第5話|氷上の暴力管理
本番のリンクは、練習の氷と同じはずなのに、まるで別物に見えた。
観客の熱が天井に溜まり、ライトの白さが氷に反射して、目が痛い。
重要試合。
序盤から接触が激しく、フェンスに体が叩きつけられる音が、実況席まで響いた。
選手の肩が跳ね、ヘルメットが揺れ、パックが壁際で失われるたび、会場は呻くように沸いた。
乱闘寸前の場面では、観客が立ち上がり、危険を待ち望む目をした。
律はその目を見て、1879年の線引きを思い出した。禁止ではなく、許可。
許可された範囲の中で、暴力は興奮へ変換される。
律はマイクの前で、あえて美談を語らなかった。
実況が「ここは魂のぶつかり合いです!」と叫ぶ横で、律は冷静に言葉を選んだ。
「今の接触は、ルール上は合法です。肩と肩。肘が出ていない。つまり、観客が熱狂できる範囲として許可されている衝突です」スタッフの視線が刺さるのを感じる。
視聴者が冷める、と彼らは思うだろう。
だが律は続けた。「反則が出るのは、危険を消すためではなく、危険を管理可能にするためです。数的不利の時間を罰として与えることで、暴力を“コスト化”している」
案の定、SNSは荒れた。モニター横の端末に、反応が流れる。
「冷める」「ロマンがない」「何それ講義?」局内チャットにも短い警告が飛ぶ。
だが、律の耳には、氷が削れる音のほうが大きかった。音は嘘をつかない。
第2ピリオド終盤、反則が重なり、片方が二人少ない状態になった。
会場は期待で膨らむ。誰もが「ここで奇跡のゴール」を待つ。
だが律の目には、別のものが見えていた。守備側の交代が遅れ、足が止まり始めている。攻撃側は三角形のパス回しで疲労をさらに引き出し、わざと一度外へ逃がして時間を稼ぐ。奇跡ではない。設計された当然だ。
そして第3ピリオド、勝負を決めたのは、ひとつの判定だった。
ボード際の接触。観客は「流せ!」と叫び、選手は両手を広げて抗議する。
しかし審判は笛を吹いた。手元のスロー再生で見れば、ほんの僅かに肘が上がっている。
ほんの僅か。それが“許可の線”を越えた瞬間だった。
数的不利。そこから生まれた失点。実況は「劇的!」「奇跡!」と叫びかけ、言葉を呑む。律が先に言ってしまったからだ。
律は放送中に、静かに言った。「奇跡じゃない。ルールが起こした当然だ。許可の線を越えたから、コストが発生した。
コストが発生したから、確率が動いた」自分の声が自分の耳に冷たく響く。
会場の熱と逆方向の言葉。
それでも、リンク上の現実に一番近い言葉だと律は思った。
試合が終わり、歓声が天井を叩く中、律のスマホに局からの呼び出しが入った。
「至急、会議室へ」怒られるか、切られるか。
律はヘッドセットを外し、氷の光をもう一度だけ見た。
ここで起きたのは、奇跡ではなく、線引きの結果だ。
その線引きを語った自分が、次にどんな線を引かれるのか。律は静かに立ち上がった。




