婚約破棄され夏の夜に捨てられた悪役令嬢のわたしを、冷徹な辺境伯様が拾ってくれた。ただ一つ——わたしを嗤ったあの人たちが消えた夜から、空には毎晩、花火が上がるのです
「セシリア・ローウェル。貴様との婚約を、破棄する」
真夏の夜会で、王太子殿下は、そう言い放った。
大広間に、どよめきが走る。
殿下の隣で、涙ぐんでみせる令嬢の姿が、目に入った。
わたしが彼女を、階段から突き落とそうとした——それが、わたしにかけられた罪だった。
「殿下。それは、誤解でございます。わたしは、そのような……」
「見苦しい。証人も、証拠もあるのだ」
弁明は、ひとことも、聞き入れられなかった。
証人として立った使用人も、証拠として掲げられた手紙も、すべて、偽りだった。
けれど、それを暴く時間も、味方も、わたしにはなかった。
罪を着せられた相手の令嬢は、皮肉にも、いつも、わたしが庇っていた娘だった。
夜会でいつもひとり、隅に立っていた彼女に、わたしが声をかけ、輪に入れてやっていたのだ。
その彼女が今、殿下の腕に縋って、わたしを指さし、涙を流している。
「ひどい……! セシリア様は、いつも、陰でわたしを……」
嘘だ、と、叫びたかった。
けれど、殿下の目は、とうにわたしから、その娘へと移っていて。
わたしの居場所は、もう、この城のどこにも、なかった。
その夜のうちに、わたしは薄いドレス一枚で、城の裏門から、追い立てられた。
真夏だというのに、夜の風は、冷たかった。
行く当てなど、あるはずもない。
わたしは、街道の端に蹲って、ただ、震えていた。
夜が、更けていく。
このまま、朝が来る前に、消えてしまうのかもしれない。
そう思ったとき、不思議と、涙は止まっていた。
——もう、誰にも、要らないと言われずに済むのなら。
それも、悪くないのかもしれない、と。
そんなことを、ぼんやり考えていた、そのとき。
——だから、その人が目の前に立ったとき、わたしは、幻を見ているのだと思った。
「——こんなところに、いたのか」
低く、静かな声だった。
見上げると、夜目にも際立つ、濡れ羽色の髪。
冷徹と恐れられる辺境伯、アイザック・グレイ様だと、わたしはあとから知った。
「お前が、セシリア・ローウェルだな」
「は、はい……。あの、どうして、わたしの名を」
「探していた」
彼は、それだけ言って、纏っていた外套を、わたしの肩に掛けた。
「もう、大丈夫だ。君を傷つけるものは、もう、何もない」
その声が、あんまり静かで、あんまり優しかったから。
わたしは、こらえていた涙を、ぽろぽろと、こぼしてしまった。
「立てるか。……いや、いい」
アイザック様は、わたしの返事を待たずに、わたしを横抱きに抱え上げた。
「あ、あの、自分で……」
「駄目だ。君は、凍えている」
その腕は、岩みたいに硬くて、けれど、どこまでも、あたたかかった。
「なぜ、わたしなんかを、助けてくださるのですか」
「……理由は、いらないだろう」
彼は、前を見据えたまま、短く答えた。
「困っている君が、目の前にいる。それで、じゅうぶんだ」
* * *
辺境伯家での日々は、驚くほど、甘かった。
冷徹だという噂が、嘘みたいに。
アイザック様は、わたしを、壊れ物みたいに甘やかしてくれた。
「痛かっただろう。……こんなに、細い手首に、縄の跡まで」
彼は、わたしの手首の痣に、そっと唇を寄せた。
「もう、誰にも、こんなことはさせない。……約束するよ」
彼は、わたしが少しでも塞ぎ込むと、すぐに気づいて、そばに来た。
「どうした。……また、あの夜のことを、思い出したか」
「いえ。……ただ、少し、信じられなくて。こんな穏やかな日々が、わたしなんかに、あるなんて」
「あるさ。これからは、ずっとだ」
彼は、わたしの頬を、大きな手で包んだ。
「二度と、君に、あんな顔はさせない。……絶対に」
その声が、あんまり真剣で。
わたしは、泣きそうになりながら、頷いた。
朝は、わたしの好きな果実の水菓子。
昼は、風の通る部屋で、他愛のない話を。
夜は、眠るまで、静かにそばにいてくれる。
こんな幸せが、あっていいのだろうか。
理不尽に、すべてを奪われたはずの、わたしなんかに。
——そして、その夜から。
夏の夜空に、毎晩、花火が上がるようになった。
初めてそれを見たのは、拾われた翌日の夜だった。
どおん、と、遠くで音がして。
夜空に、大輪の光が、ひとつ、咲いた。
「まあ……! 花火」
「気に入った?」
いつのまにか隣に来ていたアイザック様が、わたしの肩を抱いた。
「綺麗ですね。何かの、お祝いですか」
