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鉄男さんとあたし、玉子ちゃんと俺

作者: ルルのまま
掲載日:2015/02/27

仕事を失い実家で鬱屈した日々を過ごしていた玉子は、ある日突然ある景色を求めて家を出た。

見知らぬ土地の真っ白い雪の中でひょんな形で出会ってしまった鉄男と…

小杉玉子の予想は大きく外れた。

見るからにふわふわと積もっている真っ白な新雪の布団は、子供の頃に見た大好きなアニメの様子とはかなり異なっていた。

ばふっ!

両手をいっぱいに広げ持っていた荷物を足元にぶん投げると、仰向けになるように積もりたての雪に勢いに身を任せたまま倒れこんだ。

痛っ!

柔らかく細かい雪は玉子の体重と体積分、一瞬で深く沈みこむと同時に、目の前が白一色しか見えなくなるくらいの濃い霧状の雪煙をあげ、玉子の周りをほんのひととき覆い隠した。

寝転んだ玉子の顔を始めとする上面に、篩をかけた砂糖のようなきめ細かい雪がさらさらとまんべんなくかかった。

冷たいっ!

想像ではふわっとふかふかの羽根布団に身を任せたように、玉子の体を気持ちいいほど優しく包み込んでくれるはずだった。

だが実際は雪に覆われた下の部分の固い雪が倒れこんだ全身に当たって、雪のない時期の学校のグラウンドで倒れこんだのと同じくらいの衝撃と痛みを感じたのだった。

そして、こんなにも自分の倒れた衝撃で周りの冷たすぎる雪がぶわっと舞い上がり、更には自分にそのまま降りかかってこようとは。

「ひゃあ~!冷たぁ~い!え~っ!なんでェ~?なんでさぁ~?…」

玉子は想像もつかなかった雪の冷たい洗礼に若干の苛立ちを覚えるも、叫ぶ表情は何故かニヤついていたことを全く自覚してはいなかった。

「…あ~、寒~~~!…だけど…なんか素敵!やっぱりよかったぁ…ここまで来たかいがあったなぁ…」

玉子は自分の口から自然に湧き出た独り言を、何となく心の中だけで言っているつもりだった。

声を出しているつもりなんて、からっきしなかった。

雪で頭を固定されたまま、玉子は真っ直ぐ目の前に広がる空を見た。

自分の見える範囲の広さに、改めて驚いてしまった。

空がこんなにも広いなんて、子供の頃に草むらで寝転んだ時には知っていたのに。

巡り来る春の気配が感じ取れる冬の夕暮れは、日を追うごとに遅くなっているのがよくわかる。

まだ澄んだ水色の空にオレンジがかったピンクが混ざり始め、そのうち薄っすらと紫の夜も見えてきた。

そうなると一段と寒さが増してきたように思えた。

玉子はふと幼い頃に読んだ絵本に出てくる「夜の女神さん」の姿が見える様な気がした。

大きく両手を広げ、空全体をゆっくりと覆いつくしながら、キラキラと輝く星がいっぱいついた紫と紺と黒の見事なグラデーションの薄絹のドレスを身に纏い、下界を静かに音もなく夜の世界に誘う美しくとても優しそうな夜の女神。

玉子はそんな「夜の女神さん」の美しい挿絵が大好きだった。

そして、いるはずのない女神が本当にいたらどんなに素敵だろうと、今でも思っているほど。

玉子は夢見がちでロマンチック大好きな女。

そのせいで中学生の頃、ちょっぴりイジメにもあった。

決して頭が悪いわけじゃないのだけれど、玉子のそんなファンタジー癖が同級生の数人女子の神経を何故か逆なでしていたようだった。

けれども、そんな中でもちゃんと仲良しの友達がいた。

玉子と同じくちょっぴりイジメられていたけれど、本を読むのが大好きで、自分でも少しファンタジー小説を書いていたメガネの美雪ちゃん。

いつも二人でいた。

ほぼ毎日のように放課後の図書室でファンタジー小説を読んだり、好きな小説の登場人物の話で盛り上がったり、またその人物を自分達なりに想像して描いてみたり。

美雪ちゃんとの時間が楽しくて、いつまでも続けばいいなと思う玉子だった。

同じ高校に運良く進めたこともあり、その後も美雪ちゃんとは仲良くべったりしていた。

だが、美雪ちゃんとは高校卒業を機に離れ離れになってしまい、今では以前のようになかなか会えなくなってしまっている。

それでもメールなどでお互いの近況を報告しあって、付き合いはちゃんと続いている。

美雪ちゃんは本格的に小説の勉強をしたい。と、大学に進んだ。

玉子はそんな美雪ちゃんが「偉いなぁ」と思ったし、「小説家になれるといいね。」と応援している。

玉子は玉子で地元のケーキ屋さんに就職したのはいいけれど、先月不況の折やら、原材料価格の高騰で商品をやむなく値上げ、更にはコンビニのケーキなどに負けた形で地元で愛され続けたケーキ屋はあっけなく倒産してしまい、今はやむなく無職の身となってしまっていた。

それからほぼ毎日就職活動を試みるも、世の中そんなに甘くなかった。

今までのケーキ屋さんのような条件の仕事はなかなか見つからず、かといって港にある工業団地の工場に勤める気も、何か資格をとってスキルアップする気にもならなかった。

実家で鬱屈した日々を過ごしていた昨日、ニュースでこの辺りの風景が映った。

綺麗な曲線の丘に真っ白い雪が積もっている幻想的な景色に、玉子は何故かものすごい吸引力で惹かれてしまった。

「素敵!あの場所に行ってみたい。」

玉子は直感だけでニュースでほんの数秒映っただけの場所へ、行こうと決めたのだった。

そこで仕事に出かける前の母に、「ちょっと出かけてくるねぇ…」とだけ告げて家を出てきた。

母は大きな荷物を抱えた玉子が「ちょっとではないお出かけ」なのだと瞬時に悟るも、仕事を辞めてから家でだらだらと過ごしているだけだった今を考えると、「少しばかりの冒険も必要!可愛い子には旅をさせよ!」と思い、「そう、気をつけてね。後で連絡頂戴ね…」とだけ言うに留まった。

来年には20歳になる娘を、必要以上に心配するのもどうかと思う母心がそうさせた。

そろそろ大人の仲間入りなのだから、多少親の手を放れるのも当然だとも思った。

何せまだ冬真っ只中ということで、天候が変わって急に電車やバスが止まる可能性も秘めている。

今日中に無事に帰れる保障はどこにもない。

それどことかあの場所まで辿り着けるかどうかもわからない。

それが北国であり、雪の積もる街の当然だった。

そう思った玉子は、一応「お泊り」できるようにパジャマや着替え、歯ブラシなどを用意すると荷物がトランクいっぱいになってしまった。

斜めがけの大き目のカバンには、すぐに取り出せるお財布やスマホ、ポケットティッシュにタオルハンカチなど普段のお出かけにちょっと足した程度の荷物を詰めた。

そして、やはり万が一の為にお財布にはお金を多めに入れようと、バスを降りて駅前にある銀行に寄ってから行った。

そこは玉子の家から市内線のバスで30分、そこから普通各駅停車の電車で約3時間、更に到着した駅前からバスに乗って約1時間半ほどのなんの変哲もない雪景色の村。

ぽつぽつと地元の民家がまばらになっていく、こんな辺鄙な土地にわざわざ観光で訪れる人なんてほとんどいない。

なので、大きな荷物を抱えた若い女がそのバスに乗り込んだ時、運転手を始めとする乗客数名は玉子のことが気になって仕方がない様子だった。

ひそひそと微かに聞こえてくる話し声が、「…あの人…まさか…自殺?…違うよねぇ…まさかぁ…まさかまさか…あんなに丸くて幸せそうな顔だもの…そんなんじゃないって…大丈夫だと思うよぉ~…」というものだった。

玉子は見慣れない土地の雪景色を眺めていたけれど、そちらに耳が傾いてしまい、そうなるといても立ってもいられない衝動に駆られ、気がつけば座席から立ち上がり乗客と運転手に聞こえるような大声で「あたし、違いますからっ!自殺なんかじゃないですからっ!昨日のニュースでこの辺りの景色があんまりにも綺麗だったから、直接見に来ただけですからっ!」と大演説してしまっていた。

鼻息荒くそう宣言した玉子に、乗客からパチパチと拍手が巻き起こった。

玉子の傍にいた背中の丸い小さなおばあちゃんが、「そうかい、そうかい…そりゃごめんねぇ…ここがそんなに綺麗だってかい…嬉しいねぇ…そだ、これあげる…お嬢ちゃん」そう言って玉子の手に茶色い紙包みを手渡してくれた。

「…えっ!あっ…えっ?いいんですか?ありがとうございます…ありがとうございます…」

玉子はおばあちゃんに何度も頭を下げると、受け取った包みを座って開けてみた。

中にはほんのり温かい大きなお饅頭が2個入っていた。

「…あのっ…これ…いいんですか?…お家にお土産なんじゃないんですか?…大事なんじゃないんですか?…ありがたいんですけど…やっぱり受け取れないです…これ…」

玉子がおばあさんにいただいた包みを返そうとすると、おばあさんが「いいの、いいのよ…あなたにあげたいの…だって…ここが気に入ったからわざわざ来てくれたんでしょう?嬉しいわぁ…あたしはまた買ってくるから大丈夫よ…でも、あなた旅行者だから、このお饅頭…駅前にお店があったでしょ?見た?…あそこのはなかなか食べられないものねぇ…住んでるんなら何回でも食べられるけど…あなた、もう来ることもないだろうから…あたしからのお土産ってことで受け取ってちょうだいな…ごめんなさいね…荷物、増やしちゃって…だけど…ここのは都会でも滅多に食べられないほどおいしいのよぉ~…だから…ねっ…これも何かの縁だから…で…どこまで行くの?」と優しい笑顔で改めて玉子にくれたのだった。

玉子は涙が出そうになった。

知らない田舎で知らないおばあさんからこんなにも優しくしてもらうなんて。

「はい…とりあえず終点の松が森まで行こうと思って…」

玉子はおばあさんにそう話すと、バスに乗っている玉子以外の全員が「ええっ!松が森ぃ~!あんなとこまで…」という雰囲気だった。

「…まぁ、そう…松が森…あそこは何にもないけど…まぁ、でも景色は素敵かもしれないわねぇ…長く住んでいると、あまりそんな風に感じたりはしないけど…そう…松が森…お嬢ちゃん、気をつけてね…また、会えたらいいわねぇ…」

おばあさんはそれから2つ目のバス停で降りた。

玉子は座席から立ち上がり、窓からおばあさんに何度か頭を下げ、そして手を振った。

終点で降りたのは玉子だけだった。

降りる際、年配の運転手さんが「お嬢ちゃん、大丈夫かい?この先は何にもないよ…それにバスもこれが最終だから…折り返しで出発は15分後だからねぇ…乗り遅れたら、今日はもう来ないからねぇ…気をつけてなぁ…頼むよぉ…」と心配してくれた。

玉子はそんな優しさにも心がふんわりと温かくなった。

終点の「松が森」は、昨日のニュースでちょっぴり映っていた場所。

玉子は国道から、クリスマスツリーの様な松で覆われた防風林の脇道を歩き出した。

真っ直ぐに続く白い道は、車のタイヤ痕を歩くしかなかった。

玉子の住んでいるそこそこの都会でも雪はかなりあるけれど、ここの雪はそれとは随分と様子が違うように見えた。

都会の雪が喧騒に塗れた雪だとすると、ここの雪は穢れのない無垢な感じがした。

玉子は以前から一度やってみたかった「新雪にばふっ」をする場所を捜し求めた。

それとニュースで見たのと同じ景色が見える場所も。

だが、防風林を過ぎると道路の両側に有刺鉄線の柵が遠くまで続いている。

その柵の手前、道路脇には雪に覆われながらも小川が流れているようだった。

これではいつまでも「新雪にばふっ」は出来そうになかったけれど、玉子はそれがどこまでも続いている訳がないと自分を信じた。

そのうちに柵の向こうに大きな牛舎とサイロ、それに大きなお家が見えてきた。

寒い中、薄っすらと牛の臭さが漂ってきていた。

「…はぁはぁ…あ~…牧場かぁ…そっかぁ…」

玉子は妙な脱力感に襲われた。

「…ばふっとする場所…ないのかなぁ…」

歩き始めて結構経った頃、ようやく牧場の柵も終わりが見えた。

「やったぁ~…柵…終わったぁ~!…あははははは」

玉子は嬉しくなって走って丘を登り始めた。

牧場の敷地の柵が終わると道路に沿って落ち込んでいた小川も、急に進路変更していた。

よく見ると先の道路に小さな橋がかかっており、道路と交わる形で小川はそちらに流れていた。

そこを過ぎると玉子が思い描いていた雪原が広がっていた。

緩やかに下る丘の斜面に沿って、黄色みがかったお日様がそろそろ夕暮れに近づき始めていた。

「…あ~!ここ、あの景色に近いかもぉ…似てる気がするぅ…素敵ぃ~…そだ、もう、ここにしよう!…疲れちゃったし…ここ…おしっことかなさそうだし…もう、やっちゃう!それっ!」

玉子はそうして念願の「新雪にばふっ!」をやり遂げたのだった。

子供の頃は家の庭や近所の雪捨て場となっていた公園や学校の校庭なんかで、友達とみんなでそれを存分にやれた。

だが、思春期に差し掛かる小学校高学年あたりから、急に恥ずかしさが先にたち、やりたい衝動に駆られても何故かできなくなってしまっていた。

玉子は生理が来た時もそうだったが、「新雪にばふっ!」が出来なくなった時、「…これが大人になるってことなんだ…」と実感した思い出。

「ばふっ!」をしてからどれくらいの時間が経ったのか、玉子は知りたくもなかったし、知ろうともしなかった。

最初は「思ってたのと違ぁ~うっ!」とちょっぴり腹を立てたことも忘れ、見える空をただただじっと眺めた。

どんどんと夜色になっていく冷たい空を見つめながら、今、自分が置かれている状況を考え込んでいた。

「…このままじゃ駄目なんだけど…でも…どうしたらいいんだろう?…」

玉子の家の周りとは違い、静かなその場所に車が通る音が聞こえてきた。

だが、玉子はそんなことお構いなしで、まだ冷たい雪の中に仰向けに倒れこんだままだった。


松が森鉄男は街にある10歳年上の従兄弟の営む雑貨店に、作った木工製品を納品しに出かけた帰りだった。

夏場は代々受け継がれてきた畑で一人農業を営み、冬場は家に篭り、以前から興味があり作り始めていた木を彫って作ったスプーンやパン皿などを従兄弟の和夫の店に置いてもらっている。

本来ならば委託販売なのでお金がかかるところだが、従兄弟の好でただで置かせてもらっている。

鉄男の作る木工製品は和夫の店で案外人気があった。

特にスプーンは「使いやすい」「デザインがいい」「安い」などの理由で、作れども作れどもすぐに売り切れるほどだった。

和夫は「街のおしゃれな雑貨屋なんだから、せめてもうちょっと高くてもいいと思うんだけど…冬場の貴重な財源なんだしさぁ…お前だって生活あるだろうに…」とアドバイスをくれるけれど、鉄男はスプーンを作る手間をさほど大変だと思っておらず、しかも材料は敷地にある木を使っているので、700円ぐらいの値をつけてもおかしくないところを何故か頑なに250円にしている。

本当ならば「200円ぐらいでもいいのに…今どきの100円ショップに似た様なやつもあることだし…」と鉄男は思っていたけれど、和夫の助言を鉄男なりに聞き入れた形で50円高くしたのだった。

それが鉄男なりの和夫への配慮なのだが、和夫はそれがわかっているのかよくわからなかった。

鉄男は自分の作る木工品を買ってもらえるだけ、使ってもらえるだけで十分嬉しいのだった。

だから、それを重要な収入源とはせず、夏場の蓄えで細々と生活している。

辺鄙な田舎での冬場、たった一人で気が狂いそうになるほど長い一日を過ごす退屈しのぎにもなっていると踏まえると、逆に「作らせていただいている」という感覚が強くなっているのだった。

自分はそれでいいと思っていた。

それが鉄男の身の丈にあった生活なのだと、十分理解していた。

鉄男の家は国道から脇道に入って牧場を過ぎた更に丘の上。

その為、冬場の国道までの道路は牧場の山口さんと手分けしてしている。

と言っても、大きなブルドーザーを所有している山口さんが、ほとんどしてくれている形だが。

そんな山口の叔父さんもかなりお年を召してきた。

元気だと言っても週に一度は街の大きな病院通い。

なので、昨日ここら辺一体に結構な雪が降ったけれど、今日はおばさんに付き添われての病院の日なので、鉄男の家の前の道路はブルドーザーでかかれてはいなくても仕方がないのだった。

日中雪が降らなかったので、朝に街に出かけた鉄男の車の痕だけが、今もくっきり残っているだけ。

薄暗くなってきたのでライトを照らしながらも家路にゆっくり向かう鉄男は、山口さんの牧場を過ぎた辺りに人影の様なものが薄っすら見えた。

「…えっ?今、人倒れてた?…まさか…いや…嘘だろっ?…ちょっと…確かめて来ようか…ああ、めんどくせっ…でも…やっぱ…もしか…もしか違ったとしたらいいけど…そうだったら…やだもんなぁ…俺のせいじゃなくっても、何だかやな気分だもんなぁ…ちぇっ…しゃあねぇ…」

鉄男は急ブレーキをかけると、ゆっくりと今、来た道をバックした。

サイドミラーに小さく映るのは、やっぱり人の様だった。

「…えっ?まっ…まさか…行き倒れ?…マジかよぉ~…やめてくれよぉ~…こんなとこで…」

鉄男はぶつぶつと独り言を言いながらも、ドキドキしながら車を降りた。

「…え~と…確か…あの辺り…って、お~い!大丈夫ですかぁ~!」

本当に人が倒れているのを見つけると、大声で叫びながら鉄男は道路脇に大の字で倒れている人の傍に駆け寄った。

玉子はその声が聞こえているにも関わらず、それが自分に向けての声だとは何故か思わなかった為、黙って仰向けのままでいた。

「…お~い!大丈夫ですかぁ~?…大丈夫ですかぁ~?…」

すると、向こうから駆け寄ってくる男の声がだんだんとこちらに近づいてくるのがわかった。

そうなると玉子は急に「大丈夫ですか?」と声をかけてくれているけれど、男の声だったことで安心させておいて襲われるのではないか?と怖くなり、その場でガバッと跳ね起きて声の主の姿を見ようと試みた。

声のする方にくるりと顔を向けると、玉子はおもむろに「大丈夫でぇ~す!あたし…大丈夫ですからぁ~!」と声の主にちょっぴり感じ悪く返した。

今の今まで倒れていた人が急に起き上がったので、鉄男はかなり驚いたと同時に安堵した。

そして、「はぁ、良かったぁ…生きてたぁ…だけど…なんだぁ?あの女ぁ…人が折角心配してるってのにぃ…」と玉子の返答に構わず、少し腹を立てながらも玉子の場所まで駆け寄ってきた。

「…はぁはぁはぁ…ちょっ…ちょっと…あんたっ…そんなところで寝そべって…はぁはぁはぁはぁ…」

鉄男の息の切れ具合が激しかったので、玉子はようやくちょっとだけ悪いなと感じた。

「…あなたこそ…大丈夫ですかぁ?…息が苦しそうだけど…」

玉子は自分の傍で倒れこんだ鉄男の顔を覗きこむように、恐る恐る尋ねた。

「…はぁはぁはぁ…大丈夫…大丈夫だから…暖かいとこから急に寒いとこに出たから…ちょっとね…そっ…それより…あんたさ…こんなところで何してんの?…どっか具合でも悪いの?…大丈夫かい?…動けなくなったのかい?…」

「…ああ…ええ…大丈夫ですから…新雪にばふっをしてただけなの…すんごく冷たいけど、何だか気持ちよくって…」

「…???新雪に?…ばふっ?…って…」

鉄男は聞きなれない言葉に首を傾げた。

「あっ、ええ、だからぁ…こうやってね…新雪にぃ~ばふってするの…」

玉子はそう言うと足元は同じ場所で、上半身だけさっきとはちょっと違う新しい場所に盛大にばふっと仰向けに倒れこんだ。

そしてそのままの状態で鉄男も誘ってみた。

「あなたもやってみてぇ…すんごく気持ちいいからぁ…」

「…えっ?…こう?」

鉄男は玉子に促されるまま、少し離れた新雪にばふっと仰向けに倒れこんでみた。

「あ~っ!しゃっけぇ~…あはははは…だけど…なんか楽し~~~~!」

「ねぇ…楽しいでしょ~…それでねぇ…そのままの体勢で空を見てみて…すんごく綺麗なの…なんかね…説明できないけど…素敵なの…悩んでたこととか馬鹿らしく思えちゃうの…」

「…はぁ~…ホントだぁ~…あんたの言うとおりだなぁ…なんか空でっけぇ~!…背中とかしゃっこいけど…だけど、なんか気持ちいいなぁ…」

「でしょう…うふふふふ…」

「ああ…そうだなぁ…ところで…あんたさ、名前なんて言うんだぁ?良かったら教えてもらえるかぁ?…おっと、人に名前を聞く前にっと…俺は松が森鉄男…鉄の男って書いて鉄男って名前なんだぁ…で、あんたは?…嫌なら別にいいけど…」

