01
寒々とした月の青光が、静寂に包まれた草原の街道を冷たく照らしていた。
季節は冬。ヴェールでは、野宿するにもそろそろ冷え込みが厳しくなってきた時期だった。
その日は骨まで凍りつくような寒さで、街道沿いで行き倒れたのか。
道すがらの草叢には、息絶えた乞食が行き倒れたがままに打ち捨てられていた。
歩き続けた街道の先に、木造で出来たうらぶれた家屋がぼんやりと浮かび上がる。
闇夜に浮かび上がった建物のうちでは、火が焚かれているのだろうか。
扉の隙間からは、微かな明かりが漏れて地面に奇怪な影を踊らせていた。
暖炉の傍らで椅子を温めていた主人が、扉を開けて入ってきた黒い影に不満そうに顔を歪めた。
それは女だった。
薄汚れた躰、擦り切れた衣服、襤褸のような薄いマント。草臥れたサンダル。
到底、上客には見えない。
顔立ちは整っているようにも見えるが、汚れた顔ではよく分からない。
主人が億劫そうと立ち上がると、体重に耐えかねた椅子がみしみしと嫌な音を立てた。
床を軋ませながら客に近づき、分厚い掌を突き出す。
「寝台なら真鍮銭一枚。雑魚寝ならザルバ貨か、ラウ貨幣で三枚だ」
唸るようなだみ声。個室や大部屋の事は切り出さない。
主人の吹っかけてきた途方もない値に、女は思わず鼻で笑った。
「値上げしたのかい? 前は雑魚寝なら一枚だったろう」
声は意外と若い。穏やかだが、自信有りげな言葉に主人は女の顔を訝しげに見つめた。
エルフの血を引いてるのか。女はくすんだ緑髪をしていた。
見覚えはない。ハッタリかもしれないが、少なくとも相場は知ってるようだ。
「毛布の貸し賃だ」
顔を歪めながらさらに硬貨を催促する親父のだみ声は、豚のいびきを連想させて女は僅かに微笑んだ。
この親父は何となく二足歩行した豚に見えなくもない。
「毛布はいらないよ。マントに包まるから。ラウ貨幣一枚でいいかい?」
「じゃあ、ザルバ貨で一枚。ラウなら二枚だ」
「空いてる床に眠るだけだ」
なだめるような口調で女は交渉する。
「床で雑魚寝する人数が一人増えても損にはならんし、まけてくれれば、また来た時にきっと此の宿屋を使わせてもらうよ。それに貧しい旅人に慈悲を掛ければ、神々もきっとあんたの行いに心打たれるに違いない。だが、此処で哀れな女に吹っかけるような真似をするなら……」
主は喉の奥から唸り声を発して女の長広舌を遮った。
「女め。よく口の廻る」
だが、確かに女の云う事も一理ある。
一番近くの旅籠まで1ロル(1.5キロ)はあるとは云え、他所に行かれたら一文にもならないし、床の場所を貸すだけだ。
「ラウ一枚だ。さっさと寄越せ」
「有り難う」
女はにこやかに礼を言いながら、懐から布の巾着を取り出して中をまさぐった。
ろくに中身が入ってないであろう薄い巾着からラウと呼ばれる小銭を取り出すと宿の主人に手渡した。
乱暴に引っ手繰った鉛の小銭を腰のベルトに結んだ革製の巾着に入れると、主人は暖炉の傍らにある椅子に戻って、再び船を漕ぎ始めた。
女は薄暗い室内を見回した。弱々しい炎の灯った暖炉だけが四方の壁を微かに照らしている。
隙間風に吹かれる度に揺れる暖炉の炎の照り返しが、薄闇に藁の転がる床の様子を浮かび上がらせた。
それほど広くない部屋に、放浪者や貧しい巡礼、自由労働者、乞食など、およそ社会の底辺を構成する連中が雑魚寝している。
中にはちらほらとゴブリンやドワーフ、ウッドインプなど人族以外の亜人の姿も窺えた。
大半が死んだように眠る中、数人がギラギラとした白い眼で新参の女の様子を伺っていた。
