第3章「すれ違いは、お互い不器用すぎたせいだった」
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館に来て、二週間が過ぎた。
朝の空気の冷たさには、もう慣れた。むしろ最近は、その冷たさを吸い込むのが、一日の始まりのような気がしている。
王都の春は甘い匂いがした。
ここの朝は、刃みたいに澄んでいる。
それが、なぜか、好きだった。
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仕事は順調だった。
帳簿の整理はあらかた終わり、今は物資の管理体制を少し組み直す提案をまとめているところだ。倉庫の棚卸しをしているとき、ベルタという若い使用人が「エリゼ様、ここの記録って毎月やるんですか?」と聞いてきた。
「季節ごとで充分だと思う。ただ、この棚だけは月次にした方がいい」
そう答えたら、彼女は「なるほど!」と目を輝かせた。
その顔を見て、私はすこし、戸惑った。
こんなふうに話しかけてもらえるのが、まだ少し、慣れない。
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カイル様との朝の報告も、いつの間にか習慣になっていた。
毎朝、執務室の扉を叩く。「どうぞ」という短い声。机の前に立って、昨日の業務報告を伝える。
返ってくる言葉はいつも短い。「わかった」「続けろ」「それでいい」。
でもその短さが、今は苦じゃなかった。
余計なことを言わなくていい。取り繕わなくていい。ただ必要なことだけ伝えれば、ちゃんと届く。
それだけで、充分だと思った。
充分、以上かもしれない、と思い始めていたことには——まだ、気づかないふりをしていた。
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その朝、庭に出ると、薔薇に小さな蕾がついていた。
まだ固く閉じた、緑がかった小さな丸。
親指の爪ほどの大きさしかないのに、しっかりと枝の先に座っている。
「……咲くんだね」
声に出したつもりはなかった。
ただ、胸の奥がじんわりして、気づいたら口元が緩んでいた。
「エリゼ」
振り返ると、カイル様が立っていた。
いつもの朝の散歩の時間。外套の襟を立てて、こちらを見ていた。
「おはようございます。蕾が——」
言いかけて、止まった。
カイル様の視線が、薔薇ではなく、私のほうを向いていた。
何か、見てはいけないものを見てしまったような顔だった。
一秒、二秒。
「……ああ」
それだけ言って、彼は踵を返した。
いつもより少し、足が速かった。
私は取り残されて、薔薇と、彼が去った方向を交互に見た。
——何か、気に障ることをしただろうか。
笑うのが、不快だったのかもしれない。
こんなところで、使用人でもない身分の人間が一人でぼんやりしているのが、見苦しかったのかも。
蕾はまだ、小さく揺れていた。
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昼過ぎに、王都から手紙が届いた。
差出人の名前を見た瞬間、手が少し止まった。
アメリア・フォルスター。
開封するまで、少し時間がかかった。
中身は短かった。
ヴィクターとの婚約が正式に発表されたこと。春の終わりに式を挙げること。そして最後に一行——
「エリゼ、あなたが身を引いてくれたから、私たちは幸せになれたの。ありがとう」
便箋をしばらく見つめた。
悪意は、たぶん、なかった。
それが一番、こたえた。
姉は本当に、そう思っているのだと思う。私が「身を引いた」のだと。自分たちのために。
三年間が、そういう話になっていた。
机の上に手紙を置いて、窓の外を見た。
針葉樹の林が、風に揺れていた。
ああ、そうか。
私はやっぱり、どこにいても——そういう存在なのか。
夕方の報告の時間が来たとき、体が動かなかった。
執務室の廊下まで行って、扉の前で止まった。
今日は、うまく声が出ない気がした。
結局、そのまま自室に戻った。
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翌朝の報告で、カイル様は昨日のことを何も言わなかった。
私も言わなかった。
ただ一度だけ、報告を終えて扉を閉めようとしたとき、「何かあったか」という声が聞こえた。
振り返ると、カイル様はこちらを見ていた。
あの真っすぐな目で。
「いいえ」
私は答えた。
「なんでもありません」
彼はしばらく黙っていた。
でも、それ以上は何も言えなかった。私も、何も言えなかった。
扉を閉めた。
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その日の午後、マリンさんが廊下で話しかけてきた。
世間話のつもりだったのだと思う。
「そういえば、王都から縁談のお話が来ているみたいで。カイル様はいつも断ってらっしゃるけど、今回は侯爵家からの話だから、お父上が少し——」
私は「そうなんですね」と相槌を打った。
笑顔で。たぶん、自然に。
マリンさんは何か言いかけて、それから少し心配そうな顔をしたけれど、私はもう廊下を歩き出していた。
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そうだ。
当たり前のことだ。
カイル様には、カイル様の人生がある。縁談があって、政略があって、この広大な領地を継ぐ相手を選ぶ義務がある。
私はただの、期限付きの家政補佐だ。
帳簿を整えて、物資を管理して、終わったら王都に帰る。
それだけの人間が、朝の報告を少し心待ちにしていただとか、短い言葉のやり取りが居心地いいだとか、思ってはいけなかった。
私はここに属していない。
ここも、また、通り過ぎるだけの場所だ。
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夜、眠れなくて庭に出た。
薔薇は暗がりの中で、静かに立っていた。
昼間に見た蕾は、夜の冷気の中でも小さく、確かにそこにあった。
しゃがんで、そっと指先で触れる。
「……咲いたら」
声が、思ったより小さかった。
「咲いたら、私はもういなくていいかな」
誰に言うでもなかった。
庭には私しかいないと、思っていたから。
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廊下の窓に、人影があることに、私は気づかなかった。
4章は21時投稿予定。