「えっ?別に嫌じゃないよぉ~…あたしは小杉玉子…玉に子供の子なの…だから玉子玉子って小さい頃よくからかわれたりしてね…嫌なんだぁ…でもね、たまちゃんってみんな呼んでくれてね…後ね、一度玉子って名前可愛いって言われて…それからは自分の名前好きなんだぁ…えへへへへ…」

「…ん?…それはぁ…ズバリ男に言われた!…どう?当たってるだろぉ?しかも…好きだった男じゃない?…違ったらごめん…」

「ううん…違わない…正解!…中学の時にね、あたしイジメられてた時期があってね…その時、あたしを救ってくれた先生なの…あの時27だったかなぁ?…数学の先生で背がすらっと高くてかっこよかったの…女子でファン多かったなぁ…」

「…ふ~ん…そりゃ、いい思い出だなぁ…そっかぁ…あっ、でも俺も今聞いたばっかりだけど、玉子って可愛い名前だなって思ったよ…ホントホント…」

「…そ…う…ありがと…あっ、ところで…鉄男さんの家近い?」

「ああ、すぐそこだけど…」

「ごめんなさい…唐突だけど、おトイレ貸して下さい…なんかすっかり冷えちゃったみたいなの…」

「ええ~っ!大丈夫かい?もう限界とか?」

玉子は激しく首を横に振った。

「そっか…じゃあ、とりあえず車に乗って…荷物は俺が運ぶから、乗って乗って…すぐだけど、そんな状態なら車の方が早いから…」

玉子は鉄男に促されるまま車の助手席に乗り込んだ。

鉄男は雪の中にぶん投げられた玉子のデカイトランクと斜めがけバッグを持つと、「なんだこの大荷物は…それにしても…重たい…」とぼやくとさっさと車に戻った。


鉄男の家にお邪魔するなり、玉子は教えてもらったトイレに駆け込み難を逃れた。

「…すいませんでしたぁ~…そして、ありがとうございましたぁ…助かりました…あ~…あったかい…やっぱりあたし相当冷えちゃったみたい…あっ、そうだ…鉄男さん、実は折り入って相談があるのですが…」

「…」

鉄男は玉子の相談が薄っすら想像できてしまっていた。

「…あっ…あのっ…一晩こちらに泊めていただけないでしょうか?…多分…バスもう行っちゃったみたいだし…あっ…大丈夫です…大丈夫です…ちゃんとお泊りセットも用意していますから…シャンプーとかも持って来てるし…パジャマも明日の着替えもちゃんとありますから…全然大丈夫ですから…迷惑…ですか?…そうなら、歩いて帰ります…ごめんなさい…急に勝手なこと言っちゃって…あはっ、迷惑ですよね…いきなり…あはは…あたし、ばっかだ…ごめんなさい…今のは、なしで…聞かなかったことにしてください…すみません…じゃっ…おトイレ貸して下さって助かりました…じゃっ…失礼しまぁ~す…」

「…あっ?…あっ…ちょっと…ちょっと待って、ちょっと待ってもらえるかな?…あのさぁ、泊まるのは構わないよ…これから歩いて帰るって…そんな無茶なことさせられないし…玉子ちゃんだっけ?…君さ、何でも早いよ…勝手にどんどん話進めちゃってさ…」

鉄男は突然の申し出に少々戸惑ってしまっていた。

玉子は自分の自分勝手さが目の前の鉄男を困らせていることに気づくと、哀しい気持ちになるのだった。

ぐ~~~ぎゅるぎゅるぎゅるぎゅる~~~~~ぎゅ~~~~。

玉子の腹が大きく鳴ってしまった。

自分の腹の音のあまりのデカさに、玉子は恥ずかしさでいっぱいになり、思わず大きな声を出した。

「…あっ…ごっ…ごめんなさい…あたしっ…何だか…お腹空きましたぁ…えへへへへ…鉄男さんはお腹空いてないですかぁ…あはははははぁ…」

照れ隠しのおどけた様に振舞う玉子の目に涙が薄っすら浮かんでいるのを目撃してしまった鉄男は、慌てて台所に駆け込んだ。

「…ちょっ…ちょっと待ってて…今ね、すぐになんか作るから…ねっ…待ってて…あっ…そうだ…玉子ちゃん体冷えちゃっただろ?コーヒーでいいかい?すぐに入れるから…そこに腰掛けて待っててもらえるかい?…」

鉄男は今にも泣き出しそうな玉子の様子に、激しく動揺してしまった。

女の涙には弱すぎるほど弱い鉄男だった。

しかも、玉子ときたら外で見た時には気づかなかったけれど、家の中の明るさで見るとなかなか可愛らしく鉄男好みのタイプだった。

玉子はMサイズではなくLサイズの洋服がぴったりな、ちょっぴりぽっちゃりさん。

しかも背が低く小柄な為、さほど体重はないものの何だか1.5割増しくらいに見られるらしかった。

学生時代何度か男子に告白されたこともあったけれど、それよりも美雪ちゃんと一緒にお話の中のキャラクターを本気で好きになっちゃうのに夢中だったので、普通の男子には何故か興味を持てなかった。

好きと言うのか、憧れたのは中学時代の数学の先生だけだった。

なので19歳になったけれど、男の人とは付き合ったことが一度もなくて当たり前だった。

そんな玉子も鉄男を家の明かりでよく見ると、顔が赤くなるのを感じた。

今まで出会ったことのないタイプの男性だと思った。

鉄男はスラリとした細マッチョ。

メガネの似合うインテリ風で、とても夏場に農業をやっているようには見えなかった。

車で一緒にいても匂いが気にならないどころか、鉄男の匂いもなんだか男らしく思えたのだった。

こんなに素敵な大人の男性と普通にズケズケ会話できちゃった自分が、今更ながら信じられない玉子だった。

それと同時に図々しく「泊めてください」だの「お腹が空いた」なんて、よく言えたなぁとも思った。

普段の自分なら絶対に考えられないほどの恐ろしい行動力だと、玉子自身が一番びっくりしていた。

玉子は鉄男に入れてもらった熱いコーヒーに、ミルクと砂糖を入れて甘くした。

それをすすりつつ、改めて部屋をじろじろと見回してしまった。

古い家とは言え、鉄男の家は何となくおしゃれなカフェっぽい雰囲気。

作業か何かでいい感じに傷ついたテーブルや黄色っぽいフロアライト、それにシンプルながらも味のある飾り物など、玉子は初めて訪れているこの部屋が妙に気に入った。

「おまたせぇ~…こんなもんしか用意できなかったんだけど…どうぞ、温かいうちに食べようねぇ…」

鉄男が用意してくれたのは、温かい玉子とネギのうどんと買ってきたらしい調理パンだった。

「なんか…ごめんなさい、鉄男さん…あたし、図々しいですよね…」

玉子が下を向いて沈み込むと、鉄男が慌てて「玉子ちゃん、顔上げてっ、ねっ…そんなこと気にしない、気にしない…困っている人は助けなくちゃ、ねっ…そうでしょ?ねっ…それよりさ、お口に合うかわかりませんけど…どうぞ、召し上がれ…」と優しかった。

玉子はこくんと頷くと、急に思い出したようにカバンを取りに行き、中からバスでおばあさんにいただいたお饅頭を出してテーブルの上に置いた。

「あのね、ここに来るバスの中で、知らないおばあさんから貰っちゃったの…すんごく優しいおばあさんでね…あたしがここに来たのは自殺じゃないですっ!ってバスで大声で叫んだらね…近くに座ってたおばあさんがわざわざここの景色を見に来てくれたからって、駅前のお菓子屋さんで買ったって、このお饅頭あたしにくれたの…多分、2つあるから…おじいさんの分かもしれないの…大事なお土産なのに…見ず知らずのあたしなんかにくれたの…そういうのって、なんか申し訳なくって…」

玉子はそこまで話すと急に泣き出してしまった。

「…そっかぁ…そういうお饅頭なのかぁ…じゃあさ、うどん食べたら一緒に食べよう!それならいいでしょ?…どういいのかって聞かれても困るんだけどさ…良かったね、玉子ちゃん…玉子ちゃんがいい子だからおばあちゃんもあげたくなったんじゃない?…」

「…そうなのかなぁ?…鉄男さん…あたし、そんなにいい子じゃないよ…普通の子だよぉ…」

「…そういうのが、良かったんじゃない?…さっ、それより冷めちゃうから食べよう!ねっ…体温まるよぉ…あっ、そだ、うどんに一味入れるかい?」

「…あっ、はい…」

鉄男が作ったうどんは格別に美味しい気がした玉子だった。

いつもは一人きりの味気ない食卓も、突然の可愛らしい訪問者のおかげで何だか自然と笑顔が溢れてしまう鉄男だった。

玉子と一緒に食べるうどんは、鉄男にとってもやっぱり格別に美味しい気がしたのだった。


「…なんかね、玉子ちゃんとの出会い方がさ、昔話っぽいなぁって…」

「あっ、言われてみるとそうかもしれない…助けてもらったんだもんねぇ…あっ、そだ…唐突なんだけどね…怒らないで聞いてね…あたしね、鉄男さんのこと好きになっちゃったみたいなんです…突然だし、鉄男さんのこと全然知らないんだけど…でも、だけど…こういうのって駄目かなぁ…好きって、突然訪れちゃうんですねぇ…不思議…」

鉄男は玉子の突然の告白にドキッとなった。

だが鉄男もまた、「…実はね、俺もね、真似してる訳じゃないんだけどさ…なんか玉子ちゃんのこと好きになっちゃったってのか…可愛いなぁって…信じられないかもしれないけどさぁ…」と玉子に告白した。

「えっ!嘘っ!鉄男さん、あたしに合わせなくってもいいですって…気を遣ってもらわなくっても…あの…大丈夫ですからっ…」

「ちがっ…違うんだって…ホントに…ホントにホントなんだって…こんなの俺だって生まれて初めてだよ…嘘臭く思えるかもしれないけど…」

「…そっ…それは、あたしも、嘘臭く思われちゃうかもなんだけど…何でかなぁ?…」

「さぁ…何でだろうねぇ…」

二人はしばらく見つめ合うも、何も言葉が出てこなかった。

それでも沈黙が続いても、全然居心地が悪いと思わなかった。

「…そう言えば…」

口を開いたのは玉子だった。

「昔話の助けられた女の人って、大概そのままそこのお嫁さんになっちゃって、それでその後泣く泣く別れるんですよねぇ…」

「…そうだねぇ…そんな哀しいパターンばっかりだよねぇ…幸せに暮らしましたとさも少しはあると思うんだけど…メジャーなのはそのパターンだよねぇ…」

「…そうなの…そんでもって助けたのが人間の女の人じゃなくって、大抵けもので…」

「えっ、まさか…玉子ちゃんけものなの?人に姿を変えた何かなの?…」

「何言ってんですか?鉄男さん、そんな訳ないですって…じゃあ…じゃあ例えば…例えばですけど、じゃああたしがけものだったとしてね…だとしたらなんのけもの?…鉄男さんならなんだと思う?…」

「…う~ん…そうだねぇ…」

鉄男は顎に手を添え考え込みながらも、向かい側のソファーに腰掛ける玉子をジッと真剣に見つめた。

「…あざらし…の子供かなぁ…」

鉄男がボソッとそう言うと、玉子はすかさず「ええ~~~っ!あざらし、あざらしってぇ~…それってあたしが太ってるってことですかぁ~?…ひっど~い!鉄男さんだってひょろっとして、なんかおこじょ?っぽいじゃないですかぁ…」と大声で叫び倒した。

「ええ~っ!おこじょ…やっ、待てよ…おこじょかぁ…おこじょなら全然オッケー…俺、全然平気だから…」

「ええ~っ!なんかずる~い!鉄男さんだけ…なんかずる~い!…」

「…ええっ、だってさ…あはは…玉子ちゃんが自分で俺をおこじょって言ったんだぜぇ…あはははは」

「…そっ、そうだけど…でも…でも…鉄男さん、あたしをあざらしって…ひど~い!」

「ええ?どうして?あざらし、可愛いじゃないかぁ…」

「…そう?ホントに…ホントに可愛い?あざらしって可愛い?」

「…うん、可愛いじゃないかぁ…雪の上でのそのそしててさ、赤ちゃんは真っ白くて真ん丸いつぶらな瞳でさぁ…きゅ~きゅ~って鳴いて…玉子ちゃんはあざらしが嫌いなの?」

「ううん、そういうの考えたことないかなぁ…あっ、でも、テレビとかで見ると可愛いから好きっ!後ね、あざらしのキャラクターは可愛いから好きかなぁ…」

「あははは…そうだねぇ…」

鉄男がへらへら笑うと、さっきまでちょっぴり膨れていた玉子もプッと噴き出して一緒に笑ってしまった。

「…ここって…あざらしが来るほど、海近いの?」

玉子の素朴な疑問に、鉄男はあっさりと「ううん、ここ、海遠いよ…」と答えた。

「ええ~~~っ!…そうなんだぁ…じゃ、何で鉄男さんあざらしなんて…」

「ああ…それはさ、何て言うのか…う~ん…見たまんま…かなぁ…」

「ええ~~~っ!じゃあ、やっぱり鉄男さん、ひど~い!も~う!…」

「あはははは、ごめんごめん…あははははは…だって、玉子ちゃん色白いからぁ…」

「…そう?…そこは褒めてもらえるんだぁ…」

そんなのが何だかとっても楽しかった。


ピンポ~ン!

不意に玄関のチャイムが鳴った。

鉄男が「は~い!今出まぁす。」と玄関の戸を開けると、そこには寒さで鼻の頭を真っ赤にしている若い駐在さんが立っていた。

「あ~、どうもぉ~…鉄男さん、すいません夜分に…え~と…バスの運転手の佐藤さんがね、若い女の子がこの辺で下車したんだけど、帰りのバスが出る時間になっても来ないって心配してて…それで、ちょっと下の山口さんにも寄ったんだけど、どうもまだ病院から戻ってないみたいだったんで…で…見かけませんでしたかぁ?若い女の人って…僕も見てないからどんな人かわかんないんですけどねぇ…自殺じゃないって自分で言ってたらしいんだけど…まさか…遭難とかって心配で…」

「…あ~…それなら…」

鉄男が駐在さんに話そうとしていると、奥から玉子がやってきた。

「…あのぉ~…」

「…?え~と…あなたは?…どなたですか?」

「あたし…さっきバスに乗ってた者です…ちょっと話し声が聞こえたもんだから…」

「…はぁ…」

駐在さんは少し困ったような顔をしていた。

「…え~と…じゃあ…」

「そうです…あたしですけど…この、鉄男さんに拾ってもらって助けてもらったんで…大丈夫ですから…」

「…えっ?助けて…もらったって?…」

「ああ、ただトイレを貸しただけなんですけどねぇ…」

鉄男は頭をかきながら照れ笑いを浮かべると、玉子がすかさずものすごく真面目に一生懸命「助かったんです…だって…だって、そうじゃなかったら…あたし…真っ白い雪の中でおしっこしなくちゃならなかったんだもん…こんな寒空の中の知らない土地の外で、お尻出さなきゃならなかったかもしれないんだもん…そんなの…いくら切羽詰ってたってさすがにできないから…あたし…これでもまだ夢見る10代の乙女だから…だから…鉄男さんは命の恩人なんです…」と始めは勢いよく言い始めるも、最後の方は恥ずかしさが相まってだいぶ失速した喋りになった。

「…それで…お腹空いちゃったんで、今、温かいうどんをいただいたんです…玉子とネギですんごくおいしかったんです…」

「…はぁ…そうでしたかぁ…で…これからどうなさるんですかぁ?…街に戻るんならパトカーでお送りしますけど…」

玉子の必死な発言を笑っちゃいけないと堪える駐在さんは玉子にそう提案するも、玉子はあっさり「…あっ、大丈夫です…今日はここに泊めてもらうことになったんで…」と返した。

駐在さんは一瞬戸惑った表情を浮かべると、鉄男と玉子を交互に見つめた。

「…えっ?あっ…はぁ…そういうことですかぁ…そうですかぁ…では、無事と言うことで報告しておきますねぇ…では、夜分に失礼しましたぁ…」

「あっ、いえいえ…こちらこそ…心配おかけしちゃって…なんかすみませ~ん…駐在さんも気をつけて帰ってくださいね…ホント、すいませんでしたぁ…」

鉄男と玉子は外に出て、心配してくれた駐在さんを見送ったのだった。

若い警官とのやりとりの間中、鉄男は肩を小刻みに震わせ小さく笑っていた。

「…あ~…そっかぁ…バスの運転手さん…帰りは15分後って言ってたっけ…心配してわざわざ駐在さんに連絡してくれたんだぁ…なんだか申し訳ないことしちゃった…あたし…なんか…駄目だなぁ…知らない人まで巻き込んじゃって…心配かけちゃって…鉄男さんには迷惑もかけちゃって…なんか目がぐるぐる回ってきちゃって…」

にやにやが止まらない鉄男がふと玉子を見ると、何だか顔が赤い上に目が虚ろになっていた。

「わぁ~っ!玉子ちゃん!大丈夫かい?ちょっといいかい?」

玉子のおでこに手を当てると、明らかに「熱がある」のがわかった。

「…えへへへへぇ…大丈夫れぇす…えへへへへぇ…」

「駄目だよ、玉子ちゃん…え~と…ちょっと待っててね…すぐに布団敷くから…」

鉄男が慌てているのがわかったけれど、玉子の記憶はそこで一旦途切れた。


目が冷めると見知らぬ天井が広がっていた。

玉子は自分の体が思うように動かなくなっていることに、ようやく気づいた。

「…あっ、玉子ちゃん、気がついた?大丈夫かい?ちょっとさ、これで熱計ってみて…」

枕の傍で心配そうに顔を覗きこむ鉄男に促され、玉子は体温計を脇の下に挟んだ。

「…あっ…鉄男さん…あたし…」

「…ああ、さっきね、駐在さんが来た後、フラフラって倒れそうになってて…そしたら、熱っぽいからさ…着替えはちょっとさせてあげられなかったから…ごめん…やっぱりさ…だから…熱計ったらさ…ちゃんとパジャマに着替えてね…俺はあっちにいるから…っとその前に、はいこれ…」

ピーピーピーピー。

「何度?」

玉子の熱は37.5℃だった。

「…じゃあさ、頭冷やすかい?水枕作るけど…」

「…ううん、いらない…それよりも体、痛い…」

「…熱のせいだねぇ…体の節々が痛いんでしょ?…う~ん…そっかぁ…ちょっと待ってて…風邪薬持ってくるから…そだ…一人で起きられる?…できれば、ゆっくりでいいからさ…パジャマに着替えて…あっ、家に連絡できるかい?心配してるだろうからさぁ…まっ、とりあえず薬持って来るね…」

鉄男は優しくそう言うと、玉子を残して部屋を出て行った。

布団の脇には玉子の荷物が置いてあった。

玉子は熱で痛む体でゆっくりと布団から出ると、持ってきたパジャマに着替え、再び布団に戻った。

温かい布団の中で玉子は母にメールを送った。

(ママ、お仕事お疲れ様。あのね、今日「松が森」ってところに泊まります。ちょっと熱が出ちゃって…だけど、心配しないでね。明日には戻るから。だから、今日こそパパと仲良くね。喧嘩しないでね。玉子)

とりあえず母に連絡すると、玉子は仰向けで深呼吸するとゆっくり目を閉じた。


「…じゃあさ、これ飲んでさ、ゆっくり眠るといいよ…ティッシュは枕の横だし、ゴミ箱はそこだけど無理して入れなくてもいいからさ…で、タオルはそこにあるし…水と風邪薬と体温計はお盆にあるからね…後は…玉子ちゃん、なんかあったら遠慮なく言って…あっ、寒くないかい?毛布もう1枚かけようか?…」

「…鉄男さん、なんかごめんね…そんでもってありがとう…さっき会ったばっかりなのに…あたしったら…熱なんか出しちゃって…ホントにごめんなさい…調子こいて雪にばふってしたから…あたし…駄目だよねぇ…来年成人式だってのにさぁ…大人なのになぁ…」