「ああ。……君の、門出を祝う花火だよ」
「わたしの?」
「そう。君が、この家に来てくれた。……それ以上の、めでたいことが、あるかな」
彼は、そう言って、静かに微笑んだ。
「アイザック様は、花火が、お好きなのですか」
「昔は、そうでもなかった」
彼は、夜空を見上げたまま、ぽつりと言った。
「でも、今は……好きだよ。ひとつ空に上がるたびに、君のまわりが、少しずつ、綺麗になっていく気がするからね」
「わたしの、まわり?」
「ああ。……余計なものが、ひとつずつ、消えていく」
不思議な言い方だと思った。
でも、そう言って微笑む彼が、あんまり穏やかだったから。
わたしは、それ以上、深くは考えなかった。
その横顔を、夜空の光が、赤く、青く、照らしていた。
* * *
花火は、それきりでは、なかった。
次の夜も、その次の夜も。
夏の夜空には、決まって、花火が上がった。
一発、また一発。
まるで、何かを、ひとつずつ、数えるみたいに。
「アイザック様。毎晩、こんなに花火を上げて……もったいなくは、ないのですか」
「ちっとも。君が、喜んでくれるならね」
彼は、テラスの椅子から、じっと夜空を見上げていた。
その目は、花火の美しさを、見ているようで。
どこか、別のものを、見ているようでもあった。
「……今夜は、ひとつだけ、だな」
ぽつり、と、彼が呟いた。
「今夜は、ひとりぶん、しか」
「ひとりぶん?」
「いや。……こちらの話だよ」
彼は、わたしの髪を撫でて、話をそらした。
——ただ、不思議なことが、あった。
花火が上がった、その翌朝には。
決まって、奇妙な報せが、届くのだ。
「奥様。……その、王都から、報せが」
ある朝、青ざめた侍女が、そう告げた。
「わたしを断罪した、あの夜会にいた、殿下の側近の方が……ある晩、忽然と、姿を消したそうです」
わたしは、言葉を失った。
その側近は、わたしを陥れた偽の証拠を、揃えた張本人だった。
* * *
奇妙な失踪は、それから、続いた。
わたしに階段から突き落とされたと偽証した、あの令嬢。
わたしに罪を着せる手紙を書いた、あの使用人。
夜会でわたしを嘲笑った、取り巻きの令息たち。
ひとり、また、ひとり。
夏の夜に溶けるように、この世から、姿を消していった。
そして、そのどれもが。
前の夜に、花火が上がった、翌朝のことだった。
その頃、辺境の屋敷を訪ねてきた老貴族が、お茶の席で、こう漏らした。
「いやはや、王都は、えらい騒ぎですぞ。あなたを断罪した方々が、次々と、神隠しにでも遭ったように、消えておられる」
「神隠し、ですか」
「ええ。まるで、誰かが、あなたの無念を、晴らして回っているようだと。……もっぱらの、噂でしてな」
わたしは、なんと答えていいか、分からなかった。
正直に言えば——胸の奥が、少しだけ、すっとした。
もう二度と、あの人たちに、嗤われずに済むのだと思うと。
そんな自分に、ほんの少し、うしろめたくなりながら。
「アイザック様。あの、最近、妙な報せばかりが、届くのです」
わたしは、思いきって、尋ねてみた。
「わたしを、苦しめた方々が、みんな……いなくなってしまうなんて」
アイザック様は、ティーカップを傾けたまま、少しも動じなかった。
「気にしなくていい」
そして、いつもの穏やかな声で、言った。
「悪いことをした人間には、相応の報いがある。……それだけのことだよ」
「でも、こんなに続くなんて、まるで……」
「セシリア」
彼は、カップを置いて、わたしの手を、両手で包んだ。
「君は、ただ、幸せに笑っていればいい。……あとは、全部、僕がやるから」
その手が、あんまり温かくて。
わたしは、それ以上、何も言えなくなってしまった。
きっと、偶然なのだ。
きっと、悪いことをした人には、天罰が下るのだ。
そう思うことにして、わたしは、微笑んだ。
けれど、その夜。
眠る前に、わたしは、ふと、思ってしまった。
花火が上がった、次の朝。
決まって、誰かが、消える。
まるで——空に咲いた花火の数だけ、誰かが、この世から、いなくなっているみたいに。
そこまで考えて、わたしは、慌てて、首を振った。
いけない。
こんなに優しいアイザック様を、疑うだなんて。
あれはきっと、ただの偶然。
美しい夏の花火と、悪事の報いが、たまたま、重なっているだけ。
そう思い込んで、わたしは、固く、目を閉じた。
* * *
その夜の花火は、いつもと、違っていた。
どおん、と、腹に響くほどの、大きな音。
夜空いっぱいに、ひときわ大きな、真っ赤な花火が、咲いた。
