第2章「氷の館に、なぜか薔薇の話ができる人がいた」
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北へ向かうほど、空気が変わった。
湿度が抜けて、光が薄くなって、風の輪郭がはっきりしてくる。王都の春とは違う、骨のある寒さ。
でも嫌いじゃなかった。
ごまかしのない空気だと思った。
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ヴェイン公爵領の館は、遠目から見てもすぐにそれとわかった。
装飾が少ない。余計なものがない。ただ、必要なものだけが、必要な場所に建っている。
そういう建物だった。
正門をくぐると、丸顔のふくよかな女性が小走りに出迎えてくれた。
「よく来てくれましたよ、お嬢さん! 長旅でしたでしょう、さあさあ」
マリンさん、と名乗ったその人は、私の手を両手で包んで、迷いなく目を見て笑った。
その笑顔が、あまりにも真っすぐで。
私は一瞬、何をすべきか分からなくなった。
「……ありがとうございます」
なんとかそれだけ返すと、マリンさんは満足そうに頷いた。
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案内された客室は、清潔で、静かだった。
窓の外には針葉樹の林が見えた。王都の庭園とは全然違う景色なのに、なぜか落ち着く気がした。
翌朝、マリンさんから仕事の説明を受けた。
主な業務は帳簿の整理と物資管理。倉庫の在庫確認、納入業者との照合、季節ごとの収支記録。
聞けば聞くほど、得意なことばかりだった。
でもそれを口にする習慣が、私にはなかった。
「……できます」とだけ言った。
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夕方、屋敷の当主と初めて顔を合わせた。
ダイニングの扉を開けた瞬間、私は無意識に一歩、止まった。
カイル・ヴェイン公爵は、テーブルの奥に座っていた。
黒髪。長身。肩の広さが、椅子の背もたれと不釣り合いなくらい。
でも一番最初に目に入ったのは、その目だった。
暗い色の、真っすぐな目。
感情を読もうとして、何も読めなかった。
ただ——こちらを見ていた。
確かに、ちゃんと、見ていた。
それだけで、胸の奥が妙な緊張をした。
「……フォルスター家のエリゼです。お世話になります」
声が、少し固くなった。
「よく来た」
彼は言った。それだけ言って、視線を書類に落とした。
それ以上は何もなかった。
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怖い人だ、と思った。
悪い意味じゃなく、ただ、目が合うと何かを見透かされそうな気がして。
私は俯く癖があるけれど、あの目の前では、俯くことさえ見られているような気がした。
夕食は静かだった。
カイル様はほとんど喋らなかった。私も喋らなかった。マリンさんだけが時々、今日の夕食の食材がどうとか、林の向こうで鹿を見たとか、そういう話をしてくれた。
沈黙が、不思議と苦ではなかった。
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翌朝、早く目が覚めた。
習慣で、外に出た。
館の裏手を歩いていると、石壁沿いに植え込みがあるのに気づいた。
近づいてみると、薔薇だった。
枝が暴れ放題で、絡み合って、古い蔓が枯れたまま残っている。肥料の跡もない。水はちゃんと届いているようだけど、剪定は何年もされていないと思った。
でも——生きていた。
細い新芽が、乱れた枝の隙間からいくつも伸びていた。
しゃがんで、そっと枯れた枝に触れてみる。折れた断面が、まだ白かった。最近まで水を吸っていた枝だ。
なんとなく、手が動いた。
枯れ枝を一本折って、絡まった蔓を少しほどいて。
「触っても構わないか」
声がして、振り返った。
カイル様が、少し離れた場所に立っていた。
朝の散歩だったのか、外套を羽織って、こちらを見ていた。いつからいたのか、全く気配がしなかった。
「……あ、申し訳ありません、許可なく」
立ち上がろうとすると、彼は小さく首を振った。
「好きにしろ」
短い言葉。でも拒絶じゃなかった。
彼は踵を返しかけて、でも歩き出す直前に、ほんの少し足を止めた。
「……枯れると思っていた」
小さな声だった。
独り言みたいに。私に向けた言葉かどうかも分からないくらい。
でも確かに聞こえた。
私は薔薇を見て、それから彼の背中を見た。
足音が遠ざかっていく。
枯れると思っていた。
その言葉がずっと、頭の中に残った。
この人も、何かを、惜しんでいる。
そう思ったら、なぜか、少しだけ緊張がほぐれた気がした。
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三日目の夕方、整理した帳簿をカイル様に提出した。
五年分の記録を通して確認したとき、いくつかの誤記に気づいた。小さな数字のずれが複数の項目にまたがっていて、合計するとそれなりの額になる。物資の流用も、数字の流れから一箇所だけ見えた。
報告書にまとめて、一緒に添えておいた。
しばらくして、執務室から呼ばれた。
カイル様は机の前に座って、私が作った書類を広げていた。
「……誰かに習ったのか」
顔を上げて、私を見た。
「いいえ。好きなので」
答えてから、余計だったかと思った。聞かれたのは誰に習ったかで、好きかどうかじゃない。
でも彼は、少し間を置いて言った。
「好きなのか」
責めているわけでも、からかっているわけでもない声だった。
ただ、純粋に、確認しているみたいな。
「……はい」
私は答えた。
カイル様はそれを聞いて、また書類に目を落とした。
何も言わなかった。
でもその沈黙が、否定じゃないことくらいは、さすがに分かった。
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夜、部屋に戻って、窓の外の暗い林を見た。
王都が恋しいかと言われたら、正直、よく分からない。
でも今日一日を振り返って、胸が締め付けられるような場面は、一度もなかった。
それが何より、少し、不思議だった。
3章は20時投稿。