玉子はそれだけ言うと、涙が自然と頬を伝った。

「なぁに、仕方がないよ…それに大したことじゃないって…気にしない…それよりも早く風邪を治さなくっちゃね…」

「…うん…」

玉子は鉄男の優しさに益々惹かれてしまった。

「…あのね…鉄男さん…図々しいんだけどね…あのね…お願いがあるんだけどいい?」

「…いいよ…どうしたぁ?なんか食べるかい?それとも喉渇いちゃった?」

「…ううん、大丈夫なの…あのね、と~んとんってしてもらってもいい?」

「?」

鉄男は玉子の申し出の意味がわからなかった。

きょとんとしている鉄男を見て、玉子は慌てたように仰向けになりながらも身振り手振りで一生懸命説明を始めた。

「…あのね…小さい頃、ママがやってくれたの…お布団をこうやってと~んとんって…」

「ああ、それね…いいよぉ~…」

「ありがとう鉄男さん…それでね、と~んとんってしながらね、ねんねんって子守唄を歌って欲しいんだぁ…後ね、頭なでなでとか…」

「…あはは、いいよ…玉子ちゃん…可愛いなぁ…小さい子供みたいだなぁ…あはははは」

鉄男に笑われると玉子はちょっぴり悲しくなった。

「…だってね…安心するんだもん…」

「…そっかぁ…わかったよ…と~んとん…こんな感じでいいのかな?」

「…うん、ありがとう…すんごく気持ちいいの…」

玉子はついさっき出会ったばかりの鉄男に、どうしてこれほどまで甘えられる自分が居るんだろう?と不思議だった。

鉄男もまた、ついさっき出会ったばかりなのに、玉子とはずっと前から一緒に居たような感覚が不思議だった。

鉄男のと~んとんと優しい子守唄の声で、玉子はいつの間にか眠ってしまっていた。


その夜、玉子がスヤスヤと寝息を立てて眠るのを確認すると、鉄男はリビングに戻ってソファーにどっかりと腰を下ろすと、ふ~と大きなため息をひとつついた。

ソファー横のサイドテーブルに置いていた、まだ少し温かいコーヒーを一口飲むと、頭の後ろに両腕を回し薄暗い天井を見た。

「…はぁ…玉子ちゃん…大丈夫かなぁ?…早く熱下がるといいんだけど…」

しばらく一人でいることに慣れてしまっていた鉄男は、不意のお客が何だか妙に嬉しかった。

冬場は特に家から出ずに一人っきりでいることも多い生活なので、例え少々煩わしさを感じても、こうして声を出して会話できるのがとても楽しいと思う鉄男だった。

へたすると、丸一日一言も声を出さない日も案外あったから。

「…玉子ちゃん…まさか…鶴?…いやいや…鶴なんて助けてないし、そんな訳ないし…でも…なんでこんなところにやって来たんだろ?…新雪にばふってしたかったなんて言ってたけど…ホントはもっと何か深刻な悩みでもあるんじゃないだろうか?…今のところ…そんな風には見えないけど…」

鉄男はぬるくなったコーヒーを飲み干すと、風呂場へ向かった。


窓から薄っすら朝日がもれる頃、玉子はぐっすり眠れた爽快な気分で目が覚めた。

「あっ、ここ…」

一瞬、自分の部屋じゃないことに戸惑うも、すぐさま昨日のことを思い出した。

「…そっかぁ…あたし、昨日倒れちゃったんだ…そだ、熱…」

計ると熱はすっかり下がっていた。

玉子はそそくさと着替えを済ませ、布団を綺麗に畳むと、枕元の薬などのお盆を持ってリビングへ向かった。

「お…おはようごさいますぅ…」

玉子は台所で朝ご飯の支度をしている鉄男の姿を見つけると、驚かさないようにそうっと声をかけた。

「あ~、おはよう!玉子ちゃん…気分はどう?熱は?下がった?」

「…あっ、はい…すっかり下がって…もう大丈夫みたい…それより…昨日はありがとうございました…あたしったら調子こいていっぱい甘えちゃって…ホントにごめんなさい…あっ、そだ…手伝います、手伝います…」

「ああ、ありがと…そんなに気にしないで…それよりもさ…顔、洗ってくるといいよ…さっぱりするよ…その間にご飯用意するからねぇ…玉子ちゃん、お腹空いたでしょ?…」

鉄男に言われると、玉子は急にお腹が空いていると自覚しそうなると、腹の虫が今にも鳴き出しそうに思えた。

鉄男の作ったわかめの味噌汁も、おにぎりも甘い玉子焼きもとてもおいしかった。

特におにぎりはご飯に塩昆布と白ごまが混ぜ込んであって、中の具ははちみつ風味の梅干だった。

「鉄男さん、天才!…ご飯おいし~~!…」

「そっ…そうかい?そんなに褒められると照れるなぁ…」

「うふふふ…ホントにおいしいの…あたし…お料理まるっきり駄目だから、尊敬しちゃう…」

「…そっ、そんな…料理ってほどのもんじゃないよ、これ…それに料理なんて慣れれば誰だって上手になるし…一人だからやんなくちゃなんないし…」

鉄男はおにぎりを片手に、たくあんをポリポリかじりながらそう言った。

「…えっ?ホントに?…料理…あたしでも上手になるかなぁ?…」

「ああ、なるさ…毎日やれば、すぐちょちょいのどんだって…」

「…そっかぁ…あたし、お料理上手になりたいなぁ…」

「玉子ちゃん、そんなに?…そんなに料理上手になりたい理由、あるのかい?…」

鉄男が何気なく尋ねると、玉子は飲んでいた味噌汁のお椀をテーブルに置くと、真面目な顔で真っ直ぐに鉄男を見つめた。

「…あたし…鉄男さんのお嫁さんになりたい…」

ぶっ!

鉄男は飲んでいたお茶をブッと噴き出してしまった。

「…えっ?えっ?…」

玉子はお箸もテーブルの上に置くと、更に真面目な表情で鉄男をじっと見つめた。

「鉄男さん…あたしをお嫁さんにしてください…どうぞ、よろしくお願いします…何にもできないけど…これから一生懸命覚えるから…だから…あたし…鉄男さんのお嫁さんになりたいの…駄目ですか?」

玉子は椅子から降りると、床に手をつけると鉄男に向かって深々と頭を下げた。

鉄男はいきなりの玉子の行動に激しく動揺してしまった。

「あっ、ちょっ…ちょっと…玉子ちゃん、やめて…ねっ、頭上げてさ…椅子に戻ろっ…ねっ…そうして…お願いだからさ…」

玉子は鉄男に腕を掴まれても、なかなか立ち上がろうとしなかった。

「…駄目…ですか?…鉄男さん…あたしじゃ…駄目ですか?…」

「…えっ?あっ、いや…ちょっと、まずさ…玉子ちゃん、座ろう!…そんなんじゃさ、ちゃんと話もできないからさ…ねっ、頼むから俺を困らせないで…ねっ?…」

「…あっ!…鉄男さん…困るんですね…誰か決まった人とかいるんですね…そうなんですね…」

「いやっ、そうじゃなくってさ…ねっ…そんな人いないから…ねっ…まあまあ冷静に話し合おう?ねっ…ほら、ご飯も途中だし…食べ終わってから…ねっ?…」

「…はい…そうですね…お行儀悪いものね…鉄男さんが折角一生懸命作ってくれたんだものね…」

玉子はとりあえず席についた。

鉄男はそれだけで随分と安堵したのだった。


「…で…あのぅ…鉄男さん?…改めましてなんですけど…あたしをお嫁さんにしてもらえないでしょうか?…」

食後の温かい日本茶をすすっている最中、痺れを切らしたように玉子が口を開いた。

ぶっ!

鉄男は再び鼻からお茶を噴き出すも、真剣な玉子をおざなりにはできなかった。

「…え~と…え~とさ…俺と玉子ちゃんはさ…昨日、初めて会ったんだよねぇ…」

「ええ…真っ白な雪の中で…素敵って感じの出会いじゃなかったけど…」

「だよねぇ…そんでもってさ、昨日の晩、君が熱を出して…」

「うわっ!君だって…うふふ…君なんて呼ばれるの…なんか…嬉しい…うふふふふ…昨日も君って言われちゃったけど…えへへへへぇ…」

「いやいや…玉子ちゃん…俺は真剣な話をしてるんだよ…」

「ええ、あたしだって真剣よ…」

「…そうかい?それならいいんだけど…で、本題に戻るけど…俺とさ…玉子ちゃんは昨日会ったばっかりでさ…知り合ってまだ24時間も経ってないんだよ…わかるよねぇ…」

「…えっ?ええ…でも…それがなんか問題?…あたし、鉄男さんの優しさに感動しちゃったの…それでね、ご飯もおいしくって…だから…鉄男さんと一緒にいたいなぁって思ったの…だから、お嫁さんにしてもらいたいの…そういうのって駄目なのかなぁ?…お付き合いの日数ってそんなに大事?…長く付き合ったって結局別れちゃうカップルだっていっぱいいるでしょ?…先月まで勤めてて倒産しちゃったケーキ屋さんの先輩の人で、そんな人いたけど…」

「…う~ん…まぁ…そういう人達も結構いるけどねぇ…」

「あっ!鉄男さん、あたしのこと好きじゃないのかぁ…あっ、でも、昨日の夜、確か好きって言ってくれたよねぇ…違ったっけ?」

「…あっ、いや…確かにそう言ったけどさ…だけど…お互いのこと、よく知ってからの方が…」

ピンポーン!

「…誰だろ?こんな朝っぱらから…あっ、玉子ちゃん…この話、一旦保留ね…ちょっと待っててもらえるかい?…すぐには決められないからさぁ…だって、色々あるだろ?…ねっ…は~い!今出まぁ~す!」

鉄男が玉子との話を一旦切り上げ、急いで玄関に向かいドアを開けると、そこに見知らぬ中年の男女が難しい顔で立っていた。


「…はい?え~と…どちらさまですか?…」

鉄男が恐る恐る尋ねると、女性の方が張りのある大きな声で話し始めた。

「あっ!おはようございます…あの、ここに家の娘がお世話になったと聞いたので…」

「???へっ?」

鉄男がびっくりし過ぎて立ちすくんでいると、玉子も玄関にやってきた。

「あれぇ?ママぁ~!おはよぉ~!…どしたの?…って、えっ?パパも一緒?…えっ?えっ?どうしたの?こんなところまで…」

「玉ちゃん…心配しちゃったわよ…熱、出ちゃったんですって…もう大丈夫?昨日、あれから何度も電話とメールしてるのに、玉ちゃんったら全然連絡くれないんだもの…パパと心配で来ちゃったわよ…あ~…それにしてもすごいところねぇ…ママね、ここの景色があんまり綺麗だから、玉ちゃんの心配もさることながら、テンション上がっちゃったぁ…あははは…」

鉄男は玉子とその母の陽気なテンションに、少しばかり呆然となっていた。

ふと玉子の父の姿が目に入ると、慌てて「そだ、寒いのでどうぞ中に入ってください…すぐに温かいもの用意しますから…ささ、どうぞどうぞ…」と玉子の両親を家に招きいれた。


「…パパ、ママ、あのね…玉子、この鉄男さんのお嫁さんになりたいの…駄目?」

両親がソファーに腰掛けるなり、玉子は元気よく切り出した。

鉄男はお茶を出そうとしているところに、先ほどまでの話がぶり返されたのでギョッとしてしまっていた。

「…えっ?玉ちゃん、それ本気?この方、まだ名前も…」

玉子の母が話している横から、鉄男が慌てて割って入った。

「あっ、あの…ぼっ…僕はですね…ここに住んでいます、松が森鉄男と申します…玉子さんとは昨日、近くで偶然知り合いまして…それで…その玉子さんが熱を出してしまっていたので、やむなく泊まってという形でして…」

「…まぁ、そうでしたの…ごめんなさいねぇ…家の玉子が迷惑をかけちゃって…ねぇ、パパからもお礼を言ってちょうだいな…」

「…玉子がお世話になりまして…」

玉子の父が真っ直ぐな視線で鉄男を見つめると、鉄男は何も悪いことをしていないにも関わらず、何となく居心地が悪い気持ちになった。

「…あのね…玉子…熱出して寝てる時、鉄男さんにと~んとんってしてもらったの…それで、あたしがいっぱいわがままとか言うのに、鉄男さんったら全然怒ったりしないの…優しいでしょ?…それで好きになっちゃったからお嫁さんにしてもらおうって、さっきね、ママ達が来る前にお願いしてたところだったの…ママ達いっつも喧嘩してるみたいにしゃべんないでしょ?だから…玉子、家出ようかと考えてたの…でも、でもこうやって二人で来てくれて、あたし嬉しかったの…」

目に丸い涙の粒を溜めた玉子が精一杯の自分の気持ちを打ち明けると、鉄男はいたたまれない気持ちになった。

「…ママとは、喧嘩なんてしてないよ玉子…あんまり喋らないって思ってるみたいだけど、そんなこともないんだよ…パパはママが大好きだし大事だと思ってるんだよ…どうも、誤解させちゃってるみたいだけど…玉子が知らないだけで、パパとママは二人の時、結構色々話してるんだよ…なぁ、ママ…」

「そうよ…玉ちゃん…ママ達ホントはラブラブなのよ…でもね、あなた、仕事駄目になっちゃったでしょ?それに就職活動も上手くいってないみたいじゃない。あなた、至極落ち込んでるから…だから、あんまりママ達ばかり喋ってるのも…ねぇ…これでも気を遣ってたのよぉ…やぁねぇ…それはそうと…鉄男さん、どうかしら?玉子と結婚してもらえないかしら?…急な話で申し訳ないんだけど…あなたさえ嫌じゃなかったら…そういえば、鉄男さん、親御さんは?」

玉子の母の唐突な後押しに、鉄男は若干のパニック状態だった。

「えっ?ああ…父はトラクターの下敷きで17年前に、母は3年前に子宮頸がんで…兄弟は…姉がいるんですけど、遠くに嫁いじゃってるから…僕一人っちゃあ一人なんですけど…でも…お母さん…玉子さんとは昨日知り合ったばっかりで…その何て言うのか…僕も好きになっちゃいましたけど…だけど…」

「あら、鉄男さん、結婚するのにそんなに付き合う時間って大事かしら…あたし達なんて知り合って一週間で結婚よ…パッと一目で恋に落ちて、それでその後二人で出来る限り沢山話して…そのうち、イチイチそれぞれの家に帰っちゃうのがめんどくさいわねぇってことで、あっさり結婚しちゃったのよ…だって、パパの話ったら面白かったんですもの…どっちのおじいちゃんおばあちゃんも全然反対なんかしなかったわよ…むしろ、家族が増えて嬉しいって…ねぇ、パパ、勢いも大事よねぇ…フィーリングと勢いさえあれば大丈夫よねぇ…お金なんて二人で働いてどうにかすりゃいいんだし…ねぇ…」

「ああ…そうだよなぁ…勢いってすごく重要だなぁ…鉄男君、私からもお願いしたい…もしか決まった人がいないんなら…うちの玉子と結婚してはくれないだろうか?…まぁ、嫌なら別れてしまえばいいことだし…なんか結婚に不都合とかあるんなら別だけど…どうだろう?考えてみてはもらえないだろうか…」

「そうよね…今じゃ離婚も珍しくないものね…玉ちゃん、一回ぐらい結婚するのもいいわよ…そうだ!このままここに住まわせていただいたら?荷物は送るわぁ…ねぇ、そうしなさいよ…ねっ?鉄男さんもいいでしょ?…何か不都合でもある?あったら受け付けるけど…どうかしら?お休みには時々あたし達来るし、二人に協力するから…ねぇ、どうかしら?いいと思うんだけど…うちの玉子…家事はほとんど出来ない娘でごめんなさいねぇ…最初は迷惑かけちゃうだろうけど…この子、一生懸命頑張ると思うわ…だけど、一緒に暮らしていくうちに覚えていくから大丈夫よねぇ…あたしなんてね、おにぎりも握れなかったのよぉ…酷かったわぁ…目玉焼きも満足に焼けなくって…夕方の子供向けの料理番組を一生懸命見て覚えたのよぉ…最初は揚げ物が怖くてね、パパが仕事から帰ったら揚げてもらってたの…下ごしらえだけしておいて…信じられないでしょ?それでもパパがお嫁にもらってくれちゃった…うふふふふ…いつまでもそれじゃ駄目だって、毎日手を切ったり、やけどしながらも頑張っていい奥さんになろうって、これでも努力したのよぉ…泣きながら何時間もかかって魚を三枚おろしにする練習したりしてねぇ…ほらっ、よく料理で男の胃袋を捕まえるなんて言うけど、あれ、嘘よ…だって、好きで好きで堪らない女だったら、離さないもの…それに料理なんて結婚してからいっくらでも覚えればいいのよ…毎日のことなんだからさ、ねぇ…だからね、ママは肉じゃがなんかで男を釣ろうって考えてる女って、なんか嫌なのよねぇ…そういうのは本当にモテる女じゃないと思うわけ…ねっ、鉄男さんもそう思うでしょ?だからね…あっ、そうそう…話全然変わるけど、バス停…(松が森)ってなってたけど、あれ、地名じゃなくって鉄男さんの苗字なのねぇ…すごいわよねぇ…バス停の名前なんだもの…ねぇ…そうそう、それでね…さっきの話に戻るけどね…」玉子の母の独演会は長々と続いた。

玉子と玉子の父はそれにある程度慣れている様子だったが、鉄男は延々と話し続ける玉子の母にたじろぎ、「はぁ…」と相づちを打つしかできなかった。

そして、結局、玉子はこのまま鉄男の家に残る運びとなった。

鉄男はその流れに戸惑いはするものの、何故か抵抗はしなかった。

というよりも、抵抗できなかったといった方が正しいかもしれない。

強引ともとれる玉子とその両親だったけれど、鉄男はその強引さが何故か嫌ではなかった。

それは、「玉子に帰ってもらいたくなかった。」「玉子をこの場所に引き止めておきたかったから。」というのが正直なところだったから。

ここ数年一人暮らしをしていた鉄男は、自分では認めたくない、自覚したくないほどやはり淋しかったのだった。

鉄男は子供の頃、野良猫を拾った時を思い出していた。

今日の松が森は、玉子の両親が帰る頃から雪がちらちらと降り始めていた。

「松が森」は鉄男の苗字でもあるけれど、この辺りの地名であることを玉子の両親に言えずじまいだったことが、鉄男の頭の中のちょっとした引っ掛かりとなっていた。

そんな訳で突如、玉子が転がり込む形で鉄男の家は少し賑やかになった。


「あっ、あの…よろしくお願いします…」

玉子は鉄男に向かって申し訳なさそうに深々と頭を下げた。

「あっ、いえっ…こちらこそ…玉子ちゃん、よろしくお願いします…まぁ、でも…すぐに結婚って訳じゃなく、とりあえず同居って形で…」

「…えっ?あっ、はい…なんかごめんなさい…急な話でよく考えたらものすごく迷惑ですよねぇ…いきなり転がり込んじゃうんだもの…鉄男さんのこと何も考えずに、図々しいですよねぇ…世間的には許されない行為ですよねぇ…」

「…ううん、そんなことないよ…俺も母さんが死んじゃってからはずっと一人だったし…姉ちゃんは嫁いじゃってるからさ…なかなか会うこともないし…夏場は手伝いに来てくれる人がいるから、そこそこ話はするんだけど、冬場、俺一人で木工やってると、一日中一言も声を発しない日もあるんだよね…信じられないだろ…吹雪とかで誰にも会わない日が一週間以上も続いたり…そんなのに慣れちゃってるんだけどさ…昨日、玉子ちゃんがやって来てさ…色々話してるとさ…こういうのも何かいいなぁって思えちゃってね…だから、君が帰るとか考えたら、ちょっと淋しいなぁって思ってさ…久しぶりのお客さんってのか…人だったからさっ…」

「…ねぇ、鉄男さん…ホントにホントにあたし、一緒にいていい?…別にね、家に居場所ない訳じゃないんだけどね…さっき聞いた通りで…実は先月仕事辞めたの。ってのか、勤めてたケーキ屋さん、つぶれちゃったんだぁ…それで色々就職活動してたんだけど、どれも何だか上手くいかなくって…それでね、ニュースでチラッとここの景色が映ったの見てね、あ~ここに行って見たいなぁって…思い切って来たら、何か運命ってのか、いい方向に向くんじゃないかって勝手に思ったの…玉子ね、何かを得る為にはやっぱり何かを捨てなくちゃ、いい運が入るスペースがないんじゃないかって思って、家に居る間、着ない洋服とかもう読まないだろう漫画だとかいっぱい捨てちゃったんだぁ…ちょびっとだけ惜しいなぁって後ろ髪引かれちゃったんだけど…身軽にしておいたの…あたし…一生懸命頑張る!最初は迷惑で邪魔くさいって思われちゃうだろうけど…でも…あたし頑張ります…だから鉄男さん、色々教えてくださいね…」

「…あはははは…了解!…それよりもさ、玉子ちゃん体は大丈夫なの?昨日、熱出してまだ病み上がりなんだからさぁ…無理は駄目だよぉ…」

「…ありがとう鉄男さん…う~ん、何かねぇ、大丈夫っぽい感じなの…昨日のは知恵熱みたいな感じだったのかなぁ?…」

「あはははは…知恵熱ってなんか懐かし~…可愛いなぁ、玉子ちゃんって…あはははは」

玉子は鉄男に「可愛い」と言われると、頭のてっぺんから蒸気が噴き出そうなほど急に血流が良くなるのがわかった。


玉子は基本の家事から教わることとなった。

鉄男はそれが少々面倒で煩わしいと感じるも、真っ直ぐな目で自分の言うことを真剣に、時にはメモに取ってまで覚えようとしている玉子の素直さに、厳しい態度はできなかった。

それが独りの気楽さではなく、誰かと生活することなのだと鉄男は改めて思い知った。

木工の作業場を見せるも、鉄男は玉子にはその仕事は決してさせようとはしなかった。

それが仕事の邪魔になるという訳ではなく、むしろ玉子に怪我をさせないようにとの鉄男なりの配慮でもあったし、四六時中一緒にばかりいるのも、お互いのストレスになると踏んでのことでもあった。

