第4章「あなたは私が見ていた、とあの人は言った」
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昨夜、よく眠れなかった。
眠れなかった理由は自分でわかっていた。でも考えたくなかったから、ただ天井を見ていた。
夜明け前に起きて、顔を洗って、いつも通り庭に向かった。
薔薇を見れば、少し落ち着くかもしれないと思った。
それだけだった。
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石畳を踏んで角を曲がったとき、人が立っているのが見えた。
カイル様だった。
いつもの散歩の時間より、ずっと早い。外套も羽織らず、シャツのままで、薔薇の前に立っていた。
足が止まった。
「……おはようございます」
声が、少し掠れた。
「ああ」
彼は振り返った。
その目が、いつもと違った。真っすぐなのは同じだけど、どこか、何かを堪えているような。
「帰るつもりか」
唐突だった。
「……期限が来れば」
当然のことを言ったつもりだった。
カイル様は少し目を細めた。
「期限が来たら、帰るのか」
「はい」
「それが、君の望みか」
答えが出なかった。
望み、という言葉を、最後に誰かに聞かれたのはいつだったか。思い出せなかった。
「……私の望みは、関係ないと思います。期限付きの補佐として来ていますので」
「俺が聞いている」
静かな声だった。でもその静かさが、いつもの静かさとは違った。
何かを、押し殺している静かさだった。
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「縁談は断った」
突然、彼は言った。
「マリンから聞いたか」
「……少し」
「そうか」
カイル様は薔薇に目を落として、それからまた私を見た。
「断ったのは今回が初めてじゃない。ずっと断ってきた」
「……それは」
「君のためじゃない」
遮るように言われて、口を閉じた。
「まだ、そこまで話す気にはなれなかった。でも」
彼は少し間を置いた。
北の風が、二人の間を通り過ぎた。
「昨夜、君が言った言葉を聞いた」
息が止まった。
「庭で言っていた。咲いたら、いなくていいかな、と」
頭の中が、白くなった。
「……聞いていたんですか」
「聞こえた」
声が出なかった。
恥ずかしいとか、困ったとか、そういう感情が来る前に、ただ、体が固まった。
「一つ、話してもいいか」
カイル様は私が答えるのを待たずに、続けた。
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「二年前の秋、王都の夜会に一度だけ出席した」
静かな声だった。
「苦手だから、いつもは断る。でもその時は国王に呼ばれて、仕方なく。……君が、いた」
私は、記憶の中を探した。
二年前の夜会。確かに、いくつかあった。
「会場の端に、ずっと立っていた。話しかけられることもなく、誰かと笑っていることもなく。ただ、窓の外を見ていた」
……覚えていた。
婚約者のヴィクターが姉と話し込んでいて、私は手持ちぶさたで、中庭の噴水を眺めていた。誰かと喋る気にもなれなくて、早く帰りたかった。
「あれだけの人間がいる部屋で」
カイル様の声が、少し低くなった。
「誰一人、君を見ていなかった」
胸が、鈍く痛んだ。
「それが、おかしいと思った」
「……おかしい」
「そこにいる全員が、君を見ていなかった。それがおかしかった」
おかしい。
その言葉が、なぜか、胸の奥に引っかかった。
哀れだとか、可哀想だとか、そういう言葉なら聞き慣れている。
でも彼は、おかしい、と言った。
おかしいのは——見ていなかった側だと、そういう意味で。
「それから少し、気になっていた。フォルスター家に三女がいることは知っていた。でも社交の場に出てこない。名前が話題に上ることもない。……それもおかしいと思った」
私は何も言えなかった。
「だから補佐の話が来たとき、受けた」
静寂が落ちた。
風が、また通り過ぎた。
「……それだけか、と思うか」
彼は私の顔を見て、静かに言った。
「今は、それだけじゃない。帳簿のこと、薔薇のこと、毎朝の報告のこと。君がここにいることが、俺には——」
そこで彼は、少し口ごもった。
言葉を探しているのが、はっきりわかった。
いつも言葉が少ないこの人が、言葉を探している。
「……自然だった」
それだけ言って、彼は視線を薔薇に逃がした。
私の目から、涙が溢れた。
こらえようとしたけれど、間に合わなかった。
誰かに、ただそこにいるだけでいいと言ってほしかった。
そう思い続けてきた。
でもこの人は——ただそこにいるどころか、ずっと前から、私を見ていた。
誰も見ていなかった部屋で、一人だけ、見ていた。
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「ここにいろ」
カイル様は、薔薇を見たまま言った。
「正式な話は、帰ってからする。でも今は、それだけ言わせてくれ」
私は袖で目を拭って、息を整えた。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「ああ」
「私でいいんですか。地味で、感情表現も苦手で、笑い方もよくわからない、こんな」
「知っている」
間髪入れなかった。
「それも含めて、俺が見ていたものだ」
もう一度、涙が出そうになった。
今度は、こらえた。
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王都への出立は、五日後だった。
マリンさんが用意してくれた深い青のドレスは、私がこれまで着たどのドレスより、静かで美しかった。
「よく似合いますよ」とマリンさんは言った。目が潤んでいた。
馬車の中で、カイル様は窓の外を見ていた。私は手袋の指先を少し直した。
「緊張しているか」
「少し」
「俺もだ」
意外すぎて、思わず顔を向けた。
彼は窓の外を見たまま、でもその口元が、ほんのわずか——動いた気がした。
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謁見の会場は、華やかだった。
シャンデリアの光、ドレスの色、笑い声。
二年前に見た夜会と、同じ光景のはずだった。
でも今日は、隣に人がいた。
背の高い、無口な、でも確かに私の隣に立っている人が。
「エリゼ」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、ヴィクターとアメリアが立っていた。
二人とも、私とカイル様を交互に見て、固まっていた。
ヴィクターが何か言おうとした。口が開いた。
カイル様が、ほんの少し前に出た。
それだけだった。
一言も発しなかった。ただ、視線だけで。
ヴィクターの口が、閉じた。
私はアメリアを見た。
姉は、まだ私を見ていた。何かを言いたそうな顔で。
「おめでとうございます」
私は言った。
穏やかな声が出た。自分でも驚くくらい、穏やかに。
「お幸せに」
それだけ言って、前を向いた。
隣に、カイル様がいた。
それだけで、もう、充分だった。
5章は22時投稿。




