66.師匠の背中
夕暮れの帝都を、二つの影が並んで歩いていた。
ソフィアの小さな手が、ギルバートの大きな手に、しっかりと繋がれている。
「店にあかり……?」
ギルバートが首をかしげる。
「もしかして、魔導士試験中も、店は閉めてないのか?」
「はい、リサさんにお店を任せてます」
「……そうか」
ギルバートはリサの事情を知っている。
婚約者に捨てられ、路頭に迷い、ソフィアの元へたどり着いた。
その後、ソフィアの元で、全うに職人としての鍛練を積んでいる……と。
第三者から見れば、リサはソフィアに危害を加えた悪人だ。
ギルバートも、本心を言えば、あまりリサに対して好感を抱いていない。
だが、ギルバートは、信頼している。リサではなく、ソフィアを。ソフィアが認めた女なのだ。だから、大丈夫だと。
「そうか」
「…………」
ふにゃ、とソフィアが笑う。
「どうした?」
「いえ……。ギルさんの魔力が、心地よくて……」
「あ」
ソフィアの、魔力ゼロの目には、相手の魔力が見て取れる。
ソフィアに対する気遣いの魔力。それが心地よくて、ソフィアは笑ったのだ。
「ギルさん、いつも私を思ってくれてます。それでちゃんとお仕事できるんですか?」
少し、甘えるように言う。
答えなんてわかってる。彼が真面目な軍人であることを。
これは恋人としての、甘えだ。
「無論、俺はソフィアをずっと想いながら、ちゃんと仕事できるさ。むしろ、君が頭の中にいてくれるおかげで、いつもの一〇倍仕事ができる」
「私なんて、ギルさんが頭の中にいると、一〇〇倍は仕事できちゃうんですよっ」
「それは働き過ぎだ。ふふ……」
「ふふふっ」
……とまあ、そんな風に店前でいちゃついてると、がちゃりと扉が開く。
「もしもしバカップルさん、営業妨害ですわよ」
「ヨランダさんっ。ただいま!」
ソフィアがヨランダの前にいき、そう言う。ヨランダは笑顔になって、ソフィアを抱きしめた。
「おかえりなさいですわ、ソフィアちゃんっ」
◇
ソフィアが工房の扉を押し開けると、カウンターの向こうで台帳を広げていたリサが顔を上げた。
「ソフィア、おかえり」
「ただいまです、リサさん。お店、任せてしまってすみませんでした」
「気にしないで。……それより、顔色は平気?」
リサの目が、ソフィアの顔をさっと見回す。
くまは……ない。顔色は……いい。むしろ目がきらきらしている。
(この人、疲れてないのかしら)
ギルバートはソフィアの小さな顔をのぞき込む。
「あ、その……今は人が見てるから……」
「うん、顔色はいいな」
勘違いして、ソフィアは顔を真っ赤にする。
それを横目で見ていたヨランダが、リサの袖をつんつんと引いた。
「ねえねえリサさん。坊ちゃん、笑ってますわよ」
「見えてる」
「今日でもう三回目ですわよ。記録更新ですわっ」
「……そのカウント、いつから始めたんですか」
◇
店じまいをし、四人は奥の客間へ。お茶が一巡したところで、ギルバートがリサへと視線を向けた。
「留守の間、店の方はどうだったのだ」
「それが」
リサは台帳を持ち直し、少し言い淀んでから答えた。
「……問題はなかったと思う。メンテナンスのご依頼が七件、新規のお問い合わせが四件、急ぎの修理が二件。全部、対応した」
「ほう」
ギルバートが台帳を受け取り、ぱらぱらとめくる。記録はきちんと整理されていた。
するとヨランダが、胸を張って割り込んだ。
「リサさんは立派に、ソフィアちゃんの十分の一くらいのお仕事をこなしておりましたわっ」
「……十分の一」
ギルバートが静かに繰り返した。
「それって、あまり働いていないんじゃ……」
「さ、サボってないわよっ」
リサが頬を赤くして声を荒らげる。
「あたしなりに全力でやったわ! ただ……ただ、ソフィアが働きすぎるのよ。あの子が基準になると、普通の人間が怠け者に見えるじゃない」
「それはそうか」
とギルバート。
「ソフィア、試験の準備だけでも相当な量だったでしょ。受験生の杖の調整もして、試験中も全部見て回って、落ちた子たちのケアまでして……私だったら三日は寝込む」
言いながら、リサは改めてソフィアを見る。
当のソフィアは、お茶を一口飲み終わったところで、うなずき、立ち上がる。
「さて、まだ杖のメンテナンスも残ってますし、明日の段取りも——」
「フィー」
ギルバートの低い声が、静かに遮った。
ソフィアが、はい、と小さく顔を上げる。
「今日はもう十分過ぎるほど働いただろう。メンテナンスは明日でいい」
「でも、預かっている方が——」
「一晩で杖の状態が変わるわけじゃない」
「……それは、そうですけど」
「今君は疲れてる。そんな状態で杖をいじる方が、杖に失礼じゃあないか? 最大のパフォーマンスが発揮されない状態で」
ソフィアはぱちぱちと瞬きをして、それから小さく口を閉じた。
返す言葉もないほどの正論に、ソフィアはぽそりとつぶやく。
「ギルさんって、ときどきすごく上手に言いくるめますよね」
「お前が反論できないことしか言っていない」
ヨランダがリサの袖を引いた。
「四回目ですわ」
「もうその話いいです」
◇
リサはお茶を一口すすりながら、改めてソフィアをこっそりと観察した。
疲れている様子はない。目は静かで、穏やかだ。でも確かに、今日一日でこなした仕事の量を並べてみると、どう計算しても人間一人分には収まらなかった。
(私の十倍……か)
悔しいとか、情けないとか、そういう気持ちはもうとっくに通り過ぎた。
今はただ、純粋に不思議だった。
どうしてこの人は、これだけ働いても、目が死なないのだろう。
まるで杖を作ることや、誰かの役に立つことが、疲れを上書きする燃料にでもなっているみたいに。
(……私も、いつかこんな目ができるかしら)
リサは小さく、誰にも気づかれないように息を吐いた。
師匠の背中は、まだずっと遠い。