始めのうちこそ、ほぼ何もできない玉子だったが、朝だけは鉄男よりも早く起きるのだった。

それには鉄男も感心した。

一緒に暮らし始めて一ヶ月もすると、玉子は家の中のことや苦手だった料理もうまく作れるようになっていった。

そのうちに鉄男が木工作業をしている最中、玉子は台所でお菓子作りも始めるようになった。

とりあえずは小麦粉を使った焼き菓子の練習。

そこから本や料理番組などで覚えたレシピにチャレンジ。

最初に作った真っ黒焦げのクッキーが今では懐かしいと笑い話になるくらい、玉子はみるみる上達していった。

「鉄男さん、お茶が入りましたよぉ~…見てみて!今日はね、アップルパイを焼いてみちゃった…うふふふふ…すごいでしょ?一緒に食べましょ!ねっ…」

「…ふぅ~、そうだねぇ…ちょっと休憩…はぁ~、いい匂いだねぇ…」

「うふふふふ…そうでしょ…この間山口さんからいただいたりんご使ってみたの…ちゃんと本見て作ったからおいしいと思うんだけど…鉄男さん、味見してもらえる?ごめんねぇ…あ~んしてぇ…」

「えっ!あ~ん?って…」

「いいでしょ、ねっ…あ~んしてみて…」

「こっ、こうかい?あ~…」

玉子は切り分けたアップルパイを鉄男の口に入れてあげた。

「うまい!…玉子ちゃんおいしいよ!これっ…お店で売ってるやつみたい…ホントに君が作ったのかい?すごいねぇ…おいしいよ…玉子ちゃん、センスあるねぇ…」

「えへへへ…だって、ちょっとだけどケーキ屋さんにいたんだもん…売り子ばかりじゃなくって、ちょっとだけ作るの手伝ったりしたことあるんだもん…それにママの手伝いもしてたし…」

「えっ?そうなの?玉子ちゃんのママさん、お菓子とか作る人なんだぁ…そっかぁ、いいお母さんなんだねぇ…」

「そうなの…ママね、お嫁に来た時何にも作れなかったんだけどね、玉子が生まれる前に子供には手作りのおやつを食べさせたいって、いっぱい練習したんだって…だから、玉子ね、ママがたまに作るおやつ大好きなの…高校に入ったあたりから、今のお仕事始めたんだけどね…それまでは専業主婦だったから、ママ…」

「ふ~ん…そっかぁ…そうなんだねぇ…うちの母さんは毎日畑仕事で体いっぱいだったからなぁ…おやつって作ってもらった思い出ないかも…嘘、あっ!あるかぁ…冬場に焼き芋をストーブの上で焼いてくれたっけ…ほら、薪ストーブだからさぁ…餅とかするめとかも焼いて食ったっけ…上手かったなぁ…」

「…へぇ…そうなんだぁ…」

玉子は鉄男のしみじみと思い出を語る姿を見て、改めてこの人と一緒に居られるのが幸せだと感じた。

それと同時にこれからは折角の薪ストーブを生かして、それで何か煮込み料理などを作れないだろうかと一人ニヤニヤと考えるのだった。


寒い吹雪の夜だった。

古い家全体が揺れるほどの強く激しい風がここいら一体を包みこむと、まだ慣れていない玉子は怖くてどうしようもない気持ちに陥っていた。

「…すごい風だねぇ…さっき天気予報で言ってたけどさ、ここいらに爆弾低気圧が来てるんだってねぇ…やだねぇ…今日はさ、早めに風呂入って寝よっか…ねっ、そうしよう、玉子ちゃん…」

「…う…うん…そうだねぇ…」

ガタガタガタガタ。

風で窓がガタガタと音を立てていた。

「じゃ、先に風呂入るねぇ…」

鉄男がそう言うと、玉子は一人台所で片付けをしていた。

不意にガタガタっと家が揺れた。

外はそれほどまでに激しい風のようだった。

ゴゴン!ゴンッ!

「いったぁ~い…」

上の棚に置いてあったオーブンの天板と、それを掴む重たい取っ手部分、更には大きなフライパンが玉子目がけて落ちてきた。

「鉄男さ~ん…助けてぇ~!痛ぁい…痛いのぉ…助けてぇ~!鉄男さぁ~ん!」

泣いている玉子の元に、風呂に入っていた鉄男が慌ててやってきた。

「玉子ちゃん!玉子ちゃん!大丈夫かい?…なんか大きい音したけど…」

「…鉄男さん、助けてぇ…痛ぁ~い…すんごく痛くしたの…いたたたたた」

玉子は泣きながら裸の鉄男に抱きつくと、鉄男の方がドキッとしてしまった。

「たっ、玉子ちゃん…大丈夫かい?…あっ、ごめんね…俺、慌てて出てきちゃったからこんな格好でさ…」

「…きゃっ…ごめんなさ…ごめんね鉄男さん折角お風呂に入ってたのに…いたたたた…肩とか背中にね、フライパンとか当たっちゃったの…すんごく痛いの…どうしよう…鉄男さん、悪いんだけどね、ちょっとどうなってるか見てもらえる?ごめんね…いたたたたた…青あざになってるかなぁ?…すんごく痛いの…」

玉子は痛がり泣きながらも、鉄男にぶつけた患部を見せようと、その場ですぐさま着ている物をゆっくりと痛くないように気をつけながら脱いでいった。

「いたたたたた…鉄男さん、ごめん…ちょっと手伝って…いたたたた…腕がね、痛くて思うように動かないの…いたたたた…」

鉄男は痛がっている玉子が心配で堪らず、照れることを忘れて服を脱がす手伝いをした。

「…ごめんっ…大丈夫かい?…ゆっくりゆっくり…そうっとね…いいかい?…そうそう、ゆっくり…」

着ているセーターを脱ぎキャミソール姿になると、玉子は早速鉄男に怪我の具合を見てもらった。

「わぁ~…玉子ちゃん、これは酷いかもしれない…救急病院に行くかい?赤くなって腫れてるわ…どうする?このままじゃ痛いでしょ?後でさ、湿布貼ってあげるけど…今日、お風呂やめた方が…」

「…ええ~っ!そんなになってるんだぁ…いたたたた…でも、救急は大丈夫…折れたりそこまでじゃないと思う…だって、そうだったら気絶しちゃってると思うから…いたたた…それはそうと今日、一緒に雪かきしたでしょ?汗いっぱいかいたから、どうしてもお風呂に入りたいの…駄目ぇ?…そだ、鉄男さん、一緒に入ってもらえる?あたしこのままじゃ体も満足に洗えないんだもん、お願い…いたたた…こんな汗臭いままじゃやだもん…お願い…鉄男さん、一緒にお風呂に入って!…そんでもって、ごめんなさい…体とか髪とか洗ってもらえる?いたたたた…なんかね、痛くて手ぇ動かせない感じなの…お願い…鉄男さん、そんな格好で風邪引いちゃうから…そうして…早くっ!ねっ…」

涙でいっぱいの玉子に頼まれ、鉄男は激しく戸惑いながらも「これは人助け」と心に言い聞かせ、快く承諾したのだった。

風呂場で裸同士になるも、そのドキドキよりもまず怪我の具合が心配で、鉄男はなるべく玉子の体が痛くないように細心の注意をはらって、ゆっくりと玉子の体を洗ってあげた。

チラチラと視界に入ってくる玉子の白い肌と、柔らかい体に鉄男はドキドキを隠せなかった。

そうなると鉄男の男の部分がいち早く反応したが、それを玉子に悟られないようにするのが、なかなか大変な作業だった。

そして、不意に魔が差したように、鉄男の中の男の部分が悪い誘惑を仕掛けてきた。

だが怪我をして泣いている玉子を強引に「抱きたい」という衝動にかられるも、「いたたたた」と泣きながら声をあげている玉子の顔を見ると、そんな気持ちも萎えてしまうのだった。

思いがけない怪我のせいで、利き手の右手が腫れあがり思うように動かせない玉子は、鉄男に全てお任せした。

時折「いたたたた」と声をあげて泣いてしまう玉子は、鉄男の優しさに痛いのとは別で泣いてしまった。

鉄男は女と風呂に入るのは、2年ぶりだった。

玉子は男の人の仲間と言えるかわからないけれど、異性とお風呂に入ったのは父と一緒に入った小学2年生以来だった。

二人が共同生活を始めてから初の試みだったにも関わらず、これほどまでにロマンチックとは縁遠い一緒の風呂になるとは、鉄男もそして玉子も想像できなかった。

19歳と29歳の若い男女ではあるけれど、それはまるで「介護」でしかなかった。


「鉄男さん、何から何までありがとう…いたたたた…」

風呂から上がるとすぐさま痛い患部に湿布を貼ってもらい、更には髪をドライヤーで乾かしてもらった玉子は、鉄男にあの日以来再び迷惑をかけてしまっていることが哀しかった。

「…そんなの気にしない、気にしない…それより、どう?さっきよりも少しか痛くない?…あんまり痛いようならさ、痛み止め飲むかい?…」

「…うん、飲んだ方がいいよねぇ…」

ガタガタガタガタ。

外はまだまだ風が強いらしく、窓がガタガタと音を立てていた。

「…あのね、鉄男さん…いたたたた…今日、鉄男さんの部屋で寝てもいい?…」

玉子はこの家でちゃんと自分の部屋を用意してもらっていたのだが、体が痛い上にこんな風の音が恐ろしく感じる夜、一人で眠るのが心細かった。

「…えっ?ああ、うん…そうだね、そうしよっか…夜中に何かあったらやだもんねぇ…いいよ!わかった…じゃあ、布団用意するね!」

「あっ、ううん…鉄男さんと一緒の布団がいいの…」

「えっ!」

玉子の発言に少しばかり動揺する鉄男だった。


「…眠れるかい?まだ痛い?…」

「…大丈夫、だと思う…さっき痛み止め飲んだし、湿布貼ってもらったから…それより、ごめんね鉄男さん…急にお風呂でも全部やってもらっちゃって…あたし、鉄男さんに迷惑ばっかりかけてばっかり…」

「…あっ、ううん…そんなの…しょうがないからさぁ…二人しかいないんだし…玉子ちゃんの怪我の方が心配だし…」

「何かね、鉄男さんのお嫁さんになりたいって言ってたけどね、まだあたし達そういう、何て言ったらいいのか…男女の…そういうのになってないでしょ?…でも、結婚したらそういうことになるでしょ?…だから、覚悟と言うか、いつでもそんな風になってもいいように、あたしなりにね、一応心も体もね、準備してたんだ…だけど、いつまで経っても鉄男さん、手も握ってくれないんだもん…もしかして、一緒に暮らしてるけど、やっぱりあたしのこと嫌いなんじゃないかって…思ってたの…」

鉄男は玉子の一生懸命な言葉を静かに聞いていた。

「…そっ、そりゃあ、一緒に暮らしてるけどさぁ…だからっていきなりそういうのってさ…何か襲ってるみたいな感じでさ…俺は…俺だってそりゃあ…玉子ちゃんとキスしたり、それ以上のことしたいって…そりゃあ男だからねぇ…いっつもって訳じゃないにしろ、考えてたさぁ…君がお風呂に入ったり、トイレに入ったり、眠っている時なんかそれなりにドキドキしてたんだよぉ…そんでもって、いつどういうタイミングでとか、悩んだりしてさぁ…まさか、こんな急に一緒に風呂に入るなんて思ってもみなかったけど」

「…そうなんだぁ…あっ、でも、鉄男さん、ごめんね…しばらく一緒にお風呂入ってもらうことになるけど…だって、玉子怪我してるから…いい?」

「…うん、まぁ…そうだよねぇ…でも、明日病院に連れて行くからね…やっぱりちゃんと診てもらった方がいいよ…素人判断は駄目だよ…結構な怪我だと思うし…」

「…そっかぁ…じゃあ…どうしよう…鉄男さん、明日ね、脇剃ってもらえる?病院で脇毛ボーボーなの恥ずかしいもん…って、さっき見られちゃってるけど…いやぁん…って、いたたたた」

玉子と一緒に風呂に入っただけじゃなく、今度は脇毛まで剃ってあげなければならないとなると、鉄男は若干のパニックに陥った。

「わかった…わかりました…じゃあ、寝ようか…玉子ちゃん眠れそう?まだ痛いと思うけど…ってさっきも言った気がする…」

「…うん…鉄男さんと一緒だから安心…夜中痛がってうるさくしたらごめんね…おやすみなさい…」

「はい、おやすみ…」

鉄男の部屋の少し大きめのベッドに二人並んで横になった。

玉子は鉄男のベッドがどうして大きめなのか、ちょっとだけ気になった。

だが、今は鉄男の過去のことは聞かないでおこうと思った。

それを聞いたところで、ただ自分ばかりが哀しくなる気がしたから。

鉄男は自分のベッドに久しぶりに女がいるのが、それが玉子なのが何だか照れくさいような恥ずかしさだった。

怪我をしている玉子が眠りにつくまで、鉄男は玉子にと~んとんをしてあげながら、子守唄を歌った。

それが好きな女にしていると言うよりも、小さな子供にしているような感覚だった。

玉子の無邪気さがそうさせているのを、鉄男は薄々感じ取っていた。

す~っと寝息を立てて玉子が眠ったのを確認すると、鉄男は玉子のおでこにそっとキスした。

それは親が子供にしてあげる「おやすみ」のキスに近かった。

強い風は明け方まで続いた。


天気はお昼から回復していくとのことだったが、鉄男は玉子を連れて朝一番に駅近くの整形外科に向かった。

玉子の怪我は「打撲」で「全治1ヶ月」と診断された。

骨は折れたり、ひびが入ってはいなかったものの、案外結構な怪我だったことに二人とも驚くと共に、「あ~…やっぱりね。」と思った。

調剤薬局で痛み止めの飲み薬と大量の大きな湿布をもらうと、鉄男は車を駐車場に置いたまま玉子の手を取り、駅前の昔からの馴染みのお菓子屋さんに入った。

「あっ、ここ…」

「そう、玉子ちゃん、家に来た時さ、バスで知らないおばあちゃんからおまんじゅうもらったって言ってたでしょ…それ、ここのだから…玉子ちゃん、病院頑張ったからご褒美ってのか…まぁ、俺も久しぶりにこの辺来たから、食べたかったんだよねぇ…へへへへ」

「…鉄男さん…ありがとう…」

玉子は鉄男の優しさにちょっぴり涙が出た。

二人がお菓子を選んでいると、ガラガラとガラスの開き戸が開き、おばあさんが一人よろよろと入ってきた。

「いらっしゃいませェ~…」

太った優しそうなおばさんの店員が高くて大きな声を出すと、店内に居た鉄男と玉子はそれに反応し振り向いた。

「あっ!あの時の…」

玉子の声に入ってきたおばあさんも「あらぁ…あなた、どこかで…」と言った。

「鉄男さん、鉄男さん、あの時のおばあちゃんなの…あたしに大事なお饅頭くれたおばあちゃんなの…」

「えっ?あっ、今話してた?…ええっ?あっ、なんだぁ…みつ江さんじゃないですかぁ…」

「あらっ!鉄男ちゃんかい?…あれ?この子は?」

「ああ、はい…僕と今一緒に暮らしてるんです…小杉玉子さん…みつ江さんとバスで会ったあの日から…その…なんと言ったらいいのか…その…成り行きで…その…そんな感じです、はい…へへへへ」

鉄男は下を向きながら激しく照れていた。

きょとんとしたままの玉子は、慌てておばあさんにあの時のお礼を言った。

「あのっ…いつぞやはお饅頭ありがとうございました…すんごくおいしかったんです…あの後、鉄男さんにおトイレ借りて…それで、熱出しちゃって…泊めてもらって…好きになっちゃって…いずれは鉄男さんのお嫁さんになりたいって感じで…その、今居候させていただいてるんです…だけど、昨日あたし怪我しちゃって…整形に連れて来てもらった帰りなんです…病院で頑張ったからって、鉄男さん、お饅頭買ってくれるって…ここのおいしいからって…」

「そうなの、おいしいでしょう?それにうちのはよそよりも大きく作ってあるの…うちのお父ちゃんがね、朝早くからあんこを丁寧に丁寧に煮て作ってるからなの…で、お客さん、いくつにします?」

鉄男と玉子とおばあさんの会話の中に、不意にお店のおばさんが割って入ってきた。

「あっ、じゃあ…2個づつ、分けて包んでもらえます?…」

鉄男がハッと慌てたように注文した。

「…?」

玉子は鉄男の注文の仕方が少し気になった。

お店のおばさんはそれがどういうことかちゃんとわかっていたらしく、笑顔で2つ包みを作ると、一つは玉子に、もう一つはみつ江おばあちゃんにニコニコと手渡した。

「…あらっ、鉄男ちゃん…なんもいいのに…」

「いえっ、あの…この間…そのっ…家の玉子がみつ江さんのいただいちゃったから…」

鉄男が照れまくりぎこちなくそう言うと、みつ江おばあちゃんはニコニコしながら「そう?…じゃあ、遠慮しないでいただくね…ありがとうね、鉄男ちゃん…そだ、今度二人で遊びにいらっしゃいよ…ねっ、そうなさいな…それにしても…嬉しいわぁ…また、玉子ちゃんに会えるなんて…うふふふふ」

「…あっ、そだ…みつ江さん、帰りは?またバスかい?…だったらさ、送って行くよ!俺らもこれから帰るからさぁ…また雪降ってきたから…ねっ…」

「そうですよ、みつ江さん…一緒に帰りましょう…バスだと大変だもの…」

鉄男と玉子にそう勧められ、みつ江は「そう?じゃあ…お願いしようかしら…」と一緒に帰ることになった。

みつ江さんも加わった帰りの道中は、思いがけず楽しいものとなった。


「さよならぁ~」

みつ江を家まで送り届けてすぐ、助手席の玉子が口を開いた。

「…鉄男さん…さっき…お菓子屋さんでみつ江さんに、家の玉子が。って…うふふふふ…あのね、すんごく嬉しかったの…えへへへへ…家の玉子って…うふふふふ…」

玉子は鉄男の発言が嬉しくて堪らず、ニタニタが止まらなかった。

不意に鉄男が車を止めた。

ハンドルを握り真っ直ぐ前を向いたまま、小さな声で呟いた。

「…だって…だって、玉子ちゃん…俺の嫁になるって…だから…」

玉子は隣に居る鉄男をじっと見つめると、顔を真っ赤にしたまま真剣な表情の鉄男の手の上に、自分の手を重ねた。

「…鉄男さん…」

「…たっ…玉子ちゃん…」

鉄男は玉子の顔を見つめると、自分の顔を近づけた。

玉子はいよいよ鉄男と唇を合わせるのだと思い、静かに目を閉じた。

「…玉子ちゃん…」

「…鉄男さん…」

ごつんっ!

