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36.計算外の宿泊



 無事にクレープを食べ終えた二人だったが、そこには一つ、大きな問題が残されていた。


「うぅ……やっぱり、汚れてますね」


 ソフィアが自分のドレスを見下ろして、悲しげに眉を寄せた。

 先ほどの修復作業で、淡い水色のドレスは煤と油でドロドロだ。顔や腕についた汚れはハンカチで拭ったものの、この格好で帝都の大通りを歩くのは、さすがに憚られる。


「一度、お店に戻って着替えましょうか……」

「いや。それには及ばん」


 ギルバートが、少し強張った表情で口を開いた。


「この近くに『DBホテル』がある。そこに部屋を取ってあるんだ」

「えっ?」


 帝都に引っ越して日が浅いソフィアは、その『DBホテル』が、帝都で最も格式高く、宿泊費も破格の最高級ホテルだとは理解していなかった。

 単に、ギルバートが休憩用のホテルを予約してくれていた、という程度の認識だ。


「着替えも、クリーニングも、ルームサービスですぐに手配できる。シャワーも浴びられるぞ」

「へ……部屋を、取ってあるんですか?」


 ソフィアは目を丸くした。


「あ、誤解しないでくれ! やましい気持ちはない! ただ、祭りでの人混みに疲れた時の休憩場所として、念のために確保していただけで……!」


 ギルバートが慌てて両手を振って弁明する。

 その必死な様子に、ソフィアはぽんと手を打った。


「なるほど! こういうトラブルまで想定して、避難場所を確保していたんですね。すごいですギルバートさん! さすがは帝国軍の大佐、危機管理能力が違います!」


 ソフィアは尊敬の眼差しで彼を見上げた。


「……あ、ああ。そうだ。備えあれば憂いなし、だ」


 ギルバートは視線を逸らし、冷や汗を拭った。

 本当は部下のクラウスに「いいですか、何が起きるか分かりませんからね?」と強引に予約させられただけなのだが。

 結果として、その「下心クラウスの」が功を奏することになった。


     ◇


 DBホテルのスイートルーム。

 その豪華さは、庶民であるソフィアの想像を絶していた。

 ふかふかの絨毯、煌びやかなシャンデリア、そして窓の外に広がる帝都の夜景。


「す、すごいです……お城みたいです」


 さすがのソフィアも、このホテルがとてつもなく高い(値段的にも、敷居的にも)場所だと気づいた。

 だが、もうチェックインしてしまった後だ。今更「出て行く」とも言えなかった。


「くつろいでくれ。服はルームサービスに出しておいた。すぐに綺麗になって戻ってくるはずだ」


 ソフィアは現在、ホテルが用意したフリーサイズの部屋着に袖を通している。これも驚くほど滑らかな生地だった。


「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて……シャワーをお借りしますね」


 ソフィアは備え付けのバスローブを手に取り、バスルームへと消えていった。

 やがて、シャーッという水音が聞こえてくる。


「…………」


 リビングに残されたギルバートは、ソファの上で石像のように固まっていた。


(落ち着け。俺は軍人だ。数多の死線を潜り抜けてきた男だ。シャワーの音くらいで動揺してどうする)


 必死に己を律するが、想像力という名の敵が容赦なく襲いかかってくる。


 数十分後。

 カチャリ、とドアが開き、湯気を纏ったソフィアが出てきた。


「ふぅ、さっぱりしましたっ」


 濡れた緋色の髪をタオルで拭きながら、彼女が無邪気に笑う。

 サイズが少し大きいバスローブ姿は、どこかあどけなく、それでいて強烈な色気を放っていた。

 上気した頬。無防備な鎖骨。


「っ……!」


 ギルバートは反射的に顔を背けた。

 直視できない。刺激が強すぎる。


 普段、職人として凛としている姿も、ドレスアップした姿も見てきた。どちらも美しかった。

 だが、今の彼女は別格だ。

 湯上がり特有の艶めかしさと、ふわりと漂う甘い石鹸の香り。濡れた髪から滴る水滴が、白磁の肌を伝って胸元へと消えていく様は、男の理性を根こそぎ奪い去るような破壊力を持っていた。


