41.路地裏の没落者
後夜祭の華やかな喧騒から外れた、薄暗い路地裏。
そこには、光と影の境界線のように、一人の女性がうずくまっていた。
「うぅ……お腹、すいた……」
リサは、泥と油で汚れたドレスの裾を握りしめ、力なく壁に背を預けていた。
かつてデリックの隣で高笑いしていた頃の覇気は、見る影もない。
デリックが捕縛された後、共犯者として実家からも勘当され、着の身着のままで逃げ出してから数日が経っていた。
(惨めだわ……。本当に、惨め……)
遠くから聞こえる楽しげな音楽と笑い声が、今のリサには呪いのように響く。
彼女は気づいていた。自分には「若さと外見」以外の価値がなかったことに。
(ソフィア……。あの地味な女……)
ふと、かつて見下していた元同僚の顔が浮かぶ。
実は、リサはずっと彼女に嫉妬していたのだ。
ソフィアが作る魔道具《杖》は、どれも高品質で、使う人への配慮に満ちていた。
対して、リサが持つスキルは生産系の『量産』スキル。
短時間で同じものを大量に作ることができる。
だが、質は低い。魂がこもっていない「粗悪品」しか作れない。
デリックのような商売人には重宝されたが、職人としての腕は三流以下だ。
(学もない。職もない。誰もこんな『粗悪品』しか作れない女なんて、雇ってくれない……)
空腹と絶望で、視界が霞む。
そこへ、下卑た笑い声が近づいてきた。
「へへ、お姉ちゃん。一人かい?」
質の悪い男たちが、弱った獲物を見つけて取り囲む。
人攫いか、あるいは違法な奴隷商人か。
「ひっ……や、やめて……来ないで……!」
「いいじゃねぇか。温かい飯と寝床、用意してやるよぉ。その代わり、たっぷりと働いてもらうけどなぁ!」
男の手が伸びてくる。
リサは恐怖に震えながら、最後の力を振り絞って叫んだ。
「た、助けてー! だれかぁ! たすけてぇえええ!」
誰もいないことは分かっている。それでも、叫ばずにはいられなかった。
「……ケッ。大声出すなよ。誰も来ねぇよ」
男たちはニヤニヤと笑い、さらに距離を詰める。
誰も来ない。
当然だ。自分のような意地悪な女を、誰が助けるというのか。
(ソフィア……。あんたなら、助けてくれたりするのかな……)
諦めかけた、その時だ。
「ぐ、軍人さん〜! こっちで人が、襲われてますー!」
声のした方をみやると、そこには……
「そ、ソフィア……?」
元同僚のソフィアが、立っていたのだ。
男たちはソフィアを一瞥すると、下卑た笑みを浮かべる。
おそらく、可憐なソフィアをも、連れ去ろうとしているのだろう。
「ば、ばか! 逃げなさい!」
とっさに、リサは逃げるように叫んだ。
だが、ソフィアは逃げない。
男たちが、ソフィアに手をかけようとした、その時だ。
ドゴォッ!!
凄まじい衝撃音が響き、男の一人がボールのように壁にめり込んだ。
「あ……?」
「……おい。貴様ら、死にたいようだな」
絶対零度の殺気と共に現れたのは、氷のような美貌を持つ青年――ギルバート・フォン・ヴォルグだった。
彼はリサを見て助けに入ったわけではない。
ソフィアに、この男たちが近づこうとした(ように見えた)ため、排除しただけだ。
「ヒッ、ヴォルグ大佐!? に、逃げろぉ!!」
男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
静寂が戻った路地裏で、ギルバートはすぐに背後を振り返った。
「ソフィ、大丈夫か? 怪我はないか?」
「…………」
だが、ソフィアはギルバートを無視して、一直線にリサの元へ歩み寄った。
「大丈夫ですか? 立てますか?」
「あ……」
差し伸べられた手。
「なんで、あんたが……」
正直、一番会いたくない相手だった。
惨めな自分を見られたくない一心で、リサは必死に立ち上がろうとした。
「さ、触らないでよ! 同情なんて……!」
「あっ、待ってください!」
リサはふらつく足で逃げようとしたが、空腹による目眩でその場に崩れ落ちた。
ソフィアが支えようとするが、リサはその手を払いのける。
「来ないで! あんたに施しなんて受けたくない!」
拒絶されたソフィアは、一瞬悲しげな顔をし、無言で立ち上がった。
そして、路地の出口へと走り去っていく。
(……当然よね。あんな酷いことしたんだもの。見捨てられて当たり前……)
リサは自嘲し、冷たい石畳に顔を埋めた。
これで終わりだ。このまま泥のように眠って、消えてしまえばいい。
そう思っていたのに。
「……はい、これ」
「え?」
数分後。
息を切らせて戻ってきたソフィアが、手に持っていたものを差し出した。
湯気を立てる、焼きたての串焼きだった。
「屋台で買ってきました。……お腹、空いているんでしょう?」
「なんで……」
「困っている人がいたら助ける。……私がそうしたいから、そうするだけです」
復讐でも、優越感でもない。
ただ純粋な善意。
その温かさが、リサの凍りついた心を溶かしていく。
「う……うぐ……うわぁぁぁん!!」
リサは串焼きにかぶりつきながら、子供のように泣きじゃくった。
◇
一方その頃。杖屋『フクロウ亭』では。
「ふ〜ふふ〜ん♪」
ヨランダは、鼻歌交じりにリビングを掃除していた。
機嫌が良い理由はただ一つ。
昨日、ソフィアが帰ってこなかったからだ。
(ふふふ……ついに。ついにやりましたわね、坊ちゃん! 後夜祭の勢いでホテルにお泊まり……つまり、既成事実は完了! やったぜ! 男を見せたな、坊ちゃん!)
