エピローグ「氷の公爵は、私の前でだけ饒舌になる(あるいは、愚か者たちの末路)」
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夏が来ようとしていた。
北の館の夏は短い。でもその分、一日一日が濃い。朝の空気はまだ冷たいのに、日差しだけが真夏の顔をしている。
今朝も薔薇は咲いていた。
春に一斉に咲いてから、こまめに手を入れるたびに、次の花が次の花へと続いていった。今は深い赤と、少し前に株分けした淡いピンクが混ざって、庭が賑やかになっていた。
去年の秋には、使用人のベルタが「私も育ててみたい」と言い出した。今では彼女の担当区画に、小さな白い薔薇が三株ある。
この館が、好きだ。
毎朝そう思う。毎朝、少し違う形で。
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「エリゼ」
背後から声がした。
振り返る前に、肩に重さがかかった。
大きな手が、後ろから私の両肩をそっと包んだ。
「……カイル様、仕事は」
「もう少し後でいい」
低い声が、耳の近くで言った。
「マリンに言われました。最近、執務室に入るのが遅くなっていると」
「マリンは余計なことを言う」
「事実でしょう」
小さな沈黙。
「……否定はしない」
肩の手が、少しだけ力を増した。
私は薔薇に目を戻した。朝露がまだ残っている。ピンクの花びらに、光が滲んでいた。
「綺麗でしょう」
「ああ」
「ピンクの方も、もうすぐ満開になりますよ」
「……薔薇の話をしているのか」
声が、少し低くなった。
私は少し間を置いた。
「……ちがうんですか」
「君の話をしている」
頬が、じわじわと熱くなった。
結婚して半年経つのに、この人の言葉には今も慣れない。慣れたくない、という気持ちも、少しある。
「誰にも見せたくない」
ぽつりと、言った。
「……また、そういうことを」
「本心だ」
「存じています」
「わかっているなら」
「わかっているからこそ、困っています」
くっと、喉で笑う気配がした。
この人が笑うのを、最初に聞いたのはいつだっただろう。最初は気のせいかと思った。今は、私だけが引き出せる笑い方だと、少し誇らしく思っている。
「仕事、行ってください」
「……わかった」
肩の手が、ゆっくりと離れた。
去り際に、一度だけ、髪に触れた。
それだけだった。それだけで充分だった。
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午後、マリンさんがお茶を持ってきてくれた。
窓際に並んで座って、林の緑を眺めながら飲む。これが最近の習慣だ。
「王都からいろいろ話が入ってきましてね」
マリンさんが、湯気の立つカップを両手で包みながら言った。
「フォルスター家の話です。聞きますか」
私は少し考えて「どうぞ」と答えた。
「帳簿がひどいことになっているようで。ずっと誰も管理していなかったから、取引先との照合が全部狂っていたとか。先月、使用人を何人か手放したという話も聞きました」
「……そうですか」
「ヴィクター様とアメリア様のことも、耳に入ってきまして」
マリンさんは少しだけ声を低くした。
「どうもお二人の間が、あまりよくないようで。お互い、相手の使い方が荒いとかで揉めているとか。あの夜会以来、ヴィクター様はすっかり社交の場で肩身が狭くなってしまったらしいですし」
窓の外を見た。
林の梢が、夏の風に揺れていた。
アメリアの顔を思い出した。「あなたのおかげで幸せになれた」と書いた手紙の、あの悪意のない残酷さを。
ヴィクターの顔も思い出した。最後に会ったとき、カイル様の視線一つで足を止めた、あの顔を。
胸に来るものが——なかった。
波一つ立たなかった。
「そうですか」
私は言った。
マリンさんがこちらを見た。
「悔しくも、嬉しくもないんですか」
少し考えた。
「昔だったら、どちらかあったかもしれません」
カップを両手で包んだ。温かかった。
「でも今は、遠い話みたいな気がします」
マリンさんは少しの間、私を見ていた。それから、ふふ、と小さく笑った。
「よかった」
「何がですか」
「エリゼ様が、そういうお顔をしてくださるようになったのが」
私は何も言わなかった。
でも、カップの温かさが、胸の奥まで届く気がした。
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夕方、執務室から出てきたカイル様が、庭を歩く私を見つけた。
「エリゼ」
名前を呼ぶ声が、遠くから聞こえた。
私は振り返って、歩いた。歩きながら、気づいたら早足になっていた。
かつての私なら、誰かに向かって駆け寄るなんて、想像もしなかった。
呼ばれても、どうせ用件だけだと思っていたから。
でも今は違う。
この人が呼ぶときは、用件じゃないことを知っている。ただ、顔が見たかっただけだということを。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
短い言葉だった。
でも、この言葉をこの人と交わすたびに、私は自分がここにいていいのだと思う。
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誰かに「いるだけでいい」と言ってほしかった。
ずっとそれだけを、願ってきた。
今は違う。
いるだけでいい、なんてもう思わない。
ここにいたい。この人の隣にいたい。この庭の薔薇を育てたい。マリンさんのお茶を飲みたい。ベルタの白い薔薇が咲くのを見たい。
したいことが、増えた。
それがどれほど当たり前のことか、昔の私には分からなかった。
透明だった私が、あなたの目にだけは映っていた。
あなたが見つけてくれたから、私は私を、見つけることができた。
夏の夕暮れが、館を橙色に染めていた。
薔薇の影が、長く伸びていた。
カイル様が隣を歩いていた。
今の私は——世界で一番、自分を好きでいられる。
それだけで、もう、何も要らなかった。
完
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
誰の目にも留まらず、ただ静かに咲いていた薔薇が、たった一人の「見つけてくれた人」によって色づいていく。そんな再生の物語を、北国の静謐な空気感と共に描きました。
透明だったエリゼが、自分を好きになれる場所を見つけるまでを見守っていただけて、作者としてこれほど嬉しいことはありません。
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カイル様視点の「初めて彼女を見つけた夜」や、二人のその後の甘い日常など、番外編のご要望があればぜひ感想欄でお聞かせください。




