいいよ」
あいかわらずの他力本願な答えが夫、小学生息子、高校生息子から返る。
ふむ。
時刻は一〇時を回った。
実は筆者には言いだせない思惑があった。それは前日に泊まった宿にあった豊橋近郊ガイドマップの中で見つけた『豊川海軍工廠戦没者供養塔』を訪ねたいという衝動だ。
愛知県豊川市。県民ではない方でこの市を知っている人は少ないだろう。全国と比しても農作の盛んな豊橋市、徳川家康の生家がある岡崎市、ラグーナ蒲郡を有する蒲郡市、長篠の合戦のあった新城市に囲まれながらも、いまいちパッとしたもののない小都市である。
だがこの豊川市、第二次世界大戦中には世界中が注目していた施設があったのだ。それが『豊川海軍工廠』。東洋随一の規模と謳われた海軍の軍事工場である。
ウィキペディアによると、広さは最大時で三三〇ヘクタール、敷地内には自前の電気ガスの供給設備を有し、一〇以上の寄宿舎があったようだ。作っていたものは主に戦闘機の機銃。開戦当初は軍艦による戦略がメインだった日本軍も、戦争が激化するにつれて、やがて各国の空戦力競争の波に飲まれていく。有名な零式艦上戦闘機(通称ゼロ戦)を始めとして、九六式や九九式などの優秀な機体も次々と開発されるようになった。豊川海軍工廠はその需要に合致して大きくなった工場だ。
だがこの栄華を誇った豊川工廠も、終戦間際のアメリカの大空襲で、わずか三〇分の間に壊滅の憂き目に遭う。しかも空襲の時刻は就業時刻のまっただ中の午前一〇時三〇分。ゆえに人的被害も甚大だったのだ。
で、そのときに亡くなった方々の供養塔が、豊川稲荷という大きな寺社内にあるという。
(豊川稲荷なら、周辺に食べ物屋もたくさんあるな)
と踏んだ筆者は、渋滞の続く一号線の列からこっそりと車を側道にすべらせた。
豊川稲荷へは国道一五一号線という大きな幹線を北上するルートを取る。
助手席に座る高校生息子は勘がいい。私が一号線から外れた時点で、すでに目的地に当たりをつけたようであった。方向音痴の筆者が稲荷の看板を密かに必死で探しながら運転する横で、
「たぶん、もっと先まで進んでいい」
と的確なアドバイスをくれた。後部座席の夫と小学生息子がいまだに帰途を変えたことに気づかないうちのことである。
一応、早く帰りたがっていた当事者の彼に、
「ちょ、ちょっと寄り道していいかな……?」
とおうかがいを立てると、
「自分も興味があったし、まあいいんじゃね?」
との答えが返った。ナイス息子! 帰ったら宿題手伝っちゃる!
一五一号から通称『姫街道』の異名を持つ県道五号線に入り、さらに四九五号線に進入する。
このころには当然ながら後部座席の二人も目的地が変わったことに気づいていた。
「どこに行くのー?」
とあきれたように尋ねる小学生の息子。
「豊川稲荷に行こうかなと思ってる」
と答えると、
「また神社~?」
と不満が噴出する。
ここに夫が参戦しないように、バックミラー越しにやつと『余計なことを言わないように!』『わかりました。だまってます』的なアイコンタクトを交わした筆者は、最後のハードルである小学生に、じっくりと、こう説得を試みた。
「本当はずっと行きたかったんだ。でもお前が嫌がると思ってたからいままで我慢してたんだよ。ママはふだんお前の都合を優先してやるだろ? そういう姿勢について、お前は感謝の念を持っているか?」
夫が私の行動に口をはさまない理由は「言っても無駄だ」と思っているからだろう。
高校生息子が私の行動に口をはさまない理由は「言うだけ無駄なら自らも楽しむほうに頭を切りかえよう」と思っているからだろう。
そして小学生息子も、最近では「時間の無駄だ」ということを悟ったらしい。
「豊川稲荷って、オレにも楽しめるところ?」
と、さらなる不平不満を口にすることなく聞きかえしてきた彼に、私は意気揚々と答えた。
「もちろん!」
家族旅行は家族で楽しむことが大事である。けっして一人の要望を暴走させてはならない。
というわけで全員の賛同をとりつけた私は、今回もその教訓を行かせたことに満足しつつ、稲荷に隣接した駐車場に車をすべりこませたのであった。