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十年間ひとりで咲いていた庭の薔薇を、あなたははじめて美しいと言った――捨てられた令嬢と無口な公爵の、不器用すぎる恋の話  作者: 数庭 読み


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エピローグ「氷の公爵は、私の前でだけ饒舌になる(あるいは、愚か者たちの末路)」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 夏が来ようとしていた。


 北の館の夏は短い。でもその分、一日一日が濃い。朝の空気はまだ冷たいのに、日差しだけが真夏の顔をしている。


 今朝も薔薇は咲いていた。


 春に一斉に咲いてから、こまめに手を入れるたびに、次の花が次の花へと続いていった。今は深い赤と、少し前に株分けした淡いピンクが混ざって、庭が賑やかになっていた。


 去年の秋には、使用人のベルタが「私も育ててみたい」と言い出した。今では彼女の担当区画に、小さな白い薔薇が三株ある。


 この館が、好きだ。


 毎朝そう思う。毎朝、少し違う形で。


---


 「エリゼ」


 背後から声がした。


 振り返る前に、肩に重さがかかった。


 大きな手が、後ろから私の両肩をそっと包んだ。


 「……カイル様、仕事は」


 「もう少し後でいい」


 低い声が、耳の近くで言った。


 「マリンに言われました。最近、執務室に入るのが遅くなっていると」


 「マリンは余計なことを言う」


 「事実でしょう」


 小さな沈黙。


 「……否定はしない」


 肩の手が、少しだけ力を増した。


 私は薔薇に目を戻した。朝露がまだ残っている。ピンクの花びらに、光が滲んでいた。


 「綺麗でしょう」


 「ああ」


 「ピンクの方も、もうすぐ満開になりますよ」


 「……薔薇の話をしているのか」


 声が、少し低くなった。


 私は少し間を置いた。


 「……ちがうんですか」


 「君の話をしている」


 頬が、じわじわと熱くなった。


 結婚して半年経つのに、この人の言葉には今も慣れない。慣れたくない、という気持ちも、少しある。


 「誰にも見せたくない」


 ぽつりと、言った。


 「……また、そういうことを」


 「本心だ」


 「存じています」


 「わかっているなら」


 「わかっているからこそ、困っています」


 くっと、喉で笑う気配がした。


 この人が笑うのを、最初に聞いたのはいつだっただろう。最初は気のせいかと思った。今は、私だけが引き出せる笑い方だと、少し誇らしく思っている。


 「仕事、行ってください」


 「……わかった」


 肩の手が、ゆっくりと離れた。


 去り際に、一度だけ、髪に触れた。


 それだけだった。それだけで充分だった。


---


 午後、マリンさんがお茶を持ってきてくれた。


 窓際に並んで座って、林の緑を眺めながら飲む。これが最近の習慣だ。


 「王都からいろいろ話が入ってきましてね」


 マリンさんが、湯気の立つカップを両手で包みながら言った。


 「フォルスター家の話です。聞きますか」


 私は少し考えて「どうぞ」と答えた。


 「帳簿がひどいことになっているようで。ずっと誰も管理していなかったから、取引先との照合が全部狂っていたとか。先月、使用人を何人か手放したという話も聞きました」


 「……そうですか」


 「ヴィクター様とアメリア様のことも、耳に入ってきまして」


 マリンさんは少しだけ声を低くした。


 「どうもお二人の間が、あまりよくないようで。お互い、相手の使い方が荒いとかで揉めているとか。あの夜会以来、ヴィクター様はすっかり社交の場で肩身が狭くなってしまったらしいですし」


 窓の外を見た。


 林の梢が、夏の風に揺れていた。


 アメリアの顔を思い出した。「あなたのおかげで幸せになれた」と書いた手紙の、あの悪意のない残酷さを。


 ヴィクターの顔も思い出した。最後に会ったとき、カイル様の視線一つで足を止めた、あの顔を。


 胸に来るものが——なかった。


 波一つ立たなかった。


 「そうですか」


 私は言った。


 マリンさんがこちらを見た。


 「悔しくも、嬉しくもないんですか」


 少し考えた。


 「昔だったら、どちらかあったかもしれません」


 カップを両手で包んだ。温かかった。


 「でも今は、遠い話みたいな気がします」


 マリンさんは少しの間、私を見ていた。それから、ふふ、と小さく笑った。


 「よかった」


 「何がですか」


 「エリゼ様が、そういうお顔をしてくださるようになったのが」


 私は何も言わなかった。


 でも、カップの温かさが、胸の奥まで届く気がした。


---


 夕方、執務室から出てきたカイル様が、庭を歩く私を見つけた。


 「エリゼ」


 名前を呼ぶ声が、遠くから聞こえた。


 私は振り返って、歩いた。歩きながら、気づいたら早足になっていた。


 かつての私なら、誰かに向かって駆け寄るなんて、想像もしなかった。


 呼ばれても、どうせ用件だけだと思っていたから。


 でも今は違う。


 この人が呼ぶときは、用件じゃないことを知っている。ただ、顔が見たかっただけだということを。


 「お帰りなさいませ」


 「ただいま」


 短い言葉だった。


 でも、この言葉をこの人と交わすたびに、私は自分がここにいていいのだと思う。


---


 誰かに「いるだけでいい」と言ってほしかった。


 ずっとそれだけを、願ってきた。


 今は違う。


 いるだけでいい、なんてもう思わない。


 ここにいたい。この人の隣にいたい。この庭の薔薇を育てたい。マリンさんのお茶を飲みたい。ベルタの白い薔薇が咲くのを見たい。


 したいことが、増えた。


 それがどれほど当たり前のことか、昔の私には分からなかった。


 透明だった私が、あなたの目にだけは映っていた。


 あなたが見つけてくれたから、私は私を、見つけることができた。


 夏の夕暮れが、館を橙色に染めていた。


 薔薇の影が、長く伸びていた。


 カイル様が隣を歩いていた。


 今の私は——世界で一番、自分を好きでいられる。


 それだけで、もう、何も要らなかった。


                                     完

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


誰の目にも留まらず、ただ静かに咲いていた薔薇が、たった一人の「見つけてくれた人」によって色づいていく。そんな再生の物語を、北国の静謐な空気感と共に描きました。


透明だったエリゼが、自分を好きになれる場所を見つけるまでを見守っていただけて、作者としてこれほど嬉しいことはありません。


もしこの物語の温度が少しでも心に届きましたら、下にある**【☆☆☆☆☆】を評価(★★★★★)**に変えて応援していただけると、執筆の大きな励みになります。


カイル様視点の「初めて彼女を見つけた夜」や、二人のその後の甘い日常など、番外編のご要望があればぜひ感想欄でお聞かせください。

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