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73.奈落の朝



 翌朝。小鳥のさえずりで目を覚ましたソフィアは、自身の体が温かい毛布と、力強い腕に包まれていることに気がついた。

 見上げれば、そこには端正な顔立ちのギルバートがいる。


「フィー。起きたか」


「あ、はい。おはよう」


 ございます。そう言い終わる前に、ギルバートはゆっくりと目を閉じ、その場に横たわった。

 彼は一睡もせず、愛する恋人を守るために周囲を警戒し続けてくれていたのだ。張り詰めていた糸が切れ、ソフィアが目覚めたことでようやく安心し、深い眠りに落ちたのである。

 その頼もしさと底知れぬ優しさに、ソフィアの胸はきゅんと高鳴る。


(そういえば、ギルさんの寝顔を見るの初めてかも。まつげが長いです。あと、ふふっ。寝ている時は、とても可愛い表情をしてますね)


 だが、幸せな気分の直後、ふとあることに思い至って顔面を蒼白にさせた。


(私、昨日からずっと同じ服だし、汗もかいてる。それに、焚き火の煙の匂いも染み付いてる)


 自分から少し嫌な匂いがするのではないかと気づき、ソフィアは乙女心を激しく揺さぶられた。


(川で水浴びをしてさっぱりしたいな。でも、こんな危険な森で、何も言わずに離れるわけにはいかないし)


 葛藤したソフィアは、せめてもの抵抗として、ギルバートの腕から少しだけ距離を取ろうともぞもぞと動いた。

 そこへ、テントからファフニールがのそのそと這い出してきた。


「おはようございます、ファフニール様」


「うむ。どうした、弟子よ」


 ソフィアが挨拶しつつ、ちらりと森の奥へ視線を向ける。


「あ、いえ。少し川へ水浴びに、と思いまして」


「む? では、余もついていこう。腹も減っているし、朝飯の魚を捕るついでだ」


 ファフニールのあっさりとした提案に、ソフィアは隣のギルバートを見やる。


「でも、ギルさんが一人になってしまうような」


「気にするな。こいつが魔物に後れを取るはずがなかろう。一応は優秀な魔導士だぞ」


 老竜の太鼓判、というよりは雑な扱いに苦笑しつつ、ソフィアは眠るギルバートを起こさないよう、そっと抜け出して川へと向かった。


「やけに迷わず進むが、川の場所はわかるのか」


「? わかりますよね?」


 森を少し歩くと、澄んだ水が流れる川へと辿り着いた。


「おお、本当だ。どうなっているのだ。お前はここに何度か足を運んだことがあるのか」


「いいえ、これが初めてですけど」


 ソフィアは水面を見つめ、静かに魔眼を開く。


「うん。ちゃんと飲める綺麗な水です」


「む? それもわかるのか」


「ええ。水の中に住み着く微細な精霊たちの姿が見えますから」


 万物には精霊が宿る。水場には水の精霊がいるのだ。

 ソフィアの魔眼は、その微細な精霊の存在すらも正確に捉えることができる。精霊が心地よく住まうということは、毒や瘴気のない清浄な水であるという何よりの証拠であった。


「なるほど。虚無の魔眼で、水の精霊の放つ魔力を見抜いたのか。それゆえに、清流を発見できたと」


「はい。祖父から教わりました」


「そういえば、あやつめはインスピレーションを得るためと称して、あちこち放浪しておったな」


 祖父経由で、こういったサバイバルの知識が自然と身についていたのである。


「お前の中には、確かにヴィルが生きているのだな」


 ファフニールが嬉しそうに、ソフィアの頭を優しく撫でる。その人身には、亡き祖父への確かな愛情を見て取れた。

 自分が深く敬愛する祖父を、同じように大切に想い、慈しんでくれる存在がいる。その事実が、ソフィアの胸を温かい喜びで満たしていく。


「誠に、その知識量と魔眼、見事なものだ」


 ファフニールがあっぱれと頷く横で、ソフィアはリュックから手帳を取り出し、さらさらとメモを書き込んだ。


「サバイバル試験なのですから、飲み水の確保は絶対に必要ですよね。これで水源の目星がつきました」


「そういえばそうだな。試験の運営側として、水のことなど何も考えていなかったぞ」


「ファフ様」


 ソフィアははっきりと言う。


「魔導士候補さまたちは、みな将来この世界を支える重要な人たちです。彼らの身に何かがあってはいけません」


「そ、そうだな」


「サバイバルなんて過酷な試練を課すのであれば、最低限、生き残るために必要な水や食料などが確保できるかどうかの確認は必要だと思います」


「そうだな。すまぬ」


 はっ、とソフィアが我に返る。

 杖職人として、杖を使う人たちを思いすぎるあまり、つい言い過ぎてしまったのだ。


(私、いつもこう……杖や使い手のことになると、すぐ熱くなっちゃう……)


 反省しつつ、ソフィアはファフニールに深く頭を下げる。


「差し出がましい真似をして、申し訳ないです……」


「気にするな。お前の言うことは正しい」


 ファフニールはうんうんと頷く。


(よかった……そうよね。ファフニール様は、お優しい方。人のことも考えられるお方なのだから。水のことも、私が言わずとも用意するつもりだったのかも)


「もっとも、お前以外が余に意見しようものなら、消し炭にするがな」


(……前言撤回。この人……駄目な人だわ!)


