第6話|奇跡を信じない人の勝ち方
会議室のドアを閉めた瞬間、外の歓声は遠ざかり、代わりに空調の音が支配した。
上層部は短い言葉で結論を突きつける。
「感動がない」「スポンサーが嫌がる」「視聴者が離れる」誰かが付け足す。
「君の言ってることは正しいかもしれない。でもテレビは正しさじゃ動かない」
律は、正しさを主張しに来たわけではない、と心の中で整理した。
彼が守りたいのは、構造だ。構造を語らないことで消えていくもの、責任、努力、設計、そして危険の正体。
それらが、奇跡という布の下で腐っていくのが嫌だった。
律は資料を机に並べた。エミールのルール草案のコピー。
アレクセイの分析の束。時代も国も違う紙が、同じ机の上で重なる。
律は言った。「この競技は、最初から危険と熱狂を設計してきました。危険を消したのではなく、管理可能にした。その管理の上に、観客の興奮が立っている。僕は、それを隠したくない」
上層部の一人が眉をひそめる。「隠す? 誰が隠してる」
律は言い切った。「奇跡という言葉が、隠している。奇跡は便利です。努力も、圧力も、判断も、責任も、全部まとめて感動に変える。感動は売れる。だから僕たちは、つい奇跡を使う。でも、その便利さのせいで、敗者は沈黙し、勝者は神話に閉じ込められる」
沈黙が落ちた。
律は続ける。「僕は奇跡を奪いたいんじゃない。奇跡の裏にあるものを返したいんです。選手の努力、監督の設計、ルールの線引き、そしてそれが生む危険。観客に“責任を持って熱狂する”権利を返したい」権利という言葉が、会議室の空気にひっかかった。
誰かが小さく笑う気配がしたが、律は気にしなかった。
熱狂は無責任でいられるときに最も甘い。だが甘いものほど、後で歯が痛む。
その瞬間、律の頭に、短い余韻が差し込まれた。
エミールが机に向かい、氷上の衝突の音を思い出しながら、許可の線を書いている。未来は熱狂を求める、と薄く予感しながら。
彼は未来の観客が、危険の匂いを感動に塗り替えることを知っていただろうか。
知っていたとしても、線を引くしかなかった。
線を引かなければ、氷上はただの暴力に戻る。
線を引けば、暴力は熱狂になる。熱狂は人を集め、人を集めれば、競技は生き延びる。
生き延びるために、危険は管理される。ルールは、その矛盾の中心にある。
会議室で、上層部の一人がため息をつき、「今回はギリギリだ。次からは“言い方”を考えろ」と言った。
切られはしなかった。だが線は引かれた。
律は頷き、資料を抱えて部屋を出た。
廊下の窓からリンクが見える。
次の試合が始まろうとしていた。
観客はまた物語を欲しがる。奇跡という言葉を待ち、泣ける編集を求める。
それでも律は、台本を開いて修正した。タイトルの一行目を変える。
「奇跡を信じない」ではなく、「奇跡に頼らない」。
否定ではなく、選択にする。
彼が信じるのは、構造だ。構造は冷たいが、冷たいからこそ熱狂を支える。
律はマイクのスイッチを入れる準備をしながら、氷上に視線を落とした。
円盤のパックは滑り、線引きの中でぶつかり合い、歓声が立ち上がる。
奇跡が起きても起きなくても、彼は語り続ける。
奇跡の外側にある、見えない設計のことを。