卑しい顔つき、値踏みする目付きから、金と持ち物を奪う。或いは女自身を捕まえて犯すもよし、女衒に売り飛ばすものいいなどと考えているのだろう。
今の世の中、下衆な手合いは何処にでもいる。
警戒しながら、されどそれほど気にすることなく、寝るのに都合良さそうな位置を探そうとする。
辿り着いた時間が遅かったが為、既に暖炉の傍は少しでも暖を取ろうと身を寄せ合う先客たちに占められていた。
暖炉の真正面は杖や棍棒、短剣をベルトに挟んだ薄汚れた三人組の男女が陣取っていた。
その横、顔に刀傷のあるウッドインプに屈強のドウォーフが涎を垂らして寝息を立てていた。
やや離れた位置には、自由労働者だろうか。茶の皮服を着込んだホビットの娘。
くしゃみをかますと大きく身震いして、薄いマントを体に巻きつけてむにゃむにゃ呟きながら再び穏やかな寝息を立て始める。
熾き火から離れ、冷たい風が吹き抜けていく部屋の中央では、貧しげな巡礼の母子連れが抱き合って寒さに震えていた。
暖炉の傍に今から割り込める隙間はないし、起こせば嫌な顔もされるだろう。
そして崩れかけた壁からは冷たい隙間風が間断なく吹き付けてくるが、それでも今の季節。
野宿や路傍に身を休めるのに比べれば、屋根があるだけ遥かにましだと割り切れる。
見知らぬ他人と身を寄せ合えば、物を盗まれ、或いは犯そうと試みるやもしれない。
厄介事を自ら呼び込むことはないと、出来るだけ人の少ない処を探しながら、
部屋の奥に視線を彷徨わせて丁度空いている箇所を見つけた。
皆、出来るだけ暖かな炎の近くがいいのだろう。
暖炉に相対した部屋の反対側は人気も少ない。
元は何色だったのかも分からないほど染みで汚れた漆喰の壁際には、木製の簡素な寝台が幾つか雑多に並んでいた。
中には足が壊れて斜めに歪んでいる寝台も置いてあった。
一番奥の簡易寝台の傍らは、近くに殆ど人もおらず寝転べるくらいの隙間が空いている。
暖炉から離れた位置ではあるが、同時に扉の隙間風からも遠い。
寝るにはいい位置に思えて、鼾を掻いているみすぼらしい老ゴブリンの上を跨いで寝台に近づく。
「……う、ううん」
起きてしまったゴブリンが驚いたように身じろぎした。
文句を言いたげに睨んでくるのを無視して、寝台に近寄き、息を呑んで立ち止まった。
物影に、剣を抱きながら壁に寄り掛かるようにして身を休めている人影があった。
得物は剣。紛れもない剣だった。
どんな鈍らな剣でも、最低でも銀貨の5枚から8枚はする。
こんな汚い安宿に泊まるような人間が普通、持っていていいものではない。
金属が未だ稀少な時代。そして鍛冶の技を修めた者が未だ少ない土地。
剣と言うのは、取り分け高価で特別な武器だ。
槍や弓のように狩りに使う用途があったり、槌や殻竿のように本来違う使い方をされる為の武具とは違って、純粋に人を殺し、それ以外に使い道がない、戦う為だけに創られた純粋の武具。槍や鎌よりも良い鉄を多く使い、鍛えるのに手間隙の掛かる剣は、身分ある者が使うのが普通でもある。
故に人々は、剣にはある種の神聖で特別な力が宿っていると感じていた。
剣が象徴する闘争と殺戮の力に対する恐れと畏れが、剣を特別視させているのかも知れない。
いずれにしても長剣は危険な武器だ。
しかるべき使い手が振るえば、あっという間に人一人の命を奪う事が出来る。
まるで魔法のように命を奪う。その脅威は短剣や棍棒の比ではない。
背筋を毛の逆立つような冷たい感覚が走りぬけた。女は腰から棍棒を吊るしていた。