「いたたたたた…ごめん、痛かったね…玉子ちゃん、大丈夫?…」

「いたたたた…うん、大丈夫…ちょっとおでこが痛いけど…鉄男さんこそ…鼻大丈夫?…」

初めてのキスは失敗に終わった。

二人の逸る気持ちが失敗の原因だった。

鉄男は鼻の先を、玉子はおでこをそれぞれちょっぴり痛めた。

「あははははは…」

鉄男が鼻をさすりながら大声で笑うと、「うふふふふ」玉子はおでこをさすりながら笑った。

二人笑いながらシートベルトを外すと、玉子の怪我の部分が痛くないように慎重に抱き合い、改めてきちんとキスに挑んだ。

「…いいかい?」

「…はい…お願いします…」

「…んぐっ…ぐぐぐ…」

「?」

「…はぁ…はぁはぁはぁはぁ…てっ…鉄っ…男さんっ…はぁはぁはぁ…あのねっ…はぁ~っ…はぁはぁ…キスって…息苦しいねっ…はぁはぁはぁ…」

玉子は初めてのキスの感想を率直に伝えた。

「…えっ?玉子ちゃん…もしかして…今、ずっと息止めてたの?…」

「はぁ…はぁはぁ…うっ…はぁ…うん…」

驚く鉄男の表情に少しばかり疑問を持ちつつも、玉子は今しがた唇を合わせた恥ずかしさで顔を赤らめて、必死に息を整えようとしていた。

「…くっくっくっくっ…」

「はぁ…えっ?…はぁはぁ…はぁ~っ…」

玉子はひとつ大きく深呼吸すると、息苦しさからいくらか開放された。

「…くっくっくっくっ…たっ、玉子ちゃん…ホントに可愛いねぇ…俺、やっぱ玉子ちゃんのこと好きだわぁ…あはははは…」

「?…あたしもっ…鉄男さん…好きっ!だから…もう一回…いい?…あっ、その前に息いっぱい吸っておかなくちゃ…キスって思ってたほどロマンチックじゃないね…結構息が苦しいんだねぇ…あたし、知らなかった…」

「あはははは…玉子ちゃん、大丈夫だから…キスしてる間、鼻で息すればいいんだよ…」

「えっ?そうなの?…だけど…あたし、鼻息すごいかも…怒ってる牛ぐらい荒いかも…」

「…くっくっくっくっ…大丈夫だから…それでも俺は君が好きだから…」

鉄男は笑顔でそう言うと、玉子の頭を両手で優しく包み込み、ゆっくりと唇を合わせた。

今度はロマンチックなキスになった。

玉子にとってはそれがファーストキスだったが、何故か想像していた怖さは微塵も感じなかった。

それよりも鉄男とこんな形でも、好きになった鉄男とようやく口づけを交わせたことが何よりも嬉しかった。

体中に熱い血が滾るのを感じた玉子だった。

真っ白い雪がしんしんと降る中、鉄男と玉子は何もない田舎の景色の真っ只中で、初めてのキスをした。

ロマンチックとは決して言えない形だったが、それが二人らしいような気がしてならない二人だった。


プラス気温が続き、そろそろ春らしくなってくると、玉子の怪我もだいぶ良くなってきていた。

あのキス以来、玉子と鉄男は何かにつけやたらに抱き合い、唇を重ねることを覚えた。

だが、玉子の怪我のこともあり、一緒に風呂に入り同じ布団に並んで眠るも、それ以上の発展は今のところなかった。

と言うよりも、発展できずにいた。

それが二人とももどかしいような、モヤモヤとなっていたのだった。

(玉子ちゃんの怪我が治ったら…そんでもって、ちゃんと俺からプロポーズしなくちゃ…いやっ、やっぱりちゃんとプロポーズしてからじゃないと、手は出しちゃ駄目だよなぁ…うん、やっぱそうだよなぁ…玉子ちゃんは女の子なんだから…きちんとしてからじゃないと…)

鉄男は心でそう決めていた。

(あたしの怪我もうそろそろ大丈夫だから……鉄男さんと…きゃあ~!どうしよう…どうしよう…でも、鉄男さんなら…一緒にお風呂入ってるんだし…いいよね…玉子…だけど…きゃあ~!…あっ、でも…鉄男さん、折角お風呂一緒なのに、全然やらしく触ってこないなぁ…何でなんだろ?…あたし、そんなに魅力ないのかなぁ?…なんでかなぁ?…)

玉子も来るべき鉄男との交わりを自分なりに強く決心すると共に、恥ずかしさと一抹の怖さなどが複雑に絡まりあって、脳内が若干のパニック状態だった。

解けた雪の割れ目から、黄色い福寿草の花やふきのとうの姿が見え始める頃、鉄男は畑の準備に忙しくなり始めていた。

そんなある日、鉄男の従兄弟の和夫が若い男の子を連れてやってきた。

「…あれぇ?和兄どしたぁ…雄太まで…なんか久しぶりだなぁ…」

「…こんにちはぁ、初めまして…玉子です…」

「…ああ、どうも…噂の玉子ちゃんだねぇ…え~と俺は和夫です、でこっちが息子の雄太。街で小さな雑貨屋をやってます…ほら、鉄男の木工の作品を置いてるの…ところで、玉子ちゃんはもう鉄男の嫁に?」

和夫が尋ねると、鉄男と玉子は何も言わずに首を横に振った。

「えっ!まだ、籍入れてないのかぁ…そっかぁ…なぁ、早く入れてやれぇ鉄男…こんな可愛い子待たせて…お前、駄目じゃないかぁ…ねぇ、玉子ちゃん…」

和夫の勢いに、「…ええ…そうなんですけど…」と玉子は鉄男をちらりと見やった。

鉄男は和夫と玉子のやりとりに、少しだけ居心地が悪いような気になった。

「…おっ、俺達のことは和兄に関係ないだろう…で?…今日はどしたの?…雄太まで連れてきちゃって…」

「…あっ…ああ、たまにはいいだろう?…いっつも木工納品で来てもらうばっかりだから…話ばっかりの玉子ちゃんの顔を見てみたくてさ…鉄男が惚れこむ可愛い女の子ってどんな子なんだろうってさ…はははは…噂どおりの可愛い子ちゃんだねぇ…それにしても、このケーキ美味いねぇ…これ、玉子ちゃんが作ったのかい?…」

玉子がつけているエプロンを両手でぐじゃぐじゃにしながら照れながら頷くと、「…これさぁ…売れるよ!…そだ、鉄男、お前さ、ここでカフェでもやったら?こういう田舎でやるの流行ってるみたいだぜぇ…玉子ちゃんのお菓子なら、お客来ると思うけど…どうだ?やらないのか?…」 

和夫はせっつく様に鉄男にそう助言した。

「…それはそうとさ…ごめん…ちょっと鉄男借りるね…」

和夫はそう言うと、鉄男を連れて木工の作業場に行ってしまった。

玉子と和夫の息子雄太は、ぎこちない空気の中に取り残されてしまった。

「…あっ、あの…雄太君は何年生?」

玉子が引きつった笑顔で話しかけても、雄太は無表情で黙ったままゆっくりと玉子の作ったシフォンケーキと山口さんからいただいた林檎で作ったジュースをサイダーで割ったアップルサイダーを口に入れるだけだった。

長い沈黙が続いた。


「…で?和兄さぁ…なんかあったの?どしたの?雄太なんかあったのか?前にあった時よりもなんかブスッとしてるけども…」

「…ああ、実はさ…雄太、高校受験失敗しちゃってさぁ…そんでもって、5月から入れるとこの手続きしたんだけど、行かないって…よっぽどショックだったのかさぁ…まぁ、思春期ってのもあるんだけど…モヤモヤしてたんかさ、家で暴れてよ…それで雄太が投げた時計だったか?俺、その場にいなかったからわかんねぇんだけど、正美がちょこっと怪我しちまってさぁ…大した怪我じゃないんだけどさ…それで雄太さ、母さんに怪我させちまったって益々落ち込んでな…ほら、雄太、正美のこと大好きだからさ…そんで引きこもりになりかかっちまってな…そんなんでよ…このままじゃ駄目だって俺らなりに考えてさ…そんで…悪いんだけどさ…しばらく雄太、預かってもらえないだろうか?悪い、悪いのは重々承知してるんだけど…俺が仕事行ってる間、正美は入院してるから…あっ、怪我でじゃなくって…その…なんかさ…違うので検査入院なんだけど…その間、家に雄太一人っきりだろう…一人の時何するか心配だしよ…まさか、まさかだけど自殺…とか考えてるかもしれないし…お前んとこの仕事、そろそろ手伝いの人頼む頃だろっ?どうだろう、雄太…使ってくれないだろうか?家にいるよりもいくらか田舎の方がいいんじゃないかって…環境が変わった方が雄太の為にもいいんじゃないかって…俺達にべったりよりもさ、あえてちょっとの間違うところで生活してみれば、雄太の心も少しが上向きになるんじゃなういかなぁって思ってさ…近所の目なんかも今の雄太にはしんどいと思ってさ…外に出れば同級生達に出くわしちまってさぁ、なんつうか顔合わせづらいって感じみたいでなぁ…で、どうだろう?勝手な頼みでホントにわりぃんだけど…俺じゃさ、駄目みたいなんだよ…」

「…そっかぁ…正美さん、入院してんのかぁ…そっかぁ…雄太、可哀想だなぁ…そっかぁ…うん、わかった…和夫にはいっつも世話になってるしなぁ…いいよ、了解…雄太も少しかこの田舎で体動かせば気持ちも晴れるかもしんないしなぁ…そだな…わかった…いいよ…」

「…なんかわりぃなぁ…折角玉子ちゃんとのラブラブのところさ…」

「…ラッ…ラブラブって…そんな…それほどでもないし…」

「いいって、照れるなって…見てりゃわかったよ…早くちゃんとしてやれぇ…あんなにいい子、そうそういないぞぉ…がっちり捕まえとかなきゃ…いつか愛想つかれて逃げられちまう…って…わりぃ…前の子…そうだったっけか?…わりぃ…思い出させちまって…そっ、それよりも雄太、よろしく頼むな…ずっとって訳じゃなく、正美が退院したらさ、迎えに来るからさ…ホント頼むな…」

両手で拝むポーズをとり、何度もこちらに頭を下げる和夫を見送ると、家の中に鉄男と玉子と雄太の3人となった。

鉄男は不安定な雄太が大事な玉子に何か危害を加えるようなことをしでかさないか、若干の不安はあった。

だが、雄太と打ち解けようと一生懸命笑顔を作って話しかけ、自分の作ったお菓子やジュースを勧めている玉子の姿を見ると、自分が全力で玉子を守ればいいだけの話だと覚悟を決めたのだった。

「…雄太…今日からさ、この部屋はお前の部屋だから…好きに使ってくれ…それと、この家のルールってのか、ここに居る間は朝が早いから、ちゃんとお前もさ、起きて手伝えよ…日中は俺の仕事の手伝いをしてもらうよ…いいね…後は…玉子ちゃん、何か聞きたいこととかあるかい?」

「…いえっ…特には…おっ…お世話になります…よろしくお願いします…鉄男さん…と…玉子さん…」

「なんだ、雄太…ちゃんと挨拶できて、お前偉いじゃないかぁ…全然しゃべんないかと心配しちゃったよ…ねぇ…玉子ちゃん…」

雄太の肩をポンポンと笑顔で軽く叩いている鉄男の問いかけに、玉子はぎこちなく「…そっ…そう…ねぇ…そうねぇ…雄太君よろしくねっ…」と答えて握手を求めるも、雄太はうつむき加減の硬い表情で握手には応じてくれなかった。

すぐさま与えられた自分の部屋に入ってしまった。

「…なんか…あたし…嫌われてる…みたい…」

今にも泣き出しそうな哀しい表情の玉子に気づくと、鉄男は玉子の頭を包み込むようにギュッと抱きしめた。

「…そんなことないさ…ちょっと照れてるだけだって…玉子ちゃん…可愛いから…もしかしたら惚れちゃったのかもよ…だったら、俺困るけど…」

鉄男は抱きしめた手を緩めると、涙が溜まった玉子のほっぺたを両手で包むと、そのまま優しくキスをした。

目を閉じた玉子の頬に一筋の涙が線となって落ちていった。

「…鉄男さん…もう、一緒にお風呂入れないね…」

「えっ?なんでさ…」

「…だって…雄太君…いるから…あんまりいちゃいちゃできないね…」

「…そっかぁ…そうだよなぁ…そうかぁ…じゃあ…まだまだ…玉子ちゃんのおっぱいに触れないんだぁ…チッ!」

鉄男が独り言のように小さくしみじみ呟き舌打ちをすると、すかさず玉子が「えっ?鉄男さん、今なんて言ったの?…なんか、あたしのおっぱいに触れないとか言った?…」と聞いてきた。

「…あっ!えっ!…ちがっ…違う違う!…違うって…そんなエッチなことなんて言ってないって…言ってないから…」

慌てる鉄男に向かって、玉子は心底がっかりしたように「…そうなんだぁ…鉄男さん…別にあたしのおっぱいなんか…触りたくないんだぁ…そっかぁ…残念だなぁ…あたし…鉄男さんになら…いつでもあげてもいいって思ってたんだけどなぁ…だけど、鉄男さん、あたしの怪我が気になってるのか、全然おっぱいとか触ろうともしないもんねぇ…あたし、こんなに待ってるのに…」と呟くと、「ええ~~っ!嘘ぉ~!マジでぇ~っ!えっ!そっ、そうなのぉ~~っ!…たっ…玉子ちゃん…おっ…俺に抱かれたいって…ええ~~~っ!そうなのぉ~っ!ええ~~~っ!ええ~~~っ!…えっ?ええっ?…えええ~~~っ!…そういうの早く言ってよぉ~…って言ってたんだっけ?…だけど、玉子ちゃん、怪我して痛がってるからさぁ…そういう時にそういうことしたら人間性疑われるって思ってさぁ…俺、すげぇ我慢して我慢して…俺だって目のやり場に困ってるけど、しっかり見てるけど…君のおっぱい…結構大きいからさぁ…触りたいって思ってたけど…って、なんかやらしい言い方になっちゃったけどさぁ…やっぱり怪我してるから…だからさぁ…ええ~っ!触ってもいいんだったら…玉子ちゃん、言ってよぉ~!…俺、そういうの…ホント困るからぁ~…なんだぁ~!そうだったんだぁ~…ええ~~~っ!…」と今度は鉄男が大声で叫んだ。

二人のうるさいほどのやりとりを、雄太は与えられた自分の部屋のベッドに横になりながら静かに聞いていた。

「…そりゃ…そうだよぉ…あたし、鉄男さんが好きなんだもん…お嫁さんになりたいんだもん…前にも言ってたじゃん…お嫁さんになるってことは…そういうのも…ほらっ…そういうさ、男女の…さ…」

玉子は急に口ごもった。

「…えっ!…ああ、まぁ…そうだけど…そうだねぇ…そうだよねぇ…だけど、だけどさぁ…俺達まだ、結婚とかしてないからさぁ…まぁ、結婚うんぬん関係なく男と女だから…やりたくなったらやっちゃうだろうけど…」

「…やっ!鉄男さん…やだぁ~…やっちゃうって言い方…なんか、すんごくやだぁ~…なんかやらしィ~!」

「…えっ、あっ…いやっ…だって…だってさぁ…じゃあ…何て言えばいい~?…セックス…って言っちゃう?…」

「ええ~~~~っ!そんな…そんなダイレクトな言い方ぁ~~~…ええ~~~っ!やだぁ~~~…そんな…そんな…セッ…セッ…」

その時、雄太が荒々しく部屋のドアを開けて顔を出すと、「あのっ!…」と大きく叫んだ。

「えっ!」

驚いて黙り込む鉄男と玉子、両方の顔をジッと睨むつけるように見た雄太は、「あのっ…お二人とも…もうちょっと小さな声でやってもらえませんかっ?…それか…どっか違うところで…」とだけ言うと、バタンと大きな音を立てるようにしてドアを閉めてしまった。

「あっ!ごめんなぁ、雄太」と鉄男。

「あのっ…ごめんなさい、雄太君」と玉子がそれぞれドア越しに、雄太に謝った。

そして二人顔を見合わせると人差し指で「し~っ!のポーズをとりながら、何故か屈んだ姿勢のまま静かに1階のリビングにそうっと向かった。

「…なんか…雄太君、怒らせちゃったね…」

「…そだなぁ…だけど…そっかぁ…俺…まだ、玉子ちゃんに手ぇ出せないんだなぁ…残念…ってだけどさぁ、玉子ちゃん…そっ、そのっ、若い女の子がおっぱい触っていいなんてさぁ、簡単に言っちゃあ駄目だよ…やっぱさぁ…ねぇ、玉子ちゃんもそう思うでしょ…あ~、それにしても残念だなぁ、ちくしょ~!…」

鉄男が首をもたげてしょげると、「…だってぇ…それより、しょうがないじゃない…キスだって…雄太君いるんだから、あんまりできないよ…」と笑顔の玉子がそう言った。

もうキスをしなかった頃には戻れない。

それどころか、その前はどうしていたのか思い出せない鉄男と玉子だった。

「雄太さえ預からなけりゃ…」

その台詞を口に出したくても絶対に出してはいけないと、肝に銘じてグッと歯を食いしばるように飲み込んだ二人だった。


「…雄太君、ご飯おいしい?」

夕食を囲みながら玉子が笑顔で尋ねた。

「…はい…」

雄太のそっけない返事にちょっぴり肩を落としながらも、先ほどのことを思い出すとそれ以上の言葉が何も出てこない玉子だった。

「…なぁ、雄太…その…なんてのかさ…玉子ちゃんの作ったご飯、おいしいだろう?なぁ…」

ぎこちない空気を察しつつ、玉子と目を合わせた鉄男は鉄男なりに気を遣って、雄太に声をかけた。

「…はい…おいしいです…」

「おいしいよなぁ…玉子ちゃんの作る飯さぁ…なぁ、雄太…」

「…ええ…」

「なっ、そうだよなぁ…玉子ちゃんさぁ、家に来たばっかりの頃なんて、おにぎりも握れなかったんだぜぇ…それがさ、毎日朝一番に起きてさ、一生懸命練習してさぁ…今じゃこんなに作れるようになってさぁ…エライと思うんだぁ…なぁ、雄太もそう思うだろっ?…なぁ…」

「…そうですね…」

雄太はあくまでも冷静で眉毛一つ動かさず、心が篭っていない返事をしつつも、黙々と出されたご飯を食べ続けていた。

「…鉄男さん、鉄男さんったら…恥ずかしいから…ねっ、あんまり言わないで…あっ、そだ…雄太君さ、何が好き?好きなおかずとか教えてくれたら…あたし、作るから…教えてもらえる?…」

玉子が気を利かせて尋ねるも、雄太はしばらく考え込んだ後、静かに「…ご飯…」とだけ言った。

「…あっ、あははは…そっかぁ…雄太君はご飯が好きなんだぁ…そっかぁ…そだねぇ…ご飯っておいしいもんねぇ…そだね、あははは…そだね…わかった…うん…」

「ええ~っ!ご飯って…雄太さぁ…そういうこと言ってんじゃないんだよぉ…お前さぁ…もっとこう…玉子ちゃんに対して…なんつうかさぁ…こう…」

「鉄男さん、いいから、いいから…そういうのは…ごめんねっ、雄太君…気ぃ悪くしないでねぇ…」

向かい合う鉄男と玉子の間の真ん中で、ただ黙々と下向き加減でご飯を食べている雄太は、一人で食べているようだった。

鉄男も玉子もそれっきり、何も言葉が思い浮かばなかった。

3人はテレビから流れてくるくだらないバラエティ番組をただただ黙って見ながら、それぞれのご飯を食べるので精一杯だった。

雄太が来た最初の夕食は、お葬式のような静けさだった。


「おはよう!雄太君…寒くなかった?よく眠れた?」

ゆっくりと起きてきた雄太に、玉子は元気いっぱい笑顔で挨拶。

「…ああ…おはようございます…」

まだぼんやりした様子の雄太は、目をこすりながらソファーに向かった。

「おう!雄太!…眠れたかぁ?なんか眠そうだなぁ…もしかして夜更かしでもしてたのかぁ?…そだ、ご飯食べて歯とか磨いて支度できたらさ、俺の手伝いだから…今日から頼むよっ!」

「…はい、わかりました…」

「さぁさ、雄太君、鉄男さん、ご飯できたから…席についてぇ…」

今朝の朝食はわかめと油揚げとネギの味噌汁、たくあん、甘い玉子焼きにベーコンとほうれん草の炒め物、塩こんぶと白ゴマを混ぜ込んだご飯だった。

雄太は食卓テーブルの上に並ぶおかずを見ると、一瞬固まってしまった。

そんな様子を見逃さなかった玉子が、恐る恐る尋ねてみた。

「…あっ、雄太君…もしかして、朝、パンの方がよかった?…それとも、なんか苦手な物あった?…ごめんね、わかんなかったから…パンがよかったなら、用意するから…」

玉子はそう言うとすばやく席を立った。

「えっ?そうなのかぁ?雄太…パンがよかったのかぁ?…だけどさ、お前、これから一緒に暮らすんだからさぁ…文句言わないで出されたもん、食べれよぉ…折角玉子ちゃんが早起きして一生懸命作ってんだからさぁ…玉子ちゃんもさぁ、そんなに雄太に気ぃ遣わなくたって…これからしばらくは3人で暮らすんだからさぁ…」

少しだけ腹が立った鉄男が、雄太を咎めるような言い方でそう問いただした。

「…いえっ…ちゃんといただきます…玉子さん、すいません…」

雄太はふくれた様な表情でそれだけ言うと、とっとと自分の席に着いた。

「…あっ、雄太君…ごめんね…とりあえず、今はこれ食べてね…ちゃんと食べないと力が出ないから…あっ、明日は朝、パンにするかなっ…今日はとりあえずこれ我慢して食べてね…ごめんね…ホントごめんね…」

雄太に対する玉子の恐縮した態度が、鉄男は気に食わなかった。

「ええ~っ!我慢ってぇ…玉子ちゃんのご飯世界一だよぉ~…少なくとも俺はね…だからさぁ、我慢してなんて言っちゃ駄目だよぉ~…ねぇ~…」

「…えっ、あっ、そう?…鉄男さん、あたしのご飯世界一って…嬉しいなっ…えへへへ…えへへへ」

玉子は照れて笑顔になるも、その目には大きな涙の玉が膨らんで、瞬きでポロンと転がり落ちていきそうだった。

雄太は出されたご飯を黙ってひたすら口にかきこんでいった。

それぞれが気を遣う形のぎこちない朝食は、鉄男と玉子の二人だけだった頃よりも何故かとても長く感じた。


「…じゃ…あ…後よろしくね…玉子ちゃん…いってきまぁす…」

鉄男はそう言うと先に家の隣にある、外の作業場に出かけて行った。

雄太は玉子に軽く会釈すると、鉄男の後を追って小走りで行ってしまった。

「二人ともいってらっしゃぁ~い!…作業気をつけてねぇ…頑張ってねぇ…」

玉子はちょっぴり沈んだ気持ちを切り替え、二人を笑顔で見送った。

「…さてと…今日のおやつは…何がいいかなぁ…」

仕事の休憩のおやつを決めると、玉子はさっさと家事に取り掛かった。

鉄男の暮らしの中で、玉子は来たばかりの頃とは雲泥の差と言えるほど、何事も段取りよくできるようになっていた。

実家での両親に甘えた生活ではこんなに上達できたかどうか、わからないと思うほど。


鉄男と玉子の元に雄太がやってきて一週間。

雄太は鉄男の元で、言われたことを彼なりに一生懸命こなしていた。

思春期特有のふてくされた態度ややる気のないダラダラを、鉄男と玉子に見せることは決してなかった。

だが、その代わりにすぐに部屋に戻り、鉄男や玉子とゆっくり話したり、一緒にテレビを見ることもなかった。

それは雄太なりに気を遣ってのことだった。

けれども、鉄男と玉子にはそれがかえって淋しくもあった。

「…あたし達と一緒にテレビ見たらいいのになぁ…動物の赤ちゃん嫌いなのかなぁ?…」

「…いやいや、玉子ちゃん…そういうことじゃないと思うけどなぁ…だって、テレビだったら雄太の部屋にもあるじゃん…」

「あっ、そっか…」

「多分さ、俺たちに気を遣ってんだよ…そんな余計なことしなくてもいいのにさ…」

「…そうだねぇ…」

「それと…ずっと俺達と一緒だからさ、一人になりたいんじゃないかなぁ?…」

「…そうねぇ…そういう時ってあるよねぇ…一人になりたいって…なんかすっごくよくわかるなぁ…」

「…えっ?そうなの?…俺、玉子ちゃんは淋しがりだから、一人になるの絶対に嫌なんだと思ってたけど…違うんだぁ…そうなんだぁ…そっかぁ…俺と一緒に居るの、嫌な時もあるんだぁ…そっかぁ…え~ん、しくしくしくしく…いじけちゃうんだからなぁ…」

鉄男はちょっぴりふてくされた態度で、ソファーに膝を抱えた状態でぐじぐじしながらゆらゆらした。

「ええ~っ!鉄男さん…やだぁ~っ!…なんかそういうのってやだぁ~っ!うわぁ~!鉄男さん、そういうことするんだぁ~…うわぁ~…めんどくさぁ~…」

傍で体育座りのままいじける鉄男を見て、玉子は身も心もちょっと引いた。

「ええ~っ!知らなかったぁ~?…俺なんてす~ぐいじけるんだよ~ん…玉子ちゃん、知らなかったんだぁ~…俺ってそういう人なんだよぉ~ん…ええええ、めんどくさい男ですよぉ~…どうだ!ドン引きしちゃっただろっ?わはははは」

おどける鉄男に、「やっだぁ~ん!…鉄男さん、そんなことしてたらカビ生えちゃうよぉ~…」玉子は心底嫌そうに助言した。

「…いいも~ん…俺なんか俺なんか…」

「あ~っ!もう!鉄男さん、普通に戻ってよ…あっ、ペンギンの赤ちゃん可愛い~!」

いつまでもいじける鉄男にかまっているのがアホ臭く思えた玉子は、急にテレビの中の可愛らしいペンギンに夢中になった。

「あ~、ホントだぁ~…なんか玉子ちゃんに似てるね…」

「…ええ~っ!…」

急に普通の鉄男に戻ったが、ペンギンに似ていると言われたことで、今度は玉子がほっぺたを膨らませながら膝を抱えていじけ始めた。

「…ええっ!なんで怒るのぉ~?ペンギン可愛いじゃない?…玉子ちゃん、機嫌直して…ねぇ、お願い…鉄男のお願い聞いて聞いて!…お願ぁ~い!…」

「ぎゃあはははは…何?鉄男さん…きもっ…どしたの?やめて、それ…気持ち悪いよ…どっか悪いの?…」

「うわぁ~!玉子ちゃんがきもって…きもって言ったぁ~!…ああ、そうだよ…どっか悪いって聞かれたら、頭ですって答えますよ!…玉子ちゃん、ひど~い!あはははは」

「ええ~っ!鉄男さんだってひど~い!あははははは」

二人のやりとりは雄太の部屋に聞こえるほどの大きな声だった。

「…あ~…早く帰りてぇ~…」

雄太はベッドで仰向けになりながら、自然と独り言を呟いていたのだった。


3人のぎこちない生活が続く中、ある日の休憩のおやつはドーナツだった。

「はい!おまたせぇ~…今日のおやつは、ドーナツだよぉ~!今ね、揚げたばっかりで熱いから、食べるの気をつけてねぇ…」

パンを作る要領で生地を発酵させた、昔ながらのドーナツ。

雄太はそれを見て一口かじると、途端につ~っと涙をこぼした。

「…えっ?えっ?…雄太君、どしたの?…ごめんね、熱かった?大丈夫?…」

「あっ、雄太…大丈夫か?熱かった?口やけどしちゃった?…」

慌てて自分を心配する鉄男と玉子の様子に、雄太はきょとんとなった。

「…えっ?あの…大丈夫です…おいしいですけど…」

驚いたままの雄太の返答に、鉄男も玉子も安心した。

「…雄太君…泣いちゃったから…」

「えっ?…」

玉子に指摘され、雄太は慌てて自分の頬を触ってみると、濡れていたので更に慌ててしまった。

「あっ、えっと…あの…あれっ?…なんでかなぁ?…なんで?僕…」

「あははは…雄太さ、泣いてる自覚なかったんだぁ…そっかぁ…どうだ?おいしいかぁ?…」

笑顔の鉄男と安堵の表情の玉子にジッと見つめられ、雄太はちょっぴりばつが悪いような心地がした。

「…玉子さん、これ…おいしいです…なんか…なんか…その…なんか…母さんの作ったドーナツに…似てて…おいしいんです…」

雄太の思いかげない告白に、鉄男と玉子は少し驚いた。

一緒に暮らしている中で、時折哀しそうな表情でぼんやりと考え事をしている様子は多々見かけるも、こんなに素直で正直な雄太は初めてだったから。

「…そうなの?…嬉しいなぁ…雄太君のママさんのドーナツに似てるんだぁ…そっかぁ…よかったら、いっぱい食べてね…うふふふ」

「…はい…玉子さん…これ…これ…」

雄太はそこまで話すと、急に黙りこくって下を向いてしまった。

そして、肩を震わせ、静かに涙を流していた。

「…雄太、どした?…ゆっくりでいいからさ…話してもらえるか?…なっ?…泣いてちゃわかんないからさ…なっ…話せば少しか気が楽になるだろうからさぁ…なっ?…」

泣いている雄太の肩に手を回すと、鉄男が優しくそう言った。

「…っくっく…ぼっ…僕っ…母さん…怪我…させちゃって…だから…だから…」

「…」

鉄男と玉子は黙って雄太の次の言葉を待ってあげた。

「…僕っ…母さん、怪我させるつもりなんて…これっぽっちも…なかったのに…僕…僕…」

「…」

鉄男が優しく雄太の頭をポンポンとした。

「…僕…高校受験…失敗しちゃったから…父さんにも母さんにも…いっぱい…いっぱい心配かけちゃって…なのに…僕、あん時…気持ちが自分でも…押さえ切れなくって…そんで…そんで…絶対に…やっちゃいけないって…わかってるのに…どうしても…押さえ切れなかったから…部屋のもん、いっぱいぶん投げて…暴れて…もう、どうでもよくなっちゃって…まさか…それのせいで…僕のせいで…母さん…怪我させちゃうなんて…思ってもみなかったから…どうしよう…僕…どうしたらいいんんだろうって…」

「…そう…そうだったの…」

泣きながら話す雄太の話に、玉子もつられて泣いてしまっていた。

「…だから…僕…暴れるし、受験に失敗したから恥ずかしいんじゃないかって…だから…父さんも母さんも…僕なんかいらないって…思ったんじゃないかな…僕みたいな厄介者なんていらないって…だから、ここに僕を捨ててったんじゃないかって…いっつも思ってて…だから、僕、ここで鉄男さんの仕事一生懸命手伝おうって…決めたんです…もう、父さんと母さんには…合わせる顔ないから…だけど…このドーナツ…食べたら…なんか…母さんのこと…急に思い出しちゃって…そしたら…自分がしたことの重大さってのか…そういうのが…」

「…いい…いいから…雄太…もういいから…なっ?お前の気持ちはよくわかったから…なっ…雄太…大丈夫だから…だけどな、雄太…お前間違ってるぞ…お前の父さんも母さんもお前のことをいらないなんて、ひとっつも思ってないから…お前を捨てたりする訳ないから…逆になぁ…お前が自殺でもするんじゃないかって心配してよ…だけど、正美さんは入院中だし、和兄は仕事だからずっとお前と一緒にいられないってのか、いてあげられないから…だから、俺達に預けたんだぞ…家に一人でいさせるのが心配で…そこをさ、雄太、勘違いしちゃ駄目だぞ…母さんが退院したら迎えに来るって…それからゆっくり3人で雄太のこれからを話し合おうって…なっ、そういうことなんだぞぉ…」

「…」

雄太は涙を流しながらも、ジッと鉄男の話に耳を傾けていた。

二人のやり取りを、玉子は泣きながらも静かに聞いていた。

「…僕…母さんに会いたい…ちゃんと謝りたい…あの時はちゃんと謝ってなかったと思うから…父さんにも会いたい…僕…僕…」

「…じゃあさ…これから…会いに行こうよ!…そだ、このドーナツ持ってさ…雄太君のお母さんのお見舞いにみんなで行かない?鉄男さん、仕事まだ残ってる?今から、駄目かなぁ?…」

涙をエプロンで拭った玉子は、急に立ち上がると急に元気いっぱい提案してきた。

「…そだね…そうだ、そうすっかぁ…雄太、行くぞっ!…さっ、とっととトイレに行っといれ!」

「ぶっ!やだぁ~!鉄男さん…親父くさぁ~!ねぇ、雄太君…」

「…えっ…ええ、まぁ…」

鉄男の古すぎる親父ギャグに、今の今まで涙を流していた玉子も雄太も少し笑顔になった。


雄太の母正美の入院している大きな街の病院までは、結構遠かった。

途中の花屋で、雄太は小さくて可愛らしい花束を買った。

コンコン!

「…どうぞぉ…」

正美の部屋は2人部屋だったが、一昨日同室の人が退院したので個室のようになってしまっていた。

「あらっ…鉄男さん!お久しぶり…なぁに?わざわざお見舞いに来てくれたのぉ~…ありがとうねぇ…」

始めにちょっこり顔を出す形で入った鉄男に、正美は笑顔で声をかけてくれた。

「…どうもぉ…」

続いて玉子が入り、「あらっ?こちらは…噂の玉子ちゃん?…どうもぉ…初めまして…雄太がお世話になって…ごめんなさいねぇ…あたしがこんなだから…どうぞ、入って入って…」

「…あっ、はい…ありがとうございます…えっと…あのっ…ほらっ、雄太君…ほらほらっ…」

一旦廊下に出た玉子が雄太の背中を押して入ってくると、正美は驚いた表情を浮かべていた。

「あっ、雄太も一緒に来てくれたんだぁ…そっかぁ…お母さん、びっくりしちゃったぁ…どう?雄太…ちゃんとやってる?…ごめんね…お母さん、こんなだからさ…」

「…」

眉間に深い皺を寄せた固い表情で黙りこくる雄太に、鉄男と玉子はどんどん背中を押しまくった。

「…ほらっ、雄太君…ねっ、ちゃんとお母さんにさ…ねっ…」

「そうだよ、雄太…折角ここまで来たんだからさ…あっ、俺ら邪魔?あっ、ごめんごめん…じゃ、ちょっと席外すな…わりぃ雄太…したら、ちゃんとな…なっ…したら、正美さん、わりぃ、俺達ちょっくらジュースでも買ってくるからさ…雄太の話聞いてやって…」

それだけ告げると、鉄男と玉子はそそくさと部屋を後にした。

だが、ジュースを買いに売店へは行かず、廊下で耳を済ませて中の様子を伺っていた。

「…鉄男さん、駄目じゃない?立ち聞きなんてさぁ…悪いよぉ~…」

「し~っ!…じゃあ、玉子ちゃんは売店に行ってていいよ…俺、気になるからさぁ…ちょっといるわ…」「…ええ~っ!ずる~い!…あたしだって気になってるもん…一緒にいるよぉ~…」

「…し~っ!だからぁ~…玉子ちゃん、声でっかいって…」

「ええ~っ!鉄男さんだって十分声でっかいよぉ~…あたしばっかりじゃないよぉ~…」

「…だぁかぁらぁ~…」

廊下の二人の会話は病室の正美と雄太に丸聞こえだった。

「…あの二人…仲いいねぇ…」

「…うん…そうなんだぁ…いい人達なんだぁ…僕にもよくしてくれて…優しくて…」

雄太がそう話すと、廊下の二人はピタッと喋るのを止めたかと思うと、すかさず「…雄太君、あたし達のこといい人達って…優しいって…なんか嬉しいねぇ…そんな風に思っててくれたんだねぇ~…なんか照れちゃう…えへへへ」と小声でニヤニヤした玉子が言った。

「…そうだねぇ…そんなに俺のこと優しいって…」

「えっ?違うって…あたし達のことだって…二人のこと…二人がいい人って言ってくれたの…」

「…えっ?そうだっけ?…仕事を丁寧に教えてる俺のこと、褒めてたんじゃなかった?…」

「ええ~っ!違うよぉ~!鉄男さん、すぐそうだ…自分だけ褒められてるって…やな人だねぇ…」

「え~っ!玉子ちゃん、俺のことそんな…やな人って…やな人ってこたぁないんじゃないのぉ~…」

「…だってぇ…」

廊下の二人はまた声が大きくなっていることに気づいていない様子だった。

「…鉄男さんと玉子ちゃんってさ、いっつもあんな感じなの?…」

正美は雄太に尋ねた。

「うん…大概あんな感じなんだぁ…仲いいんだぁ…」

「…そっかぁ…」

「…あっ、母さん…あのさぁ…体は大丈夫?…そだっ、これっ…」

雄太は後ろで持っていた小さな花束を母に手渡した。

「…わぁ、可愛い…ありがとねぇ…雄太…ホントにありがとう…綺麗ねぇ、お花はやっぱりいいわねぇ…」

雄太は母の嬉しそうな笑顔を見ると、ホッとしたように一緒に持ってきた玉子が作ってくれた紙袋に入ったドーナツも、思い出したように手渡した。

「…わぁ、嬉しい…ドーナツ…これ…どしたの?」

「…玉子さんが…作ってくれたんだ…今日のおやつだったんだ…なんか…なんか母さんのドーナツに似てて…そしたら…そしたら…」

雄太は急に言葉が詰まってしまいうつむくと、着ていたパーカーにポトンと10円玉ほどの大きさの涙の粒が数滴落ちた。

「…雄太…どしたぁ?…大丈夫?…」

正美が雄太の顔を覗きこむように声をかけると、雄太はパーカーの袖口で涙を拭うと意を決したように言葉を続けた。

「…母さん…ごめんなさい…僕…僕のせいで…怪我しちゃって…僕…なんて言ったらいいのか…その…ホントにごめんなさい…僕…僕、これからいい子になるから…だから…だから…僕を…捨てないで…」

泣きながら一生懸命話す雄太の言葉に、正美は驚いたかと思うとすぐさま哀しい顔をした。

「…雄太ぁ、なんでそんなこと言うのぉ…お母さんもお父さんも雄太のこと捨てる訳ないじゃん…なんでそんなことするの?雄太のこと大好きなのにぃ…」

「…だって…だってさ…僕…僕…母さんに怪我させちゃったから…悪いやつだから…だから…母さん、ごめん…なさい…」

「ねぇ、雄太…お母さんね、怪我で入院した訳じゃないんだよぉ…なんか、勘違いしてるみたいだけどさぁ…確かに、あの時さ、雄太の投げたの当たったけどさ…それはたまたま…何て言うか…当たっちゃっただけで…それは大した怪我じゃないのよ…ちょっとたんこぶできただけじゃない…お母さんさ、その前からちょっと調子悪かったのさ…それで検査入院なんだよ…雄太さ、この病棟ちゃんと見たぁ?…怪我だったら整形じゃん…だけど、ここ、産婦人科でしょ…そういうことなのさぁ…全然雄太のせいじゃないんだよぉ…たまたま時期が重なっちゃっただけで…でも、ごめんねぇ…心配かけちゃってさ…だけど、お母さんもうそろそろ退院するんだよ…お父さんに聞いてなかった?毎日連絡してるって言ってたけど…お母さんも毎日メールしてたんだけどさぁ…雄太、全然返してこないから…どうしたんだろうって…鉄男さんに連絡してたんだけど…聞いてなかった?」

「…えっ?…」

母の説明に安堵した雄太は、更に泣いてしまいながらも、自分のスマホをポケットから取り出して見た。

すると、画面が真っ暗になっており、雄太は思い出したように慌てた。

「…あっ…僕…鉄男さんところに行った日から、電源切ってた…」

「ええ~っ!どして、また…」

驚く母に雄太は冷静に答えた。

「…だって…僕…もう捨てられたんだと思って…母さん達にも…友達にも…誰にも連絡したくなかったから…」

力なく答える雄太の顔色が曇ると、再びポトンと大粒の涙がこぼれてパーカーに落ちた。

「…そっか…雄太、そんな風に思ってたんだね…辛かったね…ごめんね…なんか、ごめんね雄太…」

涙の正美もそう言うとベッドの傍に座る雄太に近寄り、うつむき黙って泣いている雄太の頭を優しく撫でた。

雄太はゆっくりとスマホの電源を入れると、メールと留守電がいっぱい。

父と母を始めとして、学校の友人達や担任だった先生や部活の顧問の先生、塾の先生や塾で一緒だった他校の友人、それに祖父母などなど、雄太を心配している人達からのメールやメッセージがすぐには把握できないほど沢山だった。

それを知ると、自分がどれほどみんなに心配をかけていたのか、痛いほど身に沁みてよくわかった雄太だった。

「…母さん…僕…僕…」

母のベッドの布団に突っ伏して本格的に泣き出した雄太に、正美は「大丈夫…大丈夫だからね…」と囁くように声をかけながら髪を優しく撫でた。

病室の大きな窓から見える厚い雲に覆われた空の隙間から、一筋の黄色っぽい光の線が眼下に見える街の真ん中に真っ直ぐ下りているのがはっきりと見えた。

「…よかったね…雄太君…」

正美と雄太親子の優しい時間を廊下で立ち聞きしていた玉子はもらい泣きしていた。

「…そだね…よかったな、雄太…」

同じく立ち聞きしていた鉄男もやはり、もらい泣きしていた。

そんなもらい泣きしている二人を、廊下を通る他の患者さん達やお見舞いに来た人達、看護士さん達などにすっかり見られてしまっていた。


「ねぇ、ひとつ提案があるんだけど、いい?…」

鉄男の家のリビングで玉子は嬉しそうに何か思いついたらしかった。

「あっ、うん…何っ?」

そう鉄男が聞き返すと、同じことを考えていたらしい雄太が読んでいた文庫本のカバーを、今の今まで読んでいたページに挟むと、慌てたように顔を上げた。

「…あの…さ…明日、正美さん退院するじゃない?…」

「…あっ、うん…」

鉄男と雄太は玉子がこれから何を言おうとしているのか、薄っすら察した。

「で、さぁ…ここで、退院のお祝い…って何て言うんだっけ?…まぁ、いいか、それは…それやらない?…駄目かなぁ?鉄男さん、雄太君どう?…いいでしょ?…やっぱ難しい?…」

鉄男と雄太の反応を気にしながらも、玉子にしてはなかなかいい提案だった。

「…う~ん…そうだねぇ…だけど…ここまで遠いからねぇ…病院から自宅ならすぐ…だったよなぁ…確かさぁ…」

鉄男は考えながら言い、雄太にさり気なく話を振った。

「…そうですねぇ…そうなんですけど…母さんと父さんにここに来てもらいたいなぁ…そしたら、僕…二人にドーナツ作ってあげたいなぁ…って…難しいですかねぇ…」

悩みながら家の主である鉄男の顔色をちらりと雄太が伺うと、「えっ!そうなの!雄太君、偉いっ!ドーナツ自分で作ってみたいってエライねぇ…あたし、協力するから…いいね、そうしよう!そうしよう!…お願い鉄男さん…」玉子が嬉しさの余り両手の指を組んだお願いポーズで、鉄男の傍に膝ですり歩きで近寄ると、「…う~ん…そうだねぇ…そうなるとさぁ…日帰りは無理だから…そうだねぇ…泊まってもらう?…」鉄男が逆に聞き返してきた。

「ええっ!いいのぉ?…やったぁ~!ありがとう鉄男さん!」

玉子は喜ぶ余りに雄太がいるにも関わらず、鉄男に飛びつくように抱きつくと、勢いよく鉄男のほっぺたにキスをした。

ぶちゅっ!

