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十年間ひとりで咲いていた庭の薔薇を、あなたははじめて美しいと言った――捨てられた令嬢と無口な公爵の、不器用すぎる恋の話  作者: 数庭 読み


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第5章「薔薇が全部咲いた朝に、あなたがいた」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 門をくぐった瞬間、空気が変わった。


 冷たくて、澄んでいて、骨のある風。


 王都の空気とは全然違う。甘くも華やかでもない。


 でも肺の奥まで入ってきて、ほっとした。


 ――ああ、帰ってきた。


 その感覚が、自分でも少し驚くくらい、自然だった。


---


 扉が開いた瞬間、マリンさんが飛び出してきた。


 「お帰りなさいませ!」


 その声が、玄関の石畳に響いた。


 後ろにベルタたちも並んでいた。みんな、笑っていた。


 「お帰りなさいませ、エリゼ様」


 「お帰りなさいませ」


 何人もの声が、重なった。


 私は一瞬、立ち止まった。


 帰る場所、というものを、よく知らなかった。


 実家のフォルスター邸に戻るとき、出迎えてくれる人はいなかった。使用人はいたけれど、誰も、こんな顔をしていなかった。


 「……ただいま戻りました」


 声が、少し掠れた。


 マリンさんが私の手を取って、ぎゅっと握った。


 何も言わなかった。でもその手の温かさが、全部言っていた。


---


 翌朝、早く目が覚めた。


 いつもより空が明るかった。


 何かが違う気がして、着替えもそこそこに庭へ向かった。


 角を曲がった瞬間、足が止まった。


 咲いていた。


 全部、咲いていた。


 昨日まで固い蕾だったはずの薔薇が、一晩のうちに一斉に花を開かせていた。数えきれないくらいの真っ赤な花が、朝の光の中でゆっくりと揺れていた。


 近づくと、甘い香りがした。


 北の館にこんな香りがあったのかと、初めて知った。


 朝露が花びらの上で光っていた。一粒一粒が、小さな鏡みたいに空を映していた。


 手を伸ばして、一番近くの花にそっと触れた。


 濡れた花びらが、ひんやりとして、柔らかかった。


 「……咲いたね」


 誰かに言うつもりはなかった。


 ただ、言わずにいられなかった。


---


 「ああ」


 後ろから声がした。


 振り返ると、カイル様が立っていた。


 いつもの外套。いつもの無表情。でも今日は、その目が少しだけ柔らかかった。


 「いつから」


 「君が来る前から、ここに立っていた」


 「……それは、薔薇を見ていたんですか」


 「見ていた」


 二人で並んで、薔薇の前に立った。


 しばらく、言葉がなかった。


 北の朝の風が通り過ぎて、花がいっせいに揺れた。赤い海みたいに、波打つように。


 こんなに咲くとは思わなかった。


 枯れそうだったのに。乱れ放題だったのに。


 手を入れれば、ちゃんと応えてくれた。


 それが、なんだかとても——この館みたいだと、思った。


---


 「カイル様」


 「何だ」


 「薔薇を見ていないですよ」


 気づいたら言っていた。


 彼の視線が、さっきからずっと薔薇の方を向いていなかった。


 カイル様は少し沈黙した。


 「……見ている」


 「薔薇を、ですか」


 また、沈黙。


 「そうじゃない方を」


 一瞬、言葉の意味を飲み込もうとして。


 飲み込んだ瞬間、耳まで熱くなった。


 カイル様は珍しく、少し困ったような顔をしていた。


 言ってしまったと思っているのか、それとも伝わらなかったと思っているのか。


 どちらにしても、あの無表情の人が困った顔をしているのが、おかしくて。


 可笑しくて。


 声が、出た。


 笑い声が、出た。


 自分でも驚いた。


 声を出して笑ったのが、いつぶりか分からなかった。


 カイル様がこちらを見た。目を、少し瞠って。


 「……すみません」


 笑いながら言ったから、全然すまなそうに聞こえなかったと思う。


 「謝らなくていい」


 彼は静かに言った。


 「その顔が、見たかった」


 笑い声が、止まった。


 止まって、でも、口元がまだ緩んでいた。


 胸の奥が、じんわりと温かかった。


---


 「エリゼ」


 「はい」


 カイル様は薔薇に向き直って、少し間を置いてから言った。


 「正式に、私の伴侶になってくれ」


 飾りのない言葉だった。


 前置きも、誓いの言葉も、気の利いた比喩も何もなかった。


 ただ真っすぐに、それだけを言った。


 プロポーズとは、もう少し情緒があるものでは——と思った。


 でも、この人らしいと思った。


 それ以外の言い方を、この人はたぶん知らない。知っていても、しない。


 それがこの人だと、私は知っている。


 「……条件があります」


 私は言った。


 カイル様が少し緊張した。肩が、わずかに固くなったのが分かった。


 「この庭の薔薇の管理は、私にやらせてください」


 一瞬の沈黙。


 それから、彼は言った。


 「最初からそのつもりだった」


 私は薔薇を見た。


 「では、はい」


 「……それだけか」


 「それだけです」


 カイル様はまた黙った。


 でも今度の沈黙は、あたたかかった。


---


 誰かに「いるだけでいい」と言ってほしかった。


 ずっと、それだけを願ってきた。


 でも今思えば、言葉よりずっと前から、それは届いていたのかもしれない。


 二年前の夜会。誰もいない窓際。


 あの部屋で、一人だけ、私を見ていた目があった。


 透明だった私が——あなたの目にだけは、ちゃんと映っていた。


 それがどれほどのことか、あの頃の私には分からなかった。


 今は分かる。


 薔薇はまだ揺れていた。


 朝の光の中で、赤くて、きれいで、甘い香りがして。


 隣に、あなたがいた。


 十年間、ひとりで咲いていた庭の薔薇は、今日、はじめて誰かに見てもらえた気がした。


 私も、きっと、そう。


 それだけで——今日はもう、充分だった。


                                     了

最後にエピローグを23時に投稿。

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