第1章「切り捨てられた朝に、庭だけが変わらなかった」
短編連載です。1章からエピローグまで本日中にすべて投稿します。
春の土は、少しだけ甘い匂いがする。
鼻の先に感じるのは湿った黒土の匂いと、かすかな緑の匂い。風はまだ冷たくて、でも日差しだけは季節を先取りするみたいに、背中をじんわりと温めてくれる。
私は今日も、ひとりで薔薇の手入れをしていた。
フォルスター邸の中庭は、そこそこ広い。噴水もあるし、石畳の小道もある。でも誰も来ない。
母はここに関心がなく、父は多忙で、姉たちは庭仕事を「使用人のすること」と思っている。
だから毎朝、この場所は私だけのものになる。
虫食いの葉を丁寧に摘んで、しおれかけた花びらを指でそっと払う。三年前から私が一人で世話をしているこの薔薇は、今年も赤い蕾をつけ始めていた。
誰も気づいていないけれど。
――この庭だけは、私のことを不要だと言わない。
そう思うと、少しだけ、息がしやすくなる気がした。
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「エリゼ、サロンにいらっしゃい」
母の声が庭まで届いたのは、蕾の数を数え終えたころだった。
いつもと違う、少し硬い声音だった。
――何かある。
察するのは得意だ。言葉にするのが苦手なだけで、空気を読むことは昔から人並み以上にできた。
手袋を外してエプロンを畳みながら、私は特に急ぎもせずサロンへ向かった。
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扉を開けると、三人が揃っていた。
母。姉のアメリア。それから——婚約者のヴィクター。
三人とも、私が入ってきた瞬間、揃って少し目を伏せた。
ああ、そういうことか。
理解するのに、三秒もかからなかった。
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「エリゼ。単刀直入に話す」
ヴィクターが口を開いた。
整った顔に、いつもの自信ありげな表情。ただ今日は、どこかそれが「言い訳の準備」のように見えた。
「君との婚約を、解消したい」
静かな言葉だった。
私は何も言わなかった。言葉が出なかったのではなく、何を言うべきかが思い浮かばなかっただけで。
「……相思相愛の相手と、幸福になる権利が誰にでもあると、そう思うんだ」
彼の視線が、さりげなくアメリアに流れた。
姉は俯いて、頬に手を当てていた。その仕草が、どこか嬉しそうに見えたのは、私の気のせいだっただろうか。
三年間。
私は婚約者として、何度も彼の隣に立った。何度も笑いかけた。伝わっているかどうかも分からないまま、ただ、あるべき場所にいようとしていた。
でも今この瞬間、それが全部、別の意味を持っていたことを知った。
――私は隠れ蓑だったのか。
怒り、は来なかった。
悲しみも、よく分からなかった。
あったのはただ、静かな「そうか」という感覚だけ。
「そうですか」
私は言った。
母が少し眉を上げた。ヴィクターも、アメリアも、私の顔を一瞬見て、それからまた目を逸らした。
最初から最後まで、誰も私の目をきちんと見なかった。
それがなぜか、婚約破棄よりも、ずっと静かに胸に刺さった。
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自室に戻って、左手の薬指から指輪を外した。
小さな音を立てて、化粧台の上に置く。
鏡に映る自分の顔は、泣いていなかった。
泣けないのかと、少し思った。自分の中の何かが壊れているのかもと。
でも——と同時に気づく。
胸のどこかが、少しだけ軽くなっていた。
ずっとそこにあった重さが、するりと抜け落ちたみたいに。
それが何だったのか、うまく言葉にできないけれど。
たぶん、「終わった」ということなのだと思う。
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父に呼ばれたのは、その日の夜だった。
「北方のヴェイン公爵領へ行きなさい。家政補佐として、しばらく」
短い言葉だった。理由の説明はなかった。
でも理由は分かった。婚約破棄された令嬢が王都にいれば、体裁が悪い。ただそれだけのことだ。
「わかりました」
私はまた、そう答えた。
父は書類に目を戻した。
最初から、返事など聞いていなかった顔で。
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翌朝、馬車に乗った。
窓の外を、王都が流れていった。大通りの石畳、賑やかな市場、春の光を受けてきらめく噴水。
どれも綺麗だと思う。でも今は、何もここに引き留めるものがない。
馬車が王都の外れに差し掛かったとき、道端に小さな花が咲いているのが見えた。
手入れもされていないのに、誰にも気づかれないのに、ただそこで咲いている花。
私は少し息をついて、窓から目を離した。
――あの庭の薔薇は、私がいなくても誰も気づかない。
それは悲しいことのはずなのに、なぜか今日は、それでもいいような気がした。
馬車は北へ向かっていた。
私は背もたれに体を預けて、目を閉じた。
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2章は19時投稿予定です。




