第5章「薔薇が全部咲いた朝に、あなたがいた」
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門をくぐった瞬間、空気が変わった。
冷たくて、澄んでいて、骨のある風。
王都の空気とは全然違う。甘くも華やかでもない。
でも肺の奥まで入ってきて、ほっとした。
――ああ、帰ってきた。
その感覚が、自分でも少し驚くくらい、自然だった。
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扉が開いた瞬間、マリンさんが飛び出してきた。
「お帰りなさいませ!」
その声が、玄関の石畳に響いた。
後ろにベルタたちも並んでいた。みんな、笑っていた。
「お帰りなさいませ、エリゼ様」
「お帰りなさいませ」
何人もの声が、重なった。
私は一瞬、立ち止まった。
帰る場所、というものを、よく知らなかった。
実家のフォルスター邸に戻るとき、出迎えてくれる人はいなかった。使用人はいたけれど、誰も、こんな顔をしていなかった。
「……ただいま戻りました」
声が、少し掠れた。
マリンさんが私の手を取って、ぎゅっと握った。
何も言わなかった。でもその手の温かさが、全部言っていた。
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翌朝、早く目が覚めた。
いつもより空が明るかった。
何かが違う気がして、着替えもそこそこに庭へ向かった。
角を曲がった瞬間、足が止まった。
咲いていた。
全部、咲いていた。
昨日まで固い蕾だったはずの薔薇が、一晩のうちに一斉に花を開かせていた。数えきれないくらいの真っ赤な花が、朝の光の中でゆっくりと揺れていた。
近づくと、甘い香りがした。
北の館にこんな香りがあったのかと、初めて知った。
朝露が花びらの上で光っていた。一粒一粒が、小さな鏡みたいに空を映していた。
手を伸ばして、一番近くの花にそっと触れた。
濡れた花びらが、ひんやりとして、柔らかかった。
「……咲いたね」
誰かに言うつもりはなかった。
ただ、言わずにいられなかった。
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「ああ」
後ろから声がした。
振り返ると、カイル様が立っていた。
いつもの外套。いつもの無表情。でも今日は、その目が少しだけ柔らかかった。
「いつから」
「君が来る前から、ここに立っていた」
「……それは、薔薇を見ていたんですか」
「見ていた」
二人で並んで、薔薇の前に立った。
しばらく、言葉がなかった。
北の朝の風が通り過ぎて、花がいっせいに揺れた。赤い海みたいに、波打つように。
こんなに咲くとは思わなかった。
枯れそうだったのに。乱れ放題だったのに。
手を入れれば、ちゃんと応えてくれた。
それが、なんだかとても——この館みたいだと、思った。
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「カイル様」
「何だ」
「薔薇を見ていないですよ」
気づいたら言っていた。
彼の視線が、さっきからずっと薔薇の方を向いていなかった。
カイル様は少し沈黙した。
「……見ている」
「薔薇を、ですか」
また、沈黙。
「そうじゃない方を」
一瞬、言葉の意味を飲み込もうとして。
飲み込んだ瞬間、耳まで熱くなった。
カイル様は珍しく、少し困ったような顔をしていた。
言ってしまったと思っているのか、それとも伝わらなかったと思っているのか。
どちらにしても、あの無表情の人が困った顔をしているのが、おかしくて。
可笑しくて。
声が、出た。
笑い声が、出た。
自分でも驚いた。
声を出して笑ったのが、いつぶりか分からなかった。
カイル様がこちらを見た。目を、少し瞠って。
「……すみません」
笑いながら言ったから、全然すまなそうに聞こえなかったと思う。
「謝らなくていい」
彼は静かに言った。
「その顔が、見たかった」
笑い声が、止まった。
止まって、でも、口元がまだ緩んでいた。
胸の奥が、じんわりと温かかった。
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「エリゼ」
「はい」
カイル様は薔薇に向き直って、少し間を置いてから言った。
「正式に、私の伴侶になってくれ」
飾りのない言葉だった。
前置きも、誓いの言葉も、気の利いた比喩も何もなかった。
ただ真っすぐに、それだけを言った。
プロポーズとは、もう少し情緒があるものでは——と思った。
でも、この人らしいと思った。
それ以外の言い方を、この人はたぶん知らない。知っていても、しない。
それがこの人だと、私は知っている。
「……条件があります」
私は言った。
カイル様が少し緊張した。肩が、わずかに固くなったのが分かった。
「この庭の薔薇の管理は、私にやらせてください」
一瞬の沈黙。
それから、彼は言った。
「最初からそのつもりだった」
私は薔薇を見た。
「では、はい」
「……それだけか」
「それだけです」
カイル様はまた黙った。
でも今度の沈黙は、あたたかかった。
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誰かに「いるだけでいい」と言ってほしかった。
ずっと、それだけを願ってきた。
でも今思えば、言葉よりずっと前から、それは届いていたのかもしれない。
二年前の夜会。誰もいない窓際。
あの部屋で、一人だけ、私を見ていた目があった。
透明だった私が——あなたの目にだけは、ちゃんと映っていた。
それがどれほどのことか、あの頃の私には分からなかった。
今は分かる。
薔薇はまだ揺れていた。
朝の光の中で、赤くて、きれいで、甘い香りがして。
隣に、あなたがいた。
十年間、ひとりで咲いていた庭の薔薇は、今日、はじめて誰かに見てもらえた気がした。
私も、きっと、そう。
それだけで——今日はもう、充分だった。
了
最後にエピローグを23時に投稿。