血のように、鮮やかな、赤。
その赤は、なぜだか、見ていると、胸の奥が、ざわつくような色だった。
こんなにも美しいのに、どこか、痛いような。
けれど、隣に立つアイザック様の横顔は、いつになく、満ち足りていた。
長いあいだ探し続けた答えに、ようやく辿り着いた人みたいに。
「わあ……! 今夜のは、すごいですね」
「ああ」
アイザック様は、その赤い光を見上げて、静かに言った。
「今夜のは、特別なんだ」
「特別?」
「そう。……君に、いちばんひどいことをした人の、ぶんだからね」
わたしは、彼の横顔を見た。
赤い光に照らされたその瞳は、凪いだ湖みたいに、静かで。
けれど、その奥の奥に、燃えるような何かが、揺れている気がした。
「アイザック様……?」
「なんでもないよ」
彼は、わたしに向き直って、微笑んだ。
「ただ、これで、ようやく。君を傷つけたものは、全部、片付いた」
「片付いた……?」
「うん。もう、大丈夫。……君を泣かせるものは、この世に、ひとつも残っていないよ」
「アイザック様は……どうして、そこまで、してくださるのですか」
わたしが震える声で尋ねると、彼は、少しだけ、困ったように笑った。
「僕はね、セシリア。一度、守るべきものを、この手から、取りこぼしたことがあるんだ」
その銀灰の瞳が、ほんの一瞬、遠くを見て、すぐに、わたしへと戻ってきた。
「だから、決めたんだ。……今度こそ、君を傷つけるものは、ひとつ残らず、この手で消すと」
「消す……?」
「ああ。君が、なんの憂いもなく、笑っていられるように。ね」
その言葉の、本当の重さを。
わたしは、まだ、知らなかった。
彼の言葉の意味を、わたしは、深くは考えなかった。
ただ、彼の腕が、わたしをそっと抱き寄せて。
その胸が、あんまり、あたたかかったから。
わたしは、こわいくらいの幸せの中で、そっと、目を閉じた。
——翌朝。
王都から、大きな報せが、届いた。
わたしを断罪した、あの王太子殿下が。
失政と醜聞の数々を暴かれ、廃嫡された、という報せが。
わたしは、何も知らない。
あの美しい花火が、いったい、何を、夜空へ打ち上げていたのか。
ひとつ、またひとつ、この世から消えていった人たちが、最後に、どんな光になったのか。
——けれど、それでいいのだと思う。
だってわたしは、あの人の隣で。
夏の花火に見惚れながら、こわいくらいに、幸せなのだから。
* * *
夏の終わりに、わたしとアイザック様は、静かに式を挙げた。
理不尽に、すべてを失ったはずのわたしが。
今は、こんなにも、あたたかい場所にいる。
辺境の夏は、王都よりも、ずっと静かだった。
もう、わたしを嗤う声も、陥れようとする気配も、どこにも、ない。
「アイザック様。わたし、こんなに穏やかな夏は、生まれて初めてです」
「そう」
彼は、わたしの髪に、白い花を一輪、挿してくれた。
「これから先の夏も、ずっと、こうだよ。……僕が、そうすると決めたからね」
その約束が、どれほど深く、どれほど途方もないものか。
わたしは、知らないまま、ただ、幸せに、笑った。
「セシリア」
その夜、テラスで、アイザック様が、わたしに手を差し伸べた。
「おいで。今夜も、君のために、上げよう」
「ふふ。もう、わたしを苦しめる人は、いないのに?」
わたしがそう言うと、彼は、ほんの一瞬、目を細めた。
「そうだね。……なら、これからは、ただ、君が笑ってくれるためだけに、上げるよ」
その手を取って、わたしは、彼の隣に立った。
どおん、と。
夏の夜空に、大輪の花火が、咲く。
光が、少し遅れて、音になって、届く。
その音に紛れて——ずっと遠くで、誰かの、最後の声のようなものが。
ほんの、かすかに、聞こえた気がした。
けれど、それが何なのか、確かめる前に。
次の花火が、どおん、と、夜空を、明るく照らした。
「綺麗ですね、アイザック様」
「ああ。……君のほうが、ずっと綺麗だよ」
夏の夜。
花火の音に、すべてを溶かして。
わたしは、この人の隣で、いつまでも、幸せに笑っていた。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。蜜月 憂です。「夏の音」シリーズ、今作は花火。
悪役令嬢のセシリアを嗤った人たちが一人ずつ消えていく――その爽快さの裏で、あの花火が本当は何を打ち上げているのか。彼女は生涯知らないまま、夏の夜空に見惚れて、幸せに笑っています。
「ざまぁしてスッとして、そしてゾクッ」を楽しんでいただけたら嬉しいです。★やご感想が次を書く力に。