手頃な大きさの樫の棍棒で、上腕よりやや長く、杖にするにはやや短い。
重さも形もよく女の手に馴染んでいる。此れでコボルドの頭を叩き潰した事もあった。
使い慣れた武器のはずだったが、今は其れが酷く心もとなく感じられた。
自分をあっさり殺せる武器を持つ見知らぬ者の傍らで眠るのは気が進まない。
別の場所に行こうか。だが、他に場所もなさそうだ。
剣の使い手を怒らせたり、或いは絡まれるのは厄介だから、と、室内に視線を走らせて思案するうちに、黒い影がもぞりと動いた。
「上手く値切るな」
話しかけてきた。
笑いを含んだ呼びかけは、微かに掠れていたが紛れもない女の声だった。
宿屋に灯る明かりは暖炉の僅かな炎だけであり、薄暗い室内に人相は良く見えなかった。
「聞いてたのかい?」
肩を竦めながら、
「値切ったというよりは、相場で落ち着いたって処かな」
「あれが相場なら、あの親父め。私から随分とぼったくってくれたのだな」
壁際に雑然と並べられた寝台を借りるには、最低でも錫貨一枚は必要だが、食堂の床に雑魚寝するならば、大抵は鉛の小銭で事足りる。
其れが相場というものであったが、皮肉っぽい声で呟いた女剣士はどうやらろくに宿代を値切りもせずにそのまま支払ったらしい。
「随分と吹っかけられたと思ったら……前の客が鴨葱だったから二匹目の泥鰌を狙われたのかな」
呟きながら、足元の半分腐ったような藁を足で遠くにどかして、埃っぽい床に座り込んだ。
剣士の様子を横目で観察しながら、素性を推察する。
赤く染めた目の細かい上物の上衣。灰色狼の毛皮のマント。
些か旅塵に塗れているとは言え、紛れもなく丁寧な仕立ての装束が良く似合っている。
低く見積もっても郷士。値切る事が下手だから豪族や騎士、下級貴族の出でも不思議ではない。
「あんたは余りこういう宿に泊まる人種に見えない。……普段はもっといい宿に泊まってるんじゃないのか?」
「他人の懐が気になるかね?」
くつくつと笑いながら此方を見つめる剣士の目は、だが笑っていない。
此方を警戒するように微かに細められた瞳からは、冷たい光が窺えた。
こいつは頭がいい。しかも嫌味で意地も悪いな。正真正銘の貴族だとしても不思議じゃない。
貧乏人の貴族階級への偏見を全開にして決め付けながら
「……場違いだよ。いい身なりをしてこんな安宿に泊まるなんて、余り感心できない」
「然り。だが、些か手持ちも乏しくなってきた故にな。止むを得なかった。とは言え、それでぼられていては本末転倒なのだが……」
呟いて肩を竦めると、女剣士はもう此方への興味を失ったのか。話し掛けて来なかった。
荷物を枕に横になって目を閉じる。
此方の近づいた気配に気づいて起きたらしい。
いや、主人との会話を聞いていたという事は扉を開けた時に目覚めたのか。
気配に敏感なようだし、用心深いのは間違いなかった。
半エルフの娘に害がないようだと確かめて、再び眠りに付いたのだろう。
剣を抱いたまま眠る剣士の姿勢は、ひどく様になっているのが見て取れた。
長剣が躰の一部のように馴染んでる雰囲気とでも云えばいいか。
放浪の騎士かな。……如何でもいい事か。
女も剣士の素性への興味を失った。
寒さをやり過ごそうと薄いマントに包まると、堅い床へと寝転んで目を瞑った。
長旅に疲れた体は、すぐに泥のように深い眠りへと入り込んでいく。
「……空気が湿ってる。明日は降りそうだな」
意識が闇に落ちる直前、薄暗い室内で誰かがそう呟いた。