鉄男の頬に玉子の濡れた唇が吸い付くようにくっつくと、目の前で唖然としている雄太の顔が眼前に飛び込んできた。

「…あっ、ごめん…」

慌てて鉄男から離れた玉子が、今まで聞いたこともないような低い声で冷静にそう言った。

「…べっ…別に…大丈夫です…かえってすいません…僕がいたら、お二人いちゃいちゃできないですもんね…」

雄太の言葉に鉄男と玉子は動揺を隠し切れなかった。

「あっ、えっと…雄太…ごめん…そんな…ええ~っ…なんて言ったら…やぁ~…ええ~っ…え~っ…ええ~っ…」と鉄男。

「えっ、そんな…雄太君がいるからとか…そんな…いちゃいちゃって…そんな…ねぇ…鉄男さん…ねぇ…そんないちゃいちゃって…あたし達…そんな…ねぇ…いちゃいちゃて感じじゃ…ねぇ…そんないちゃいちゃって…いちゃいちゃって…」と玉子。

戸惑い激しく動揺している二人が何とも表現しにくいほど面白すぎて、口元を両手で塞ぎきれずに思わず「ぶぶぶぶっ…ぶぅ~っ!」と噴き出して笑ってしまう雄太だった。

それにつられて鉄男と玉子もまた、「ぶぶぅ~っ!」と、飛沫を飛ばすほど噴き出して笑ってしまった。

ひとしきり笑った後、三人とも「はぁ~あ…」で〆ると、鉄男がおもむろに口を開いた。

「…じゃ…あさ…俺、早速和兄に連絡するわ…だからさ、え~と雄太は正美さんに連絡…あっ、どうだろう、内緒の方がいいかなぁ?…」

「…う~ん…でも、向かう道中で絶対にバレますよねぇ…ここに向かってるって…」

「…そうだなぁ…じゃあ、別に連絡してもいっか…じゃあ、雄太は正美さんに連絡して…あっ、玉子ちゃんさ、なんか買い物ある?…食材足りるかい?もしか足りないんだったら、俺、車出すからさ…みんなで買出しに行こうぜぇ!…なっ…」

「うん…ありがと、鉄男さん…ちょっと待ってて…冷蔵庫とか見てくるね…」

雄太も鉄男も玉子も、早速明日の準備に取り掛かった。

それが何とも楽しくて、気持ちが高揚しすぎた三人のテンションがいつもよりも若干おかしな感じだった。

何をするにも笑顔ばかり。

三人での生活の中で、これほどまでに浮かれた調子だったのは初めてだった。

正美の「快気祝い」が待ち遠しい三人は、その夜興奮してなかなか寝付けなかった。

特に雄太は母の退院もさることながら、久しぶりに家族が揃うことが何より嬉しくて仕方がなかった。

そして、雄太は密かにある決断をしていた。

それを明日、みんなの前で発表することを想像してみると、何とも形容しがたいモヤモヤが体中を駆け巡るのだった。

「…明日…明日…頑張らなくちゃ…」

雄太はベッドで横になる前に、窓から月明かりで照らされた雪の嵩がかなり減った雪原を眺めた。

そして、レモンみたいなお月様に向かって指を組み、自分だけの神様にお祈りしてみた。

その儀式のような行いは、毎日ではないものの雄太が物心がついた頃から度々していたもの。

ただの気休めなのかもしれないけれど、雄太はそうすることでざわついていた心が安定し、落ち着いて目を閉じられるのだった。


いつの間にか夜が明けているのに気づいた玉子は、着替えるとすぐさま台所に立った。

ほどなく鉄男と雄太が眠い目をこすりながら、あくび混じりに「おはよう」「おはようございます。」と起きてきた。

急いで朝食を済ませると、鉄男は和夫と正美用の布団などの用意。

雄太は玉子に教えてもらいながら、ドーナツ作りに着手した。

そんな午前中、それぞれが雄太の両親が来る支度に追われている最中、玄関のチャイムが鳴った。

ピンポーン!

「…はぁ~い!…あれっ?…雄太君のママさん達、来るのまだまだだったよねぇ…あれぇ?…あっ、ごめん…ここ頼むね…ちょっと出てくる…はぁ~い、今行きまぁ~す…」

パタパタと急いで玄関に出た玉子は、ドアの前に立っている自分よりも少し年上と思われる女性に、何となく不安を感じたのだった。

「はい…あの…どちら様ですか?」

「はぁっ?あんたこそ、誰?…」

その女はキョトンとしている玉子に向かって、キツい口調でそう返してきた。

「えっ?あっ…あの…あたしは…その…ここの者ですけど…あなたは…」

玉子が恐る恐る尋ねると、その女は玉子をギッとひと睨み。

急に大声で家の中に向かって叫びだした。

「鉄男ぉ~!鉄男、いるんでしょ~?ねぇ…ちょっとぉ~…鉄男ぉ~!」

いきなり鉄男を呼び捨てで呼ぶ目の前の派手な女が、鉄男とどういった関係なのか、玉子は瞬時に察した。

「ああ~?…誰ぇ~?…玉子ちゃ~ん…どしたぁ~…」

部屋の片付けをしていた鉄男が間抜けっぽく、頭をぐしゃぐしゃかきながら玄関まで来ると、玉子と対峙している女の姿に心臓が飛び出そうなほど驚いた。

「…えっ?えっ?…悦子…なんで…なんで、いるんだよ…」

少しばかり放心状態の鉄男からは、そんな陳腐な台詞しか出てこなかった。

「ただいまっ!上がるわよっ!」

「悦子」という名の女はそう言うが先か、ズカズカと慣れた様に家に上がりこんできた。

「…ちょっ…ちょっ…勝手に…ちょっ、悦子っ…悦子っ…お前、何、勝手に…ちょっ…やめろやっ…ちょっ…悦子っ…」

家に上がりこむ女を慌てて追いかける鉄男の姿を、玄関で呆然と眺めていた玉子は急に堪らない気持ちでいっぱいになり、長靴のまま外に飛び出して行った。

うわああああああ~っ!

台所でドーナツの生地が発酵するのを待っている間に、使った調理器具をせっせと洗っていた雄太は、玄関からやってきた見知らぬ女とそれを追いかけ腕を掴み、玄関に戻そうと押し問答している鉄男の姿にびっくりしすぎて、お湯を出しっぱなしにしたまま手がすっかり止まってしまっていた。

「…悦子っ!悦子っ!…お前、何だよっ!今頃、のこのこ…何だって戻って来たんだよっ!今更、俺に何の用なんだよっ!出てけって!出てけってば…もう、ここはお前の場所じゃねぇんだって…いいから出てけって…早く出て行けよ!」

雄太は鉄男がこれほどまでに声を荒げて怒る姿を見たことがなかった。

それと同時に先に玄関に出た玉子の姿が見えないことに気がついた。

「…?あれっ?…玉子さん…」

雄太は急いで洗い物を片付けると、食卓テーブルの椅子の背にかけてあった自分のフリースのジャンバーを素早く羽織ると、同じく椅子の背にかけてあった玉子お気に入りの牛柄の半纏を手に玄関に向かった。

「…あれっ?長靴…」

雄太は玉子が気に入っていつも履いている、水玉模様のおしゃれ長靴がないことに気がつくと、急いで外に出て行った。

家の中では鉄男と悦子が激しく言い争っている最中だった。

「…何しに戻ってきた…」

信じられないほどの恐ろしい声で鉄男が「悦子」と言う名の女に尋ねた。

「…ええ~っ、何って…ここはぁ、鉄男とあたしの家じゃない…戻って何が悪いのぉ…」

鉄男の怒りに火を注ぐような挑発的な言い方で、悦子は返してきた。

「…悪いに決まってるだろっ!…それにここはもうお前の家なんかじゃないからっ!出て行け…いいから…出て行けって…」

静かな低いトーンで冷静になろうと必死な鉄男は、今できる限りの落ち着いた口調でそう告げた。

「ええ~っ!どしてぇ?…だって、結婚しようって言ってたじゃないのぉ…だから…あたし、戻ってきてあげたのにぃ~…鉄男ったら、冷たぁ~い…もっと優しくしてよぉ~…そんな、出て行けって…そんな酷い言葉…よく好きな女に言えるわよねぇ…」

悦子は何事もなかったかのように、首を傾げながら甘えた声でそう言った。

「…何…言ってんだよ、お前…」

「…えっ?何っ?聞こえない?…もう一回言って!…」

悪びれない悦子の聞き方に腹が立った鉄男は、今度は力の限り大声で叫んだ。

「何言ってんだよ!今更よぉ…もうお前なんか、好きな訳ないに決まってんだろっ!おめぇなんか大嫌いだわっ!二度と顔も見たくねぇわっ!…何だよっ!勝手に男作って…しかも…俺の財布と通帳と印鑑まで持って、ある日突然消えたくせにっ!何、のこのこ、どの面下げて戻って来れんだよっ!…信じらんねぇ…お前ってやつぁ…いいから、出てけって…出て行けよっ!…俺にはちゃんと結婚の約束してる人がいるんだよっ!お前なんかよりもずっとずっと可愛くて若くていい女なんだよっ!…だから、出て行け!出て行けって!…」

鉄男は力づくで悦子を玄関の外に押し出し、悦子の履いて来た靴も放り出してドアに鍵とチェーンをかけた。

ぶつぶつと悦子への恨み節を言いながら、ゆっくりと部屋に戻ると、そこにさっきまで居た雄太の姿と玄関で見かけたっきりの玉子の姿がないことに気がついたのだった。


「…玉子さぁ~ん!玉子さぁ~ん!…」

雄太は解けかかったぐちゃぐちゃな雪とすっかり乾いて地面が顔を覗かせている所を、玉子の名前を呼び辺りをきょろきょろと見渡しながら、必死に玉子を捜した。

鉄男の家から程近い、冬場はほとんど誰も近寄らない鬱蒼と松が生い茂る森への小道に、ぽつぽつと玉子のものと思われる足跡だけが続いていた。

「…玉子さん…」

雄太は道の先に何があるのか、まるで知らなかった。

ただ、見るからに恐ろしげな雰囲気が漂っていることに、一抹の不安を覚えるのだった。

そうなると、雄太は玉子が先ほどの見知らぬ女のことで、突発的におかしなことをしでかしやしないか、心配で堪らなくなった。

幼い頃、多分父や母と遊びに来たことがあるんだろうな。という程度の森の中は、大きくなった今でも、何故か一人で入るのが躊躇われるほど恐ろしげに感じた。

それでも、玉子を急いで捜し出さなくてはとの強い思いが、雄太の足をどんどんと突き動かすのだった。

お日様の光があまり届かなく薄暗い森の中で、雄太はしゃがみこむ玉子をようやく見つけた。

玉子はうつむき泣いているように見えた。

「…はぁはぁ…たっ…玉子さんっ…はぁはぁ…大丈…夫…ですかっ?…そんな格好じゃ寒いからっ…これっ…これ着て下さいっ…」

慌てて追いかけてきた雄太はそれだけ言うと、しゃがみこむ玉子の肩に持ってきた牛柄の半纏をそっとかけてあげた。

「…あっ…雄太君…」

玉子は何気なく、本当に何気なくそう言った。

「…大丈夫…ですか?…さっき…あのっ…さっきの人…」

「…ありがと、雄太君…あたしは…大丈夫…大丈夫だから…さっきの女の人さぁ…鉄男さんの彼女なんだねぇ、きっと…それなのに、あたし…知らなかったからって…図々しく、押しかけ女房みたいにしちゃって…鉄男さん、優しいから…きっと、言い出せなかったんだねぇ…なのに、あたし…なんか…馬鹿みたいだよねぇ…間抜けだよねぇ…鉄男さんのこと、本気で好きになっちゃって…お嫁さんになりたいって…そういうの、鉄男さん…迷惑だったんだよねぇ、多分…それなのに、あたし…あたし…」

玉子は自分に言い聞かせるように雄太にそれだけ呟いた。

雄太は遠くを見ながら呟く玉子の目に、瞬きをする度大きな涙の粒がぽろんぽろんと頬を伝って、玉のまま零れ落ちていくのを、息を整えながらジッと見つめた。

「…ちがっ…違うと思いますっ!鉄男さんは、玉子さんしか好きじゃないと思いますっ!…だから…あの女の人は…上手く言えないけど…違いますって…だって、だってさっき、鉄男さん、見たこともないおっかない顔であの女の人に出て行け!って叫んでたから…僕、あんな怖い鉄男さん、今まで見たことないから…鉄男さんは、玉子さんだけですって…絶対そうです…僕はわかります…」

雄太は自分でも信じられないくらい、鉄男の気持ちを熱く必死に玉子に伝えた。

それが玉子に届いているのかは、わからなくても。

「…雄太君、優しいね…ありがとう…だけどさ、あたし…もうあの家にいちゃいけないなぁって思ったんだぁ…なんか、鉄男さんに…どんな顔で会ったらいいんだろうって…ごめんね、雄太君…あたし、やっぱり…」

「…玉子さん、何でそんな悲しいこと言うんですか?…そんなの絶対に駄目ですって…今まで通りに鉄男さんと一緒に居た方が…」

「…だって…鉄男さん、結婚しようって言ってくれたけど…いつとか、そういうの言ってないんだもん…それって、きっとあの女の人とのことがあるから…だから…」

涙でいっぱいの玉子は、そこまで言うと立ち上がり、ゆっくりと更に深い森の中に歩き出した。

「…ちょっ、玉子さん?…どこ行くんですかっ?…家に帰りましょうよ!そっちは危ないですって…ねっ、玉子さんっ…」

雄太の制止を力ない笑顔で振り切ると、玉子はいきなり駆け出した。

驚いた雄太はその場で尻餅をついた。

「…いってぇ…あっ、玉子さぁ~ん!待って!そっちは危ないですって…」

雄太の耳に先ほどから、微かに水の流れる音が聞こえていた。

急いで起き上がろうとしている雄太の傍に、鉄男が慌てたように走ってきた。

「お~い!雄太ぁ~!…大丈夫かぁ~!今、行くからぁ~!」

はぁはぁはぁはぁ…

駆けて来た鉄男は真っ白い大きな息も荒く、転んだ雄太の腕を掴み起こしてくれた。

「はぁはぁはぁ…なぁ…雄太っ…たっ…玉子ちゃんはっ?はぁはぁはぁはぁ…」

「すいません、鉄男さん…僕、止めたんだけど…あっちに向かって走って行っちゃって…」

雄太は尻についた濡れ雪を払いながら、鉄男に玉子の行方を話した。

「はぁはぁ…えっ?あっち?…えっ?嘘だろっ?あっちは…」

「鉄男さん!あっちって何があるんですか?…さっきから何となく川の音が聞こえてるんですけど…もしかして…」

「はぁはぁ…ああ、察しの通り…あっちには川ってのか…畑用の水路があるんだけど…雪積もってっから…わりぃ、雄太…先に行くわ…お前は家に戻ってて!頼むわっ!…」

鉄男はそれだけ告げると、玉子を追って森の奥へ走って行ってしまった。

「わっかりましたぁ~!鉄男さんも気をつけて下さいねぇ~!」

片手を口の横に沿え、もう片方の手を頭上で大きく振りながら、雄太は鉄男を見送った。

「神様、どうか…二人が無事でありますように…」

鉄男の姿が見えなくなると、雄太は胸の前で指を組み、自分だけの神様に必死にお祈りを捧げるのだった。


解けかかってはいるものの手付かずの森の小道は、まだまだ雪深かった。

その中を漕いで行くように一歩一歩踏みしめながら歩く玉子は、自分でもどこへ向かおうとしているのかわからなかった。

ただただ逃げたい一心だった。

鉄男から逃げたい。

どうしてそんなことを思っているのか、自分でも心の収拾がつかないままだった。

一つだけわかっていることは、あの女の人が鉄男の正式な彼女であり、大切な人なのだ。ということであり、それはつまりたまたま偶然上手く転がり込んだ自分は、邪魔者だということ。

今の玉子の脳内にはそれしかなかった。

「お~い!玉子ちゃぁ~ん!…待ってぇ!戻っておいでぇ~!…そっち、危ないからぁ~!」

後ろから追いついてきた鉄男の声が微かに聞こえた。

「駄目ぇ~!駄目なのぉ~!駄目なのぉ~!」

玉子はそれしか返せなかった。

「いいからぁ~!玉子ちゃぁ~ん!戻っておいでぇ~!」

それでも聞こえる鉄男の声に、玉子は振り向きながら「駄目ぇ~!来ないでぇ~!」と叫んだかと思った瞬間、足元の雪がいきなり崩れ落ちた。

きゃああああああ~!

「あっ!玉子ちゃんっ!」

今の今まで見えていた玉子の姿が消えると、鉄男は慌てて駆け出した。

玉子が消えた辺りまで行くと、そこには大きな穴がぽっかり空いており、下を流れる用水路の端を必死に掴んでいる玉子の姿があった。

「玉子ちゃんっ!大丈夫かっ!今、助けるから…もうちょっと我慢してっ!」

鉄男は解けて粗い氷の粒になっている雪がそれ以上崩れないように、慎重に玉子が落ちた用水路までの急斜面を降りると、玉子の手が掴めそうな辺りでしっかりと雪を踏みしめ足場を固めた。

「いいかい?玉子ちゃん…ゆっくり…ゆっくり俺の手を掴むんだよ…大丈夫…大丈夫だから…ねっ…俺を信じて…いいかい?…ゆっくりゆっくり…」

用水路は雪解け水のせいで普段よりも勢いを増しており、また水嵩も相当なものだった。

「てっ…鉄男さん…」

「いいよ…ゆっくりゆっくり…」

鉄男の温かい手にがっちり掴まれると、玉子はそのままゆっくり静かに引き上げられた。

履いていた玉子のお気に入りの長靴の片方は、残念ながら用水路に流されて行ってしまった。

「玉子ちゃん!大丈夫かい?怪我は?」

安全な場所まで玉子を抱き上げると、鉄男はそのまま雪の上に仰向けになりながら、玉子をぎゅっと強く抱きしめた。

「てっ…鉄男さん…あたし…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」

解けた雪の斜面を滑り落ちて、中から顔を出した泥に塗れた玉子は、鉄男の胸の中で涙が止まらなかった。

「…玉子ちゃん、大丈夫だから…大丈夫…大丈夫…」

鉄男は玉子の無事がわかると、それだけで十分だと感じた。

これほどまでに自分にとって玉子という存在が大きくなっていたのを、鉄男は改めて感じ取っていたのだった。

少し落ち着くと、玉子の長靴がないことに二人ともようやく気がついた。

「…さっ、玉子ちゃん…」

鉄男はそう言うと、しゃがんで背中を見せた。

「あたし…重たいから…いいよ…歩くから…大丈夫…」

玉子は鉄男の申し出をやんわり断るも、「いいから」と鉄男に腕を掴まれ、「じゃあ…お願いします…ごめんね、鉄男さん…」と今度はちゃんと鉄男の背中におんぶしてもらった。

「…重いでしょ?…ホントにごめんね、鉄男さん…あたし…あたし…」

「全然!玉子ちゃん、軽い軽い!ほ~ら!こんなことだって…」

玉子を背中におぶったまま、鉄男は軽やかにくるくると回って見せた。

「きゃあ…怖ぁい!きゃあ…」

「あはははは、大丈夫…あははは」

「きゃあ…鉄男さん…わかった…わかったから…お願い…もうやめてね…」

「そうかい?…そだ、玉子ちゃん、あの長靴残念だねぇ…」

「…うん…ごめんなさい…あたしがあんなとこに行かなかったら…」

「…それはさ、もう言いっこなし…ねっ?…そうじゃなくってさ…今度の日曜日にでも、新しいの買いに行こう!…好きな長靴買ってあげる!」

「えっ!いいの?…ありがと…嬉しい…」

「…だってさ、君が来てからまだ俺、何にも買ってあげてないから…」

「…そんな…いいのに…だって…あたしが勝手に押しかけたんだし…」

「そう言うこと言わない!ねっ!…それとさ…ちょっと付き合ってもらいたいところもあるんだぁ…いいかなぁ…」

「えっ、うん…わかった…そだ、雄太君も一緒だよねぇ…」

「えっ、あっ…う~ん…今回はぁ…雄太には留守番してもらうかなぁ…ちょっと大事な用事だから…」

「…えっ、そうなの?ふ~ん…わかったぁ…それはそうと…鉄男さん、寒くない?そろそろおぶってるのしんどくない?ごめんね…」

「大丈夫、大丈夫…これしきのことで、ダウンするほどやわじゃないよ…」

森を抜けると、そろそろ家が見えてきた。


「ただいまぁ~…」

「おかえりなさい!鉄男さん、玉子さん…無事でよかったぁ~…って、お二人ともどうしたんですかぁ?…どっか怪我とかしてないです?…」

家に戻るとエプロン姿の雄太が、心配そうに鉄男と玉子を出迎えてくれた。

「ああ~、そのままじゃ、ちょっとなんで、お二人そのままお風呂入っちゃってください!…風邪引いちゃうから…こっちはすっかり支度できてますから、安心しててください!あっ、玉子さん!…僕ね、ちゃんとドーナツ揚げれたんですよ!後で…味見して下さいね…あ~…そのままそのまま真っ直ぐ…」

頼もしい雄太に言われるまま、鉄男と玉子は風呂場に直行した。

雄太が来てからというもの、二人は風呂を共にすることがなかった為、こんな形ではあるものの久しぶりに二人で入る風呂に、お互い興奮を抑え切れなかった。

「いたたたた…沁みるぅ~…」

風呂場の明るさの中で泥汚れを落としてみると、さきほど用水路に落ちた際に出来た細かい傷や打撲の痕など、鉄男も玉子も怪我だらけだった。

「…玉子ちゃん…」

「…鉄男さん…」

見つめあうと、二人はお互いの体を優しく洗い、シャワーで流しながら抱き合ってキスをした。

高揚した気持ちを抑えきれず、そのまま次の段階に進もうかという矢先、風呂場の外から大きな声が聞こえた。

「鉄男さぁ~ん!玉子さぁ~ん!…すいませぇ~ん!…家の父と母が来たんで…お知らせしておきまぁ~す!」

どうやら雄太の両親が到着したらしかった。

鉄男と玉子の風呂の邪魔をしてはいけないと、雄太は気を遣って台所から大きな声を出していた。

「はぁ~い!今あがりまぁ~す!」

玉子がそう返すとすぐに、「続きはまだまだおあずけだねっ…じゃ、お先にぃ~!」と一人でとっとと上がってしまった。

ちぇっ!