ヨランダの脳内では、すでに赤ちゃんの名前まで考え始めていた。
そこへ、カランコロンとドアベルが鳴る。
「おかえりなさいませー! あらあら、お熱い朝帰りだなんて――」
出迎えたヨランダの動きが止まった。
そこに立っていたのは、ソフィアとギルバート。
そして――ボロボロの服を着た、見知らぬ女。
「…………」
数秒の沈黙の後。
ヨランダの形相が修羅のように変わった。
「坊ちゃん、あんた何やってるんですかっ!!」
怒号と共に、ヨランダは雑巾を投げつけた。
それは見事にギルバートの顔面にヒットする。
「ソフィアちゃんという極上の素材がありながら、別の薄汚れた女を拾ってくるとはどういう了見じゃあああ!!」
「違う。ヨランダ、落ち着け!」
「落ち着いていられますか! 昨日の今日で二股!? この女たらし!!」
「ヨランダさん! 違います、この人は道で倒れていたんです!」
ソフィアが必死に割って入り、ようやく事態は鎮静化した。
「……なるほど。デリックの元婚約者、ですか」
事情を聞いたヨランダは、リサを冷ややかに見下ろした。
ソフィアを虐めた張本人。追い出してもバチは当たらない。
ギルバートも「自業自得だ」と言いたげな顔をしている。
だが、ソフィアだけは譲らなかった。
「この人は、助けを求めていました。放っておけません」
その瞳は、一度決めたら梃子でも動かない職人の目だ。
ヨランダは深いため息をついた。
「……まったく。ソフィアちゃんはお人好しすぎますわ。まあ、貴女が良いと言うなら止めはしませんけど」
結局、ヨランダが折れた。
リサはお風呂に入れられ、温かい食事を与えられた。
極限状態だった彼女は、ソフィアの部屋のベッドに入るなり、泥のように眠ってしまった。
◇
「……とりあえず、落ち着いたみたいですね」
リビングで、ソフィアが安堵の息を吐く。
だが、その表情には疲れと、リサへの心配が滲んでいる。
本来なら、今日は甘いデートの続きを楽しむはずだったのだが、完全に空気が変わってしまった。
「そうだな。……夜も遅い。俺はそろそろ帰るとしよう」
ギルバートが腰を浮かせた。
仕方ない。これ以上長居しても迷惑になるだけだ。
そう思って立ち上がった、その時。
(……坊ちゃん、そこで帰るからヘタレなんですのよ!)
ヨランダの目がキラリと光った。
昨晩、二人の間に「何もなかった」ことは、今の雰囲気で察した。
ならば、今日こそは進展させねばならない。
「ああっ! いけない!」
突然、ヨランダが大根役者も裸足で逃げ出すような大声を上げた。
「わたくし、急用を思い出しましたわ! 実は今から、ヴォルグの本家に顔を出さないといけない用事があったんです!」
「は? いや、そんな話は聞いていな――」
「急用なんです!!」
ヨランダはギルバートの言葉を遮り、まくし立てた。
「ですが、情緒不安定なリサと、ソフィアちゃんを二人きりにするのは心配です。もしリサが暴れたら大変!」
「いや、それは……」
「そこで! 坊ちゃんに命令です!」
ヨランダはビシッ、とギルバートを指差した。
「わたくしが戻るまで、今日はここに泊まってソフィアちゃんの護衛をなさい! これはフクロウ亭の管理人としての命令です!」
「なっ……!?」
「ええっ!?」
ギルバートとソフィアの声が重なる。
ヨランダは有無を言わせぬ勢いでショールを羽織ると、玄関へと走った。
「では、あとは頼みましたよ! 朝まで戻りませんからねー!」
バタンッ!
扉が閉まる。
残されたのは、真っ赤な顔をした若い男女二人だけ。
「…………」
「…………」
静寂が、リビングを支配した。