 ソフィアがしっかりしなければ、受験者たちに災禍が降り注いでしまう。考えてみれば、第一試験から古竜とのバトルなどという無茶をやらせる運営なのだ。


(私も運営に携わる人間として……し、しっかりしないとっ)


 もっとも、ソフィアも時に他人の常識を超えた無茶を強要する職人だったりするのだが、それはさておき。

 気を取り直し、水浴びの準備を始めるソフィアの手元を見て、ファフニールが不思議そうに首を傾げる。


「む。なんだそれは」


「これはシャンプーです。ポンプとボトルを作ってみたんです。中身もこの世界で採れる天然素材だけで作ってあるので、髪がつやつやになりますよ」


(前世の知識を活かして作った魔道具の一つだわ)


 前世で自由に体を動かせなかったソフィアにとって、読書は外界を知るための大切な趣味であった。そこで身につけた多様な知識を、こうして転生後の物作りに活かしているのである。


「ほう」


 ファフニールは興味深そうに鼻を鳴らした。


「そういえば、ファフ様はいつもどうやって体を洗っているのですか」


「竜の姿になって、自分で舐めているぞ」


 野生に生きる獣なのだから、身を清める手段は自ずとそうなるだろう。しかし、今は人間の姿である。

 よく見れば、ファフニールの緑色の長髪は酷く傷んでいるようだ。明らかに手入れが不足していることが見て取れる。


「あの、よければ頭を洗いましょうか」


 ごわごわとした髪を見つめ、ソフィアが提案する。


「ふむ。いいだろう」


 ファフニールが大人しく川辺に座り込み、ソフィアがポンプを押して泡を手に取った。

 しゃこしゃこ、と心地よい音を立てて、老竜の頭を丁寧に洗い始める。


「ふぉおお……」


 ファフニールは目を細め、至福の声を漏らした。

 どうやら長年、頭の痒みに悩まされていたらしい。天然素材のきめ細かい泡を川の水で洗い流すと、ごわごわだった髪が嘘のようにつやつやになった。

 ちなみに、洗い流した泡は川の精霊たちが汚れごと綺麗に分解してくれるため、環境にも優しいエコ仕様である。


「すっかり綺麗になりましたね」


「うむ。次は飯だな」


 ファフニールが立ち上がる。


「魚でいいか」


「はい。釣りでもするのですか?」


「そんなマネはせん」


 くわっ、とファフニールが口を大きく開ける。

 ソフィアの魔眼には、竜の魔力炉から膨大な量の魔力が口元へと集まっていくのがはっきりと見えた。

 だからこそ、ソフィアは素早く頭を低くして、迫り来る衝撃に備えた。


 ファフニールは川に向けて、軽く竜のブレスを放った。

 ジュバァッ、という轟音とともに、川の水分が一瞬にして干上がる。そして、川底でピチピチと跳ねる大量の魚たちを無造作に拾い上げた。


「よし。帰るぞ」


「ご、豪快すぎます……」


 ソフィアは呆れつつも、自身もさっぱりと水浴びを済ませてから拠点へと帰還した。


「フィーっ。大丈夫かっ」


 二人がキャンプ地に戻るなり、目を覚ましたギルバートが血相を変えて駆け寄ってきた。


「あ、ギルさん。おはようございます。少し川へ水浴びに行っていました」


「そうか。無事でよかった」


 ギルバートは心底ホッと安堵の息を吐き、ソフィアの無事な姿を確認して胸を撫で下ろした。


(水浴びか。少し残念だ。いや、水浴びを覗くなんて、騎士としてそんな不貞なことできん)


 真面目な顔の裏で密かに葛藤するギルバートの胸中を察したのか、ファフニールが呆れたように鼻を鳴らした。


「なんだお前、本当に雄か」


「どういう意味だ」


「雄なら、好きな子の風呂くらいこっそり覗き見るものだと、我が師より教わったぞ。見つかったら『だれだれさんのえっちぃ』という呪文を唱えられる神聖な儀式だと言っていたがな」


 初代、二代、三代目八宝斎であるノア・カーターが教え込んだ、トンデモないラッキースケベの文化である。


「何を教えてるんですか、ノア・カーターはっ」


「全くです」


 偉大なる始祖の不名誉な教えに、ソフィアとギルバートは深くため息をつくのだった。

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