「あ、ベッドふかふかです!」


 ソフィアは嬉しそうに、キングサイズのベッドに腰を下ろした。

 ぽふん、と体が沈み込む。


「すごい弾力……これなら、すぐに眠れちゃいそう……」


 そう呟いた直後、ソフィアの瞼がとろんと落ちてきた。

 急激な睡魔が襲ってきたのだ。

 無理もない。先ほどのキッチンカーでのコンロ修理で、彼女はかなりの気力と神経を消耗していたのだから。


「ふあ……なんだか、急に……」

「ソフィ?」

「すみません、ちょっとだけ……横に……」


 コテッ。

 ソフィアは糸が切れたように倒れ込み、そのまま寝息を立て始めた。


「……無防備すぎるだろう」


 ギルバートは苦笑し、彼女に掛け布団をそっと掛けた。

 その寝顔は、安心して遊び疲れた子供のようだった。


     ◇


 ドォォォォン……!


 腹に響くような重低音で、ソフィアは目を覚ました。


「ん……?」


 体を起こすと、部屋の中が七色に照らし出されていた。

 窓の外。夜空いっぱいに、巨大な光の花が咲き乱れている。


「わぁ……!」

「起きたか」


 窓辺に立っていたギルバートが振り返る。


「綺麗……花火ですか?」

「ああ。あれはラインハルト殿下が、神杖『リスタルテ』を使って打ち上げている魔法花火だ。……これを見せたかったんだ」


 ソフィアはベッドから降り、窓に駆け寄った。

 視界を埋め尽くす光の粒。

 それは今まで見たどの花火よりも美しく、幻想的だった。

 自分がメンテナンスした杖が、こうして多くの人々を笑顔にしている。その事実に、胸が熱くなる。


「すごい……本当に、綺麗です」

「ああ。……綺麗だ」


 ギルバートは花火ではなく、横顔を照らされるソフィアを見て呟いた。

 しばらくして、最後の特大花火が消え、静寂が戻る。


「……あ」


 ソフィアは壁掛け時計を見て、青ざめた。

 時刻はすでに深夜を回っている。


「ど、どうしよう……こんな時間!」

「そうだな。祭りの帰りで、どの辻馬車も魔導車も満員だろうな」

「どうやって帰ろう……」


 途方に暮れるソフィアに、ギルバートが少し躊躇いながら声をかけた。


「……その、もしよかったらだが」

「はい?」

「泊まっていくか? 部屋は朝まで取ってある」


 ソフィアは目をぱちくりとさせた。


「あ、いや、ほんとに他意はないのだ。事実として部屋を朝まで取っているというだけなのであってな……」

「えっ、いいんですか? こんな良いお部屋に?」

「あ、ああ。君さえ良ければだが」

「ありがとうございます! 助かります……って、あ」


 ソフィアは部屋を見回した。

 広いスイートルームだが、寝室はここ一つ。ベッドはキングサイズが一つだけ。


「……同じ、部屋……」


 その事実に気づいた瞬間、二人の間に気まずい沈黙が流れた。

 カアァァッ、とソフィアの顔が赤くなる。


「もちろん、俺はソファで寝る! やましい気持ちはないから! そこは安心してくれ!」


 ギルバートが慌てて言い訳をする。

 ソフィアは、首まで赤くしながらも、こくりと頷いた。


「は、はい。分かってます。……ギルバートさんは、紳士ですから」

「うっ……」

「私、信じてますから」


 その純粋な信頼の言葉が、ギルバートの胸に鋭く突き刺さった。


(……信頼が、重い……ッ!)


 ギルバートは頭を抱えた。

 本来の計画では、こうではなかった。

 夜景の見えるレストランで食事をし、良い雰囲気になったところで告白をする。

 そして晴れて恋人同士になり、花火を見て、この部屋に誘うはずだったのだ。


 だが現実はどうだ。

 トラブル対応で汚れ、疲れ果てて寝落ちし、告白のタイミングを完全に逃したまま、お泊まりイベントが発生してしまった。


(順序が……! 一番大事な『告白』のターンが抜けている……)


 付き合ってもいないのに、手を出すわけにはいかない。

 騎士としての誇りと、男としての本能が、激しく火花を散らす。


 ……帝都随一の魔法の使い手、犯罪者からは『破壊神』と恐れられるギルバート・フォン・ヴォルグ。

 そんな彼が……まさかここまで動揺するとは、帝都の誰も思っていないだろう。


「……じゃあ、お言葉に甘えて。おやすみなさい、ギルバートさん」


 ソフィアは安心しきった様子でベッドに潜り込み、すぐにスヤスヤと寝息を立