80.道化師の自作自演
銀鳳商会が組み上げた屈強な木組みの足場の上で、ソフィアは結界樹の巨大な幹に向き合っていた。
削り出された微細な木屑が風に舞い、濃厚な樹液の甘い香りが周囲に漂う。彼女は魔道彫刻ドリルを手に、息を詰めて複雑怪奇な魔力回路を一つひとつ組み込んでいく。
「グルルルゥッ」
「ギシャアアアッ」
結界樹から放たれる膨大な魔力の波動に引き寄せられ、森の奥深くからおぞましい異形の魔物たちが次々と姿を現した。
地を這う毒蜘蛛や、瘴気を纏う凶暴な獣たちが、ソフィアの魔力を狙って牙を剥く。だが、足場の上で作業に没頭する彼女に、その爪が届くことは一切なかった。
「させないっ」
足場の下に陣取るギルバートが、鋭い呼気と共に杖を振るう。
灼熱の炎が魔物の群れを焼き尽くし、絶対零度の吹雪が巨大な獣の突進を完全に凍てつかせる。熱風と冷気が交互に頬を撫で、森の空気が激しくうねった。
氷と炎の魔法を見事に操り、彼はソフィアに指一本触れさせることなく、その足元を完璧に守り抜いていたのである。
その頼もしい背中を見つめながら、少し離れた場所で魔物の動きを警戒していたジュリアンは、ふとあることに気がつく。
「ギルバート殿。今の魔法行使速度、尋常ではないな。少し、そのサブ杖を見せてもらえないか」
魔物の第一波を退け、短い静寂が訪れた隙を突き、ジュリアンが声をかけた。
ギルバートは「ああ」と短く応じ、左手に握っていた短い黒い杖をジュリアンへと手渡す。
それは、ソフィアが以前、ギルバートのために丹精込めて作り上げた特注のサブ杖であった。
杖を受け取ったジュリアンの手に、微かな温もりが伝わってくる。それは戦いの熱ではなく、杖そのものが内包している極めて純度の高い魔力の温度だった。
ジュリアンは商会のトップであり、一流の魔道具の流通を取り仕切るプロフェッショナルである。
黒曜石のように滑らかな表面を指の腹でなぞり、そこに施された細工を見た瞬間。彼は息を呑み、絶句してしまった。
十五センチほどの短い杖の表面に、肉眼では捉えきれないほど極小の魔力回路が、何百、何千とびっしりと刻み込まれていたのだ。
魔法の発動を極限まで早める加速回路。持ち主の負傷を自動で感知して塞ぐ治癒回路。そして、どれほどの規格外な魔力を流し込んでも決して壊れないための、異常なまでの耐久回路。
「これはっ」
思わず、ジュリアンの口から掠れた声が漏れる。
それはもはや、帝国の宝物庫に眠る国宝というレベルすら遥かに凌駕する、神域の芸術品であった。
限界まで詰め込まれた圧倒的な技術。
ジュリアンは静かに目を閉じ、杖の表面から伝わってくる温かい魔力の残滓を手のひらで感じ取った。
魔力を持たない妹が、どれほどの夜を徹してこの杖を彫り上げたのだろうか。
ただひたすらに魔眼を酷使し、血を吐くような集中力でこれほどの回路を詰め込んだのだ。少しでも手元が狂えばすべてが台無しになる極限の作業。それを成功させたのは、杖職人としての意地などという生易しいものではない。
ただ純粋に、「愛する人を絶対に死なせたくない」という切実な祈り。
ソフィアの持つ技術のすべてと、途方もない労力、そして海よりも深く重い愛情が、この短い杖の一本に込められていたのだ。
(フィア。君は、これほどまでに彼を愛しているのか)
目を開けると、再び現れた魔物の群れに対し、杖を受け取ったギルバートが凄まじい魔法を放っていた。
彼の戦い方は、単なる軍人としての冷徹な任務遂行ではない。背後にいる愛する少女を絶対に守り抜くという、泥臭いほどの必死さと熱情がその横顔に滲み出ている。
その姿を見て、ジュリアンは己の内で二人の絆を完全に認めた。
フィアとギルバートは、互いを深く愛し合い、支え合っている。自分が入り込む余地などない、美しい関係性だ。
(彼が優秀な魔導士であり、立派な貴族であることは認める。二人を祝福しよう)
ジュリアンは小さく息を吐き、だが、と心の中で続ける。
(それでも、大事な妹を他の男に任せきりにしていいはずがない。私もまた、兄として、彼女を全力で守らなければならないのだ)
ジュリアンが静かに決意を燃やし、拳を固く握り締めたその時だった。
森の奥から、腐葉土の腐ったような悪臭と共に、黒い瘴気が吹き荒れた。
木々の間から姿を現したのは、先日の帝都での襲撃を遥かに上回る数の『仮面の暗殺者』たちである。
「馬鹿が。数の暴力でどうにかなる相手だと思ったか」
ファフニールが冷たく言い放ち、白銀の魔力光で暗殺者たちを一網打尽に吹き飛ばしていく。
だが、異常事態が起きていた。木っ端微塵に蹴散らしても、暗殺者たちは黒い泥のように蠢き、再び無尽蔵に立ち上がってくるのだ。
「チッ。こやつら、ただの『影人形』か」
ファフニールが忌々しげに舌打ちをする。
いくら人形を破壊してもキリがない。森のどこかに潜み、人形を遠隔で操っている『本体』を探し出して叩かなければ、ジリ貧になるのは明白であった。
「極めて高度な隠蔽魔法が掛けられています。フィーの魔眼でなければ、本体の居場所は見破れないっ」
ギルバートが焦燥の声を上げる。
だが、頭上の足場にいるソフィアは、結界装置の最終局面に完全に没頭していた。瞳孔を見開き、息をするのも忘れるほどの集中状態で彫刻刀を動かしている。今ここで声をかければ、すべてが台無しになってしまう。
「助太刀しようか」
窮地に陥った彼らの耳に、飄々とした場違いな声が届いた。
木々の枝からひらりと飛び降りてきたのは、奇術師の出立ちをした青年、ジョーカーであった。
「あの嬢ちゃんはボクが守る。だからあんたらは、安心して敵の本体を倒しな」
トランプを指先で弄びながら、ジョーカーは悪びれもせずに提案する。
ギルバートとジュリアンは顔を見合わせた。ジョーカーは先日、帝都でソフィアを暗殺者の刃から救い出してくれた男である。
「恩に着る。フィーを頼むっ」
彼がこちら側の味方であるという認識が、判断を僅かに鈍らせた。
ギルバートとファフニールは、無防備なソフィアの背中をジョーカーに任せ、暗殺者の本体を叩くべく森の奥深くへと一気に踏み込んでいった。
どごぉんっ、どごぉんっ。
森の奥から、大地を揺るがす凄まじい爆発音と閃光が連続して立ち昇る。
ギルバートの氷炎とファフニールの竜の魔力が、隠れていた本体らしき気配を完全に粉砕したのだ。
それと全く同タイミングで、ソフィアが向き合っていた結界樹が、太陽のように眩い青白い光を放ち始めた。
ドクン、ドクンと大樹が脈動し、巨大な魔力の波動が奈落の森を覆い尽くしていく。ソフィアの職人技の結晶である結界装置が、見事に完成した瞬間であった。
「終わったか」
「フィーっ」
本体を仕留めたギルバートたちが、安堵の息を吐きながら足場の元へと帰還する。
だが、そこで彼らは信じられない光景を目にした。
「……は?」
そこにあるはずのソフィアの姿が、忽然と消え失せていたのだ。
「嬢ちゃんは自分が守る」と豪語していたジョーカーの姿も、どこにも見当たらない。
「嘘だろ……」
ジュリアンが呆然と呟き、足場に駆け寄る。
そこには、ソフィアが直前まで握りしめていた彫刻刀だけが、無残に転がっていた。
この瞬間、ジュリアンの明晰な頭脳が、すべてのパズルのピースを繋ぎ合わせた。
無限に湧き出る影の人形。見破れない高度な隠蔽。そして、不自然なタイミングでの助太刀。
これはすべて、あの道化師が仕組んだ罠だったのだ。
先日の帝都での襲撃すらも、いざというこの決定的な場面で、自分たちに『味方』だと誤認させ、ソフィアの背中を無防備に預けさせるための自作自演の演技。
あまりにも狡猾で、悪趣味な誘拐劇。
自分たちの甘い判断が、愛する妹を最悪の狂人の手へと引き渡してしまったのだ。
「僕の、せいだ」
ジュリアンは膝から崩れ落ちた。
完璧な兄であろうとした彼が、生まれて初めて見せた絶望の姿であった。静まり返った奈落の森に、血を吐くような兄の悲痛な絶叫が木霊する。
「フィアああああああああ!」




