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十年間ひとりで咲いていた庭の薔薇を、あなたははじめて美しいと言った――捨てられた令嬢と無口な公爵の、不器用すぎる恋の話  作者: 数庭 読み


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第2章「氷の館に、なぜか薔薇の話ができる人がいた」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 北へ向かうほど、空気が変わった。


 湿度が抜けて、光が薄くなって、風の輪郭がはっきりしてくる。王都の春とは違う、骨のある寒さ。


 でも嫌いじゃなかった。


 ごまかしのない空気だと思った。


---


 ヴェイン公爵領の館は、遠目から見てもすぐにそれとわかった。


 装飾が少ない。余計なものがない。ただ、必要なものだけが、必要な場所に建っている。


 そういう建物だった。


 正門をくぐると、丸顔のふくよかな女性が小走りに出迎えてくれた。


 「よく来てくれましたよ、お嬢さん! 長旅でしたでしょう、さあさあ」


 マリンさん、と名乗ったその人は、私の手を両手で包んで、迷いなく目を見て笑った。


 その笑顔が、あまりにも真っすぐで。


 私は一瞬、何をすべきか分からなくなった。


 「……ありがとうございます」


 なんとかそれだけ返すと、マリンさんは満足そうに頷いた。


---


 案内された客室は、清潔で、静かだった。


 窓の外には針葉樹の林が見えた。王都の庭園とは全然違う景色なのに、なぜか落ち着く気がした。


 翌朝、マリンさんから仕事の説明を受けた。


 主な業務は帳簿の整理と物資管理。倉庫の在庫確認、納入業者との照合、季節ごとの収支記録。


 聞けば聞くほど、得意なことばかりだった。


 でもそれを口にする習慣が、私にはなかった。


 「……できます」とだけ言った。


---


 夕方、屋敷の当主と初めて顔を合わせた。


 ダイニングの扉を開けた瞬間、私は無意識に一歩、止まった。


 カイル・ヴェイン公爵は、テーブルの奥に座っていた。


 黒髪。長身。肩の広さが、椅子の背もたれと不釣り合いなくらい。


 でも一番最初に目に入ったのは、その目だった。


 暗い色の、真っすぐな目。


 感情を読もうとして、何も読めなかった。


 ただ——こちらを見ていた。


 確かに、ちゃんと、見ていた。


 それだけで、胸の奥が妙な緊張をした。


 「……フォルスター家のエリゼです。お世話になります」


 声が、少し固くなった。


 「よく来た」


 彼は言った。それだけ言って、視線を書類に落とした。


 それ以上は何もなかった。


---


 怖い人だ、と思った。


 悪い意味じゃなく、ただ、目が合うと何かを見透かされそうな気がして。


 私は俯く癖があるけれど、あの目の前では、俯くことさえ見られているような気がした。


 夕食は静かだった。


 カイル様はほとんど喋らなかった。私も喋らなかった。マリンさんだけが時々、今日の夕食の食材がどうとか、林の向こうで鹿を見たとか、そういう話をしてくれた。


 沈黙が、不思議と苦ではなかった。


---


 翌朝、早く目が覚めた。


 習慣で、外に出た。


 館の裏手を歩いていると、石壁沿いに植え込みがあるのに気づいた。


 近づいてみると、薔薇だった。


 枝が暴れ放題で、絡み合って、古い蔓が枯れたまま残っている。肥料の跡もない。水はちゃんと届いているようだけど、剪定は何年もされていないと思った。


 でも——生きていた。


 細い新芽が、乱れた枝の隙間からいくつも伸びていた。


 しゃがんで、そっと枯れた枝に触れてみる。折れた断面が、まだ白かった。最近まで水を吸っていた枝だ。


 なんとなく、手が動いた。


 枯れ枝を一本折って、絡まった蔓を少しほどいて。


 「触っても構わないか」


 声がして、振り返った。


 カイル様が、少し離れた場所に立っていた。


 朝の散歩だったのか、外套を羽織って、こちらを見ていた。いつからいたのか、全く気配がしなかった。


 「……あ、申し訳ありません、許可なく」


 立ち上がろうとすると、彼は小さく首を振った。


 「好きにしろ」


 短い言葉。でも拒絶じゃなかった。


 彼は踵を返しかけて、でも歩き出す直前に、ほんの少し足を止めた。


 「……枯れると思っていた」


 小さな声だった。


 独り言みたいに。私に向けた言葉かどうかも分からないくらい。


 でも確かに聞こえた。


 私は薔薇を見て、それから彼の背中を見た。


 足音が遠ざかっていく。


 枯れると思っていた。


 その言葉がずっと、頭の中に残った。


 この人も、何かを、惜しんでいる。


 そう思ったら、なぜか、少しだけ緊張がほぐれた気がした。


---


 三日目の夕方、整理した帳簿をカイル様に提出した。


 五年分の記録を通して確認したとき、いくつかの誤記に気づいた。小さな数字のずれが複数の項目にまたがっていて、合計するとそれなりの額になる。物資の流用も、数字の流れから一箇所だけ見えた。


 報告書にまとめて、一緒に添えておいた。


 しばらくして、執務室から呼ばれた。


 カイル様は机の前に座って、私が作った書類を広げていた。


 「……誰かに習ったのか」


 顔を上げて、私を見た。


 「いいえ。好きなので」


 答えてから、余計だったかと思った。聞かれたのは誰に習ったかで、好きかどうかじゃない。


 でも彼は、少し間を置いて言った。


 「好きなのか」


 責めているわけでも、からかっているわけでもない声だった。


 ただ、純粋に、確認しているみたいな。


 「……はい」


 私は答えた。


 カイル様はそれを聞いて、また書類に目を落とした。


 何も言わなかった。


 でもその沈黙が、否定じゃないことくらいは、さすがに分かった。


---


 夜、部屋に戻って、窓の外の暗い林を見た。


 王都が恋しいかと言われたら、正直、よく分からない。


 でも今日一日を振り返って、胸が締め付けられるような場面は、一度もなかった。


 それが何より、少し、不思議だった。

3章は20時投稿。

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