表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十年間ひとりで咲いていた庭の薔薇を、あなたははじめて美しいと言った――捨てられた令嬢と無口な公爵の、不器用すぎる恋の話  作者: 数庭 読み


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/6

第4章「あなたは私が見ていた、とあの人は言った」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 昨夜、よく眠れなかった。


 眠れなかった理由は自分でわかっていた。でも考えたくなかったから、ただ天井を見ていた。


 夜明け前に起きて、顔を洗って、いつも通り庭に向かった。


 薔薇を見れば、少し落ち着くかもしれないと思った。


 それだけだった。


---


 石畳を踏んで角を曲がったとき、人が立っているのが見えた。


 カイル様だった。


 いつもの散歩の時間より、ずっと早い。外套も羽織らず、シャツのままで、薔薇の前に立っていた。


 足が止まった。


 「……おはようございます」


 声が、少し掠れた。


 「ああ」


 彼は振り返った。


 その目が、いつもと違った。真っすぐなのは同じだけど、どこか、何かを堪えているような。


 「帰るつもりか」


 唐突だった。


 「……期限が来れば」


 当然のことを言ったつもりだった。


 カイル様は少し目を細めた。


 「期限が来たら、帰るのか」


 「はい」


 「それが、君の望みか」


 答えが出なかった。


 望み、という言葉を、最後に誰かに聞かれたのはいつだったか。思い出せなかった。


 「……私の望みは、関係ないと思います。期限付きの補佐として来ていますので」


 「俺が聞いている」


 静かな声だった。でもその静かさが、いつもの静かさとは違った。


 何かを、押し殺している静かさだった。


---


 「縁談は断った」


 突然、彼は言った。


 「マリンから聞いたか」


 「……少し」


 「そうか」


 カイル様は薔薇に目を落として、それからまた私を見た。


 「断ったのは今回が初めてじゃない。ずっと断ってきた」


 「……それは」


 「君のためじゃない」


 遮るように言われて、口を閉じた。


 「まだ、そこまで話す気にはなれなかった。でも」


 彼は少し間を置いた。


 北の風が、二人の間を通り過ぎた。


 「昨夜、君が言った言葉を聞いた」


 息が止まった。


 「庭で言っていた。咲いたら、いなくていいかな、と」


 頭の中が、白くなった。


 「……聞いていたんですか」


 「聞こえた」


 声が出なかった。


 恥ずかしいとか、困ったとか、そういう感情が来る前に、ただ、体が固まった。


 「一つ、話してもいいか」


 カイル様は私が答えるのを待たずに、続けた。


---


 「二年前の秋、王都の夜会に一度だけ出席した」


 静かな声だった。


 「苦手だから、いつもは断る。でもその時は国王に呼ばれて、仕方なく。……君が、いた」


 私は、記憶の中を探した。


 二年前の夜会。確かに、いくつかあった。


 「会場の端に、ずっと立っていた。話しかけられることもなく、誰かと笑っていることもなく。ただ、窓の外を見ていた」


 ……覚えていた。


 婚約者のヴィクターが姉と話し込んでいて、私は手持ちぶさたで、中庭の噴水を眺めていた。誰かと喋る気にもなれなくて、早く帰りたかった。


 「あれだけの人間がいる部屋で」


 カイル様の声が、少し低くなった。


 「誰一人、君を見ていなかった」


 胸が、鈍く痛んだ。


 「それが、おかしいと思った」


 「……おかしい」


 「そこにいる全員が、君を見ていなかった。それがおかしかった」


 おかしい。


 その言葉が、なぜか、胸の奥に引っかかった。


 哀れだとか、可哀想だとか、そういう言葉なら聞き慣れている。


 でも彼は、おかしい、と言った。


 おかしいのは——見ていなかった側だと、そういう意味で。


 「それから少し、気になっていた。フォルスター家に三女がいることは知っていた。でも社交の場に出てこない。名前が話題に上ることもない。……それもおかしいと思った」


 私は何も言えなかった。


 「だから補佐の話が来たとき、受けた」


 静寂が落ちた。


 風が、また通り過ぎた。


 「……それだけか、と思うか」


 彼は私の顔を見て、静かに言った。


 「今は、それだけじゃない。帳簿のこと、薔薇のこと、毎朝の報告のこと。君がここにいることが、俺には——」


 そこで彼は、少し口ごもった。


 言葉を探しているのが、はっきりわかった。


 いつも言葉が少ないこの人が、言葉を探している。


 「……自然だった」


 それだけ言って、彼は視線を薔薇に逃がした。


 私の目から、涙が溢れた。


 こらえようとしたけれど、間に合わなかった。


 誰かに、ただそこにいるだけでいいと言ってほしかった。


 そう思い続けてきた。


 でもこの人は——ただそこにいるどころか、ずっと前から、私を見ていた。


 誰も見ていなかった部屋で、一人だけ、見ていた。


---


 「ここにいろ」


 カイル様は、薔薇を見たまま言った。


 「正式な話は、帰ってからする。でも今は、それだけ言わせてくれ」


 私は袖で目を拭って、息を整えた。


 「……一つ、聞いてもいいですか」


 「ああ」


 「私でいいんですか。地味で、感情表現も苦手で、笑い方もよくわからない、こんな」


 「知っている」


 間髪入れなかった。


 「それも含めて、俺が見ていたものだ」


 もう一度、涙が出そうになった。


 今度は、こらえた。


---


 王都への出立は、五日後だった。


 マリンさんが用意してくれた深い青のドレスは、私がこれまで着たどのドレスより、静かで美しかった。


 「よく似合いますよ」とマリンさんは言った。目が潤んでいた。


 馬車の中で、カイル様は窓の外を見ていた。私は手袋の指先を少し直した。


 「緊張しているか」


 「少し」


 「俺もだ」


 意外すぎて、思わず顔を向けた。


 彼は窓の外を見たまま、でもその口元が、ほんのわずか——動いた気がした。


---


 謁見の会場は、華やかだった。


 シャンデリアの光、ドレスの色、笑い声。


 二年前に見た夜会と、同じ光景のはずだった。


 でも今日は、隣に人がいた。


 背の高い、無口な、でも確かに私の隣に立っている人が。


 「エリゼ」


 聞き覚えのある声がした。


 振り返ると、ヴィクターとアメリアが立っていた。


 二人とも、私とカイル様を交互に見て、固まっていた。


 ヴィクターが何か言おうとした。口が開いた。


 カイル様が、ほんの少し前に出た。


 それだけだった。


 一言も発しなかった。ただ、視線だけで。


 ヴィクターの口が、閉じた。


 私はアメリアを見た。


 姉は、まだ私を見ていた。何かを言いたそうな顔で。


 「おめでとうございます」


 私は言った。


 穏やかな声が出た。自分でも驚くくらい、穏やかに。


 「お幸せに」


 それだけ言って、前を向いた。


 隣に、カイル様がいた。


 それだけで、もう、充分だった。

5章は22時投稿。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