鉄男はひとつ舌打ちをすると、「へいへい、わかりやんした…」と渋々風呂から上がったのだった。


「…おまたせしちゃって…」

玉子が自室から着替えてリビングに戻ると、そこに雄太達が待っていた。

「いいえぇ…それより、玉子ちゃん…大丈夫なの?顔、切り傷作ってぇ…痛いでしょぉ?…どれ、ちょっと見せて?…女の子なんだから、顔に傷できたら大変…手当てしてあげるから…」

退院したばかりの正美はまるで母のように、玉子の心配をした。

「ありがとうございます…でも、そんな大した傷じゃないんで…」

顔の前で手を振って話す玉子の手は、細かい傷と青あざで痛々しかった。

「…遠慮しないで…大丈夫!痛くしないから…」

正美の優しさに、玉子は甘えさせてもらうことになった。

「和兄、正美さん…すいません…折角退院祝いするって張り切ってたんだけど…こんなことになっちゃってて…」

「なんも、気にすんなって…それより、すまねぇなぁ、鉄男ぉ…こんなにしてもらっちゃって…そうそう、俺らもさ、ちょっとだけど持って来たから…」

和夫と正美はこちらへ向かう道中、気を利かせてケーキや寿司などを買ってきてくれたのだった。

「なんかわりぃ…俺らも結構用意したんだけど…そだっ!雄太!…あれ、見せたか?…」

鉄男はふと思い出し、雄太を呼んで尋ねた。

「まだなんだけど…今、持ってくね…そだ、みんな席についてよ…母さんの退院祝いやろう!やろう!」

「そだな、そうすっか…和兄と正美さん、こっちに座って座って…雄太、玉子ちゃん?もう大丈夫?…どんどん持って来よう!ねっ!」

雄太と鉄男の号令で食卓テーブルに納まりきらないほど、沢山のご馳走が並んだ。

「…ごめんね、雄太君…続き全部作ってくれたんだぁ~!すごぉ~い!ありがとう!…なんかごめんねぇ~!」

玉子は作りがけだった料理が雄太の手によって、全て完成されていたことに感謝した。

「いえ…そんな…大したことしてないですから…玉子さんが手順とか教えてくれてたから…その通りにやっただけですから…」

雄太は玉子に褒められ、心底照れた。

「じゃっ、始めますか?…正美さん退院おめでとうございまぁ~す!かんぱ~い!」

鉄男の音頭でパーティーが始まった。


わいわいと笑顔で会が進む中、玉子は先ほど訪ねて来ていた女が気になった。

隣で並んだご馳走を食べていた鉄男に、こっそりと聞いてみた。

「…ねぇ、鉄男さん…さっきの人は?どしたの?…」

鉄男は玉子の問いかけに一瞬顔を歪ませたかと思うと、すぐさま「追い返した」と真顔で答えた。

「えっ?そんなぁ…それじゃ可哀想だよぉ!」

大きな声の玉子に一同、急に静かになると、一斉に玉子に視線が集まった。

「…ああ、だって…別にいいんだ…あんなやつ…もうどうだって…いいんだって…玉子ちゃんに関係ないからさっ…」

和夫たちが持ってきてくれた蛇口式になっている白ワインを手に、鉄男は投げやりな言い方でそう答えた。

「そんな…あの人…だって…鉄男さんの恋人なんでしょ?…」

「…ああ…いいの…もうとっくの昔の話だから…あんな女どうだって…」

「そんな…鉄男さん、そんな言い方って酷い…だって、一度でも好きになった人なんでしょ?だったら…」

「だったら、何?…あんな男作って、金持ち逃げして…そんな女…もうどうだって…酷いのはむしろあの女だから…玉子ちゃん、そこんとこ勘違いしないで…俺がさも悪いみたいに思ってるみたいだけどさ…悪いのはあいつだから…絶対に許せねぇ…なぁ、もうさ…やめよう…折角のパーチーなんだからさぁ…なぁ、和兄…ねぇ、正美さん、雄太ぁ…」

「…そう…なんだぁ…だけど…あたし…ちょっと心配だから見てくるっ!もしかしたら、まだその辺にいるかもしれないから…ごめんなさい…続けてて…ごめん…すぐ、戻るから…」

玉子はそれだけ言うと、玄関にかけてあった大判のストールを巻くと急いで外に飛び出して行った。

「…玉っ…玉子ちゃんっ…もう、勘弁してよぉ~…」

酔っ払いかけていた鉄男がふらつきながら立ち上がると、自分の席にかけてあった羊柄の半纏を羽織りよれよれと玉子の後を追った。

二人が外に出て行くと、雄太と和兄、正美の家族三人が取り残された。

「…大丈夫かしら?」

「…大丈夫、大丈夫…あの二人のことはさ、あの二人に任せて…さっ、俺達は俺達で久々の家族水入らずでさ…」

「…そだ、父さん、母さん…僕さ、二人にちょっと相談ってのか、話があるんだけど…今、いいかなぁ?」

雄太はほろ酔い加減の父と、ニコニコ笑顔の母に見つめられると、決心したことを言うのに少し躊躇ってしまった。

「…あっ、あのさ…僕ね…僕…留学…してみたいんだ…駄目だろうか?」

真っ直ぐな瞳で一生懸命自分の考えを話す息子に、父も母も驚きと同時に嬉しさがこみ上げて仕方がなかった。

「雄太!…お前…」

父がそう言い始めると、雄太は叱られるのではないかと思い、思わずギュッと目を閉じてしまった。

きつく閉じた暗闇の中で、雄太は大きな腕に抱きしめられるのと、髪を優しく撫でられるのを感じた。

そうっと目を開けると、父に抱きしめられていた。

頭を撫でてくれていたのは、目に涙をいっぱい溜めた母だった。

「エライなぁ…雄太…そっかぁ…ちゃんと、これからの自分のこと…お前なりに考えてたんだなぁ…そっかぁ…エライぞぉ、雄太ぁ…父さんなぁ、すごく嬉しい…そっかぁ…エライエライ!…なぁ、母さん…」

「そうねぇ、雄太…エライわぁ…ちゃんとちゃんと考えてたんじゃない?…雄太、いい子いい子!」

予想では絶対に反対するだろうと思っていただけに、想像もしていなかった父母の反応に、雄太は逆に驚かされてしまっていた。

そして、幼い頃以来、父に抱きしめられた覚えがなかった雄太は、少し照れくさいような感覚だった。

気づくと鼻水がじゅるじゅる。

雄太もまたいつの間にか涙を流していたのだった。


勢いだけで飛び出して来た玉子は、家の前の一本道路の左右をきょろきょろと見回した。

さっきまで自分たちがいたのは森の方だったが、そこにはあの女の姿はどこにもなかったことを思い出すと、玉子はバス停がある国道に向かって走った。

緩やかな坂道を下ると、山口さんの牧場の柵の辺りに人が立っているのが見えた。

急いで傍まで駆け寄ると、それはやはり先ほど訪ねて来た女だった。

「…あっ…あのぉ~…」

少し離れたところから玉子が声をかけると、女は気づいてこちらに振り向いた。

涙で化粧が崩れている顔のまま、女は玉子をジッと見てきた。

「…あっ…あのぉ~…あなた…鉄男さんの…彼女だったんですよねぇ…」

「何?なんか用?…」

「…あの…用って…あの…」

「何よっ!はっきり言いなさいよ!…」

「…あのっ…その…鉄男さんのこと…まだ…好き…なんですよねぇ…だから…わざわざここまで…来て…」

玉子の問いかけに、女は柵の向こうのそろそろ放牧され始めている牛達に向き直ると、そのまま静かに言葉を発した。

「…ううん…わかんない…」

「えっ?わかんないって…だって…じゃあ…なんで?…」

「わかんないんだけどさ…何だか急に来たくなったの…」

「…」

「…あんたさ、鉄男の今の彼女なんでしょ?…」

「…ええ、はい…」

「…良かったね…」

「…ええ、はい…」

「あいつさ、優しいし、いい男だよっ!…聞いてるかもしんないけど…あたしさ、あいつに酷いことしちゃったんだ…あん時はなんかさ、精一杯だったんだよね…なんかわかんないんだけど…で…さ…やっぱ、悪いことしたから、ちゃんと罰が当たったってのかさ…鉄男んとこから逃げてすぐ、違う男と暮らしたんだけどさ…そいつにもすぐ逃げられちゃって…鉄男んとこから盗んだ金も通帳も全部、持ってかれちゃった…そいつさ、最初から別に女いたみたいなんだ…で、あたしに目ぇつけたってのか…鉄男の金に目ぇつけたみたいでさぁ…騙されてたのが悔しくって…どうしても鉄男の金取り戻したくって…それで…逃げた男の組まで乗り込んだんだけどさ…返り討ちってのか、女ひとりで乗り込んだところで…何にもできないもんだねぇ…その後、ぼっこぼこにされてさ…で、風俗で働かされて…」

「…」

「…稼いだ金、ほとんど巻き上げられちゃったんだけど…ちょっとづつちょっとづつだけど…鉄男に返そうって思って、貯めたんだ…そんで…今は風俗から足洗って…ちゃんとまともなところで働けてるから…」

女はそこまで話すと肩にかけていた大きなバッグからよれよれの封筒を出して、玉子の傍まで来るとそれを両手でがっちり手渡した。

「えっ?…」

「…さっきは、あんな態度とってごめん…玄関に鉄男が出たら、すぐに渡そうって思ったんだけどさ…あんた、出てきたからちょっとムッとしちゃって…もう、新しい女できたんだって…そんなの、言える立場じゃないのにね…」

「…」

「それさ、鉄男に渡しといて…あたしから直接は無理みたい…ごめんね、頼むね…鉄男にさ、全然足りないけど、これで勘弁してって言っといてもらえる?」

瞬きをすると今にも目から大粒の涙が落ちてきそうな女の顔を見ると、玉子は黙ってこくんと頷くしか出来なかった。

「…あのっ…気をつけてぇ~…また、今度会えたら…」

玉子がそこまで言う間もなく、女は前を向いたまま玉子に背を向け手を振って、国道に続く道を早足で行ってしまった。

女の姿が小さくなるまで、そこに佇んで見送っている玉子の肩を後ろからゆっくりと歩いてきた鉄男がつついた。

「…たぁ~まこちゃん…」

振り向くと優しい笑顔の鉄男がそこにいた。

「…鉄男さん…これ…あの人が…全然足りないけど…これで勘弁してって…」

「…そっか…悦子…そんなこと言ってた…」

「…うん…」

「…そっか…」

「…あの人、悦子さん?…いい人だね…」

「…うん…そだな…」

「鉄男さんが好きになったの…ちょっとだけ、わかった…」

鉄男がこくんと頷くと、「戻ろっか…雄太君たち待たせちゃってるもんねぇ…」

玉子が気を取り直して元気よく鉄男と腕を組むと、二人並んで家までの緩い坂道を登っていった。

鉄男は玉子の隙を見て、さりげなく後ろを振り返った。

国道まで真っ直ぐ続く道の先に、豆粒ほどの人影が見えたような、見えなかったような。


戻ると雄太親子が仲良く談笑していた。

そして、見るとテーブルの上のご馳走がほとんど平らげられてしまっていた。

「あ~っ!ちょっといない間に…」

鉄男が愕然としていると、雄太が慌てたように台所に走った。

「あのぉ~…これ、僕が作ったんだぁ…みんなで食べましょう!」

鉄男と玉子が留守の間に、雄太はドーナツを上手に揚げていたのだった。

「…わぁ、これ、雄太がひとりで作ったのぉ~…すごいねぇ~!」

母の正美は感動でまた涙ぐんでいた。

ぱくっ!

「美味し~!すごい!雄太、すごいなぁ!」

父の和夫も口に入れると、感動でちょっぴり涙ぐんだ。

「えへへへ…でも、玉子さんに教えてもらわなかったら、僕だけでこんなには…」

照れる雄太に、「そんなことないって…雄太君、センスあるから…あたしなんて口出しただけだもん…それに途中でいなくなったし…」と玉子は先ほどまでの反省も踏まえて、申し訳なさそうにモジモジした。

「いんや…玉子ちゃんと雄太、どっちもいい子だからさ…」

鉄男の発言に雄太の父母は大きく頷き、玉子と雄太は激しく照れた。

楽しい会合は夜まで続いた。

「…はぁ~、今日は楽しかったねぇ…雄太君、良かったねぇ…」

リビングから出られるベランダで玉子は、鉄男を二人、夜空を眺めていた。

「…そだなぁ…それより、玉子ちゃん、寒くない?風邪ひかないでよ!頼むよぉ…また、前みたいに…」

「わかった、わかりました…そういう鉄男さんこそ、怪我させちゃってごめんなさい…大丈夫?」

「なんの、あれしき…だけど、よく助かったよ…玉子ちゃん、危なかったよ…雪解けで増水してたからさぁ…落ちてたら流されて死んでたよ、きっと…」

「…そっかぁ、そうだよねぇ…ごめんなさい…」

「いいよ、助かったんだからさぁ…それはそうと、雄太、明日和兄たちと家に戻るって…」

「えっ?そうなのっ?聞いてないけど…」

「そうなんだって…雄太さ、ここで暮らして色々考えたんだって…それで、玉子ちゃんに料理習ってさ、何となくそっち方面の勉強してみたいって思ったんだって…」

「へぇ、そうなんだぁ…エライねぇ…」

「なぁ~…で、留学したいって、自分から…そんで、早速帰って準備するって…」

「…そっかぁ、雄太君…留学しちゃうんだぁ…」

「…あっ、それはそうと、明日出かけようね…」

「えっ?あっ、うん…」

「楽しみだなぁ…」

ベランダの手すりに寄りかかりながら、細い眉毛のような月を眺めている鉄男の横顔が、自分の新しい長靴を買うだけなのに、どうしてそんなに嬉しそうなのか、玉子にはまるでわからなかった。


朝日がキラキラと眩しく照らす午前中、泊まっていった父母と一緒に雄太は自分の家に帰って行った。

来たばかりの頃と比べると、雄太の表情はだいぶ明るく、そして何よりも体が一回り大きくたくましくなった。

「またねぇ~!雄太く~ん!…」

「いつでも遊びに来いよぉ~!」

鉄男と玉子は見えなくなるまで車に手を振り続けた。

後部座席の雄太も、体をくねらせるように後ろを向くと精一杯二人に笑顔で手を振った。

「…じゃっ、俺達もそろそろ出かけよっか…」

「うん」

鉄男と玉子は初めてちゃんとしたデートに出かけた。

玉子は実家から送ってもらった服の中から、普段は着なくなってしまった可愛らしいワンピースを着た。

「わぁ、可愛い!玉子ちゃん、そんな可愛いの持ってたんだねぇ…」

鉄男は着飾った玉子をマジマジと眺めると、しみじみそう呟いた。

「だってぇ…普段着るには、ちょっと…邪魔だから…」

「そっか、それもそうだねぇ…」

「あっ、ねぇ、鉄男さん?今度ね、ミシン…使ってもいい?」

「えっ?ミシン?」

運転席の鉄男は前を向きながらそう答えるも、家にミシンなんかあったっけ?と内心思っていた。

「…うん、ミシン…この間ね、雄太君と納戸の片付けしてた時に見つけたの…足踏みの…」

「…あっ、ああ…はいはい…あれね…あれ、死んだ母さんが使ってたんだけど…今、使えるのかなぁ?…」

「あっ、それは大丈夫…実はね、ちょっと動かしてみたの…雄太君が油注してくれたら、すぐカタカタって…」

「そっかぁあ、いいけど…玉子ちゃん、何か縫うの?」

「うん…和夫さんと正美さんにね、実家に居た時作った巾着、すんごく褒めてもらっちゃって…それでね、今度和夫さんのお店にちょっと置いてみない?って…誘われちゃったの…」

「へぇ、そりゃすごいねぇ…」

「えへへへへぇ…あたしも少しか収入の足しになればって思って…」

「そっかぁ…玉子ちゃん、ありがとうね…」

「ううん…」

そんな会話を交わしながら到着した、大きな街の大きなショッピングモールの靴屋さんで、早速玉子の新しい長靴を購入すると、そのまま、鉄男は玉子を連れてある場所に向かった。

「うわぁ…」

驚く玉子と鉄男がやってきたのは、ショッピングモールに入っている有名どころの宝石店だった。

「?えっ?えっ?」

戸惑う玉子に顔を真っ赤にした鉄男がボソッと呟いた。

「…だってさ…玉子ちゃんの指のサイズ、俺わかんないからさ…」

「えっ?えっ?」

驚きすぎて「えっ?」しか言えなくなっている玉子の左手の薬指は、親切で丁寧で優しい女性店員に任せた。

「…どれがいい?…あんま、高いのは買ってあげられないけど…」

「…えっ?えっ?鉄男さん…」

「…玉子ちゃん、俺達結婚するからさぁ…その…指輪…大事だからさぁ…」

「…えっ?あっ?うん…そだね…って、いいのぉ?」

「いいの」

「ホントにいいのぉ?」

「だから、いいの…」

「…いやっ、鉄男さん…そうじゃなくって…」

「えっ?何っ?玉子ちゃん…」

「結婚するの、あたしでいいの?」

「うん、いいに決まってるじゃないかぁ…何言ってんの?今更ぁ…来週の金曜日、大安だから…俺達の結婚式するんだよぉ~…って、言っちゃった…」

「えっ?来週?金曜日?…」

しばらくの沈黙の後、「えええええええ~っ!」

玉子の声が店内いっぱいに響いた。

その時、たまたま傍にいた年配のご夫婦が笑顔で拍手をし始めた。

「おめでとう!」

パチパチパチパチ!

それにつられてお店中の人達が全員、鉄男と玉子をお祝いしてくれた。

そのうちの一人がいきなり、店内でたまたま流れていた歌を歌い始めると、そこにいた全員が大合唱。

その曲は結婚式の定番で、誰もが知って歌える曲だった。

新品の長靴が入った靴屋の袋を持った鉄男と、驚くばかりの玉子は見知らぬ人達の温かい祝福に激しく照れて、360度ぐるぐると回りながら二人揃って何度も礼をしたのだった。


玉子は、小さなダイヤモンドが真ん中にくっついた指輪を買ってもらった。

生まれて初めて、父以外の男性からいただいたプレゼントが、それだった。

帰りの車中、玉子は早速指にはめた指輪を愛しそうに眺めては、ニヤニヤが止まらなかった。

「ありがとう、鉄男さん…」

「いいえ、こちらこそ…玉子ちゃん…」

家に到着すると、鉄男は玉子と家から見える景色を眺めた。

綺麗な夕日が辺りをより一層美しく見せているのがわかった。

「…雪、だいぶ少なくなっちゃったね…」

「そだね…ここで、玉子ちゃんと出会ったんだったっけね…」

「…うん、新雪にばふってしたくって…あたし、ここまで来たんだった…」

「…あの日、来てくれなかったら、こうして会うこともなかったんだね…」

「…そっかぁ、そだねぇ…なんか不思議…」

「うん、そだなぁ…俺さ、玉子ちゃん、ホントにあざらしじゃないかって思ってたりしてさ…」

「ええ~っ!そうなのぉ~!ええ~っ!鉄男さぁ~ん…それ、あんまりじゃない?」

「あはははは、ごめんごめん…」

鉄男は笑いながら自分の胸をとんとんと叩く玉子をふんわりと抱きしめた。

ふざけていた玉子は急に真顔に戻ると、真っ直ぐに鉄男を見つめた。

「鉄男さん…」

「玉子ちゃん、改めて言うね…僕と結婚してください!」

少しうつむき目を閉じた鉄男に軽くキスをすると、玉子は元気いっぱい「はい!こちらこそ…ふちゅつ…あれ?ふちゅ…違った…ふちゅつ…ふつちゅ…」

「あははははは」

何度も「不束者」がすんなり言えない玉子を、鉄男は愛しいと思った。

玉子はどうしてもちゃんと「不束者ですが、こちらこそ宜しくお願い致します。」と言いたかった。


次の週の金曜日、玉子は母がこっそり用意してくれていた、手作りのウエディングドレスを身に纏うと可愛らしい花嫁となった。

鉄男は玉子のあまりの可愛らしさに、借り物のタキシードをちょぴり鼻血で汚してしまった。

身内だけのほんわかした式は、春らしい陽気に包まれていた。

最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。

稚拙でわかりにくい部分も多いことと思いますが、どうぞ温かい目で見守ってください。

くどいようですが、他の作品同様によろしくお願い致します。

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