79.森での設置作業
翌朝。
フクロウ亭の窓から差し込む朝陽が、部屋の中に淡い光を落としていた。
ソフィアは重たい瞼を擦りながら、のそりのそりと寝室からリビングへと足を踏み入れた。
そこにはすでに、皺一つない軍服に着替え、完璧に身支度を整えたギルバートの姿があった。
「おはよう、フィー。よく眠れたか」
「あ。おはようございます、ギルさん。ええと、はいっ。少しだけ」
ギルバートはカップに温かい紅茶を注ぎながら、涼しい顔で微笑みかけてくる。
大好きな恋人と同じ屋根の下で一晩を過ごしたのだ。ソフィアは極度の緊張でドギマギしてしまい、実は一睡もできなかったのである。
ギルバートはそんなそぶりを微塵も見せず、いかにも大人な余裕を漂わせている。ソフィアは自分だけが意識して空回りしていたようで、少しだけ恥ずかしくなった。
だが、その考えはすぐに覆ることになる。
ふとした拍子に、ソフィアの『虚無の魔眼』がギルバートの体内の魔力循環を捉えてしまったのだ。
彼の魔力はいつもなら静かな湖面のように澄み切っているのだが、今はひどく淀み、細かい波立ちを見せている。それは魔導士にとって、極度の睡眠不足を示す明確な兆候であった。
(ギルさんも、実は一睡もできなかったんだ)
その事実を悟った瞬間、気まずさと同時に言い知れぬ嬉しさがこみ上げてくる。
お互いに緊張してドギマギしていたのだと思うと、ソフィアは愛おしさで胸がいっぱいになり、幻の尻尾をパタパタと小刻みに揺らした。
「おはよう、ソフィアちゃん。と、ヘタレギルもん」
そんな甘い空気をぶち壊すように、居住区の扉が開いてヨランダが顔を覗かせた。
「おい。前はギルもんなのに、なんか変わってるぞ」
「うるさいヘタレギルもん。坊ちゃんにはがっかりですわ」
ヨランダは両手を腰に当て、ギルバートをジト目で見据える。
「なーんで、せっかく昨晩は若い二人きりにしてあげたのに。なーんもしないんですのっ」
「フィーはまだ恋人だし、大切な存在だ。そういうのは、結婚してからだろうが」
ギルバートが耳まで真っ赤にして抗議する。
当のソフィアは首を傾げ、頭の上に疑問符を浮かべていた。
「そーゆーの?」
さすがは純粋培養の生粋乙女である。ヨランダとギルバートが何の話で言い争っているのか、ソフィアには全く理解できていなかった。
「このままじゃメガロヘタレギルもんになっちゃいますよ。その前にちゃんと男になるんです」
「意味わからない」
二人の漫才のようなやり取りに、ソフィアが苦笑いを浮かべたその時である。
カランコロン、と店舗のドアベルが鳴り響いた。
「はぁ。朝っぱらから騒々しい」
深い深いため息をつきながら、人間の姿のファフニールが居住区へと入ってきた。
「おまえ、ほんとにオスか。なんだその体たらくは」
「あなたまで何を言い出すんですか」
ファフニールは呆れたようにギルバートを一瞥すると、ソフィアの華奢な肩をぐいっと引き寄せ、自身の豊かな胸元に抱き込んだ。
ふわりと、ファフニールから高貴な花の香りが漂ってくる。
「こんな美しい娘と一つ屋根の下だというのに、抱きもしないのか」
「だく?」
ソフィアは目をぱちくりとさせる。
ギルバートは額に青筋を浮かべ、怒りの声を上げた。
「やめろ、セクハラババアっ。フィーに妙なことを吹き込むな」
「わかりますわ」
ギルバートの怒鳴り声を無視し、ヨランダが深く頷いてファフニールに同調する。
「ソフィアちゃんはこんなにもかわいいのに。普通ならムラムラして、すぐに手を出してしまうのに。出さないなんて、男として絶対におかしいですわ」
「ほぅ、メイド。お主、よくわかっているではないか」
「ええ、わかりますとも」
がしぃいっ。
竜の賢者とフクロウ亭のメイドが、熱い友情を交わすように固い握手を結んだ。
(このメイド。ガンダールヴル様といい、ファフニール殿といい、相手は神域の大賢者だというのに次々と仲良くなっていくな)
ギルバートは頭を抱えた。
ソフィアの周りにいる人間は、どうしてこうも規格外の者ばかりなのだろうか。ある意味で、ソフィアと同じくらい恐るべき人たらしの才能である。
「で、ソフィアよ。結界の要となる杭は完成したのか」
「はいっ。昨晩のうちに、予定通りすべて仕上げました」
ファフニールの問いかけに、ソフィアは小さな木箱を取り出して中身を見せる。
そこには、肉眼では見えないほどの緻密な術式がびっしりと刻まれた『霊脈石の杭』が、数十本綺麗に並べられていた。
「うむ、さすが我が弟子。見事なり」
「弟子って。いつも思うが、フィーはあんたの弟子じゃないだろう」
ギルバートのツッコミを華麗にスルーし、ファフニールは満足そうに頷く。
「黙れ。いくぞ」
ファフニールが踵を返し、フクロウ亭の外へと歩みを進める。
ソフィアとギルバートも急いで荷物をまとめ、彼女の後を追った。
帝都の郊外へと出たファフニールは、一瞬にして巨大な老竜の姿へと変じた。
陽光を反射して輝く銀色の鱗。その圧倒的な巨躯を前に、ギルバートがソフィアを抱き抱えてふわりと背中の上に飛び乗る。
「いってらっしゃいですわーっ」
ヨランダが店先から、千切れるほどに手をぶんぶんと振っている。
「いってきまーすっ」
ソフィアも大きく手を振り返し、笑顔で応えた。
ファフニールが巨大な翼を羽ばたかせると、凄まじい風圧と共に巨体がふわりと宙に浮き上がる。
竜の背中は本来、猛烈な風圧と寒さで生身の人間が乗れるような環境ではない。
しかし、ファフニールが展開する高度な防風結界に加え、ギルバートが氷と風の魔法を緻密に操作し、ソフィアの周囲に快適なドームを作り出していた。
冷たい風は遮断され、ソフィアはギルバートの逞しい腕に包まれながら、心地よい暖かさを感じていた。
眼下には、帝都の美しい街並みがミニチュアのように広がっている。
(ギルさんに守られて、空の旅。すごくドキドキしますっ)
ソフィアは恋人の胸の鼓動を背中で感じながら、上空からの絶景をのんびりと楽しむのだった。
◇
特級魔導士の結界と、竜の神速による鉄壁の空路。
魔族の襲撃を受ける隙など一切与えず、一行はあっという間に隣国ゲータ・ニィガの『奈落の森』へと到着した。
鬱蒼と生い茂る木々と、底知れない瘴気が漂う広大な樹海。
その入り口付近に設けられた安全地帯へと、ファフニールが静かに舞い降りる。
「着いたぞ、ヘタレギルもん」
「あんたもかっ」
ファフニールのからかいに、ギルバートが盛大に顔を引き攣らせた。
彼らが竜の背から降り立つと、そこには見知った顔ぶれが待ち受けていた。
「遅かったね、フィア」
「お兄ちゃんっ」
銀鳳商会の作業員たちを指揮するジュリアンである。
さらには、帝国の物流を牛耳るOTK商会のマリアの姿もあった。
「マリアさんっ。どうしてここに」
「この大規模な設営を手伝わせてほしいと、私から願い出たのよ。結界の要となる資材の搬入は、すでに終わっているわ」
「ありがとうございます、マリアさんっ」
ソフィアは頼もしい裏方たちの働きに、深く頭を下げて感謝の言葉を伝える。
これで、職人としての仕事にだけ集中できる環境が完璧に整っていた。
「さあ、始めようか。まずは一本目だ」
ジュリアンの案内に従い、一行は森の奥深くへと歩みを進める。
程なくして、樹齢数百年はあろうかという巨大な大樹の前に到着した。
「ソフィアさん。お待ちしておりました」
「セシルさん」
大樹の根元には、前日から現地入りしていた弟子のセシルが立っていた。
見れば、大樹の幹の表面は綺麗に清掃され、邪魔な苔や虫などが丁寧に取り除かれている。
これは、単なる掃除ではない。
魔力速度を制御する杭を木に打ち込む際、いきなり適当な場所に刺せば良いというものではないのだ。
セシルは曲がりなりにも杖職人である。だからこそ、その難しさを痛いほどに理解していた。
巨大な生木の内部には、人間でいう血管のように、無数の複雑な魔力回路が走っている。
もし杭を打ち込む位置を数ミリでも間違え、重要な回路を断ち切ってしまえば、大樹は魔力暴走を起こして一瞬で枯れ果てて死んでしまう。
それは巨大迷宮の中から、たった一つの正解である急所を探し当てるような途方もない作業であった。
「わたくしには、どこに打ち込めばいいのか見当もつきません」
セシルは諦めの表情を浮かべ、静かに首を振る。
「でも、ソフィアさんならできるのでしょう?」
「はいっ」
ソフィアは真っ直ぐに大樹を見据え、力強く頷いた。
過信ではない。職人としての絶対的な自信が、その声には満ちていた。
ソフィアは静かに目を閉じ、そしてゆっくりと目を開く。
『虚無の魔眼』が起動し、彼女の視界に大樹の内部を流れる黄金色の魔力脈が鮮明に浮かび上がった。
水分の流れ、脈動のリズム、回路の太さと深さ。
それらをいつも以上の精度で読み取り、杭に施された極小の術式と大樹の回路が完璧に噛み合い、かつ干渉し合わない絶妙なポイントを探し出す。
(見つけましたっ。あそこですっ)
ソフィアが視線を向けたのは、地面から三メートルほど上にある幹の一部だった。
いくら彼女が背伸びをしても、到底届かない高さである。
「ファフ様、すみません。背中をお借りしてもいいですか」
ソフィアが頼み込むと、人間の姿のファフニールは腕を組んだまま首を横に振った。
「まあ待て。肩車をしろ、おまえたち」
「は?」
ソフィアとギルバートの声が綺麗にハモる。
「え、ええっ。そんな恥ずかしいことっ」
「おまえ、急に何を言ってるんだよっ」
ギルバートが激しく狼狽し、ファフニールに抗議する。
しかし、竜の賢者は極めて真面目な顔で言葉を返した。
「別にふざけてはおらん。ソフィアの魔眼で直接見ながらでないと、正確なポイントはわからないのだろう。ただ、ソフィア一人では高さが足りない」
ファフニールは理路整然と説明を続ける。
「だから肩車だと言っているのだ。別に俺以外でも、たとえばそこにいるあんたでもいいだろうが」
ファフニールはジュリアンを顎で指し示す。
「すまないが、余はさっきの長時間の飛行で疲れたからな」
そう言うと、ファフニールは近くの草むらにごろんと横になってしまった。
ジュリアンは一歩前に出て、静かに口を開く。
「ギルバート殿が嫌なら、私がフィアを肩車しよう。確かに、私たちは兄弟子と妹弟子だからな。フィアもその方が気が楽だろう」
ジュリアンの言葉に、ギルバートの心が激しく揺さぶられる。
公衆の面前で、愛する少女を肩車する。それはあまりにも恥ずかしい行為だ。またしてもヘタレそうになる己の弱さが顔を出す。
だが、ギルバートは強く首を振った。
「いや」
彼はジュリアンを真っ直ぐに見据え、力強く宣言する。
「俺が彼女を支えると決めたのだ。俺がやります」
その言葉に、ジュリアンは感心したように口角を上げた。
「またヘタレるのかと思ったよ。よろしく頼む」
ギルバートはソフィアの前へと歩み寄り、静かに膝をついた。
「フィー。おいで」
「はいっ」
この瞬間、ソフィアの顔から照れや恥ずかしさは完全に消え去っていた。
彼女の目はすでに、一流の杖職人のそれへと切り替わっている。
ソフィアはギルバートの肩に乗り、しっかりと足を固定する。
ギルバートがゆっくりと立ち上がると、ソフィアの視線がちょうど目標のポイントへと到達した。
ソフィアは手にした霊脈石の杭を構える。
森の静寂の中、彼女の微かな息遣いと、ギルバートの体温だけがリアルに感じられる。
極度の集中状態。
ソフィアは魔眼で回路の隙間を縫うように狙いを定め、専用の魔導ハンマーを振り下ろした。
カンッ。
硬質な音が響き、杭が樹皮を突き破って正確に大樹の内部へと打ち込まれる。
「ふぅ……。できました」
ソフィアが額の汗を拭った瞬間であった。
打ち込まれた杭が強烈な熱を発し、超加速された魔力を放出する。
しかし、大樹の内部を満たす大量の冷たい樹液が、それを瞬時に相殺していく。
木全体が青白い魔力の光を帯び、ドクン、ドクンと心臓のように脈動を始めた。巨大な生木が、ゆっくりと魔力を行き渡らせて光り輝く様は、あまりにも幻想的であった。
「見事だ、ソフィア。さすが我が弟子」
横になっていたファフニールが起き上がり、満足そうに頷いた。
周囲の森の一部が、不可視の絶対防壁によって完全に覆われた瞬間であった。
職人としての仕事が無事に終わった途端、肩車をしていた二人は唐突に我に返った。
お互いの密着した体温と、柔らかい感触が急激に脳内を支配する。
「あのあのあのっ」
「すすす、すまないっ」
ギルバートは顔を真っ赤にしてパニックになり、ばっ、と素早くソフィアを地面に下ろした。
そして、お互いに不自然なほど距離を取り、明後日の方向を見つめて硬直してしまう。
「このメガロヘタレギルもんめ」
ファフニールの呆れたような声が、静かな森に虚しく響き渡るのだった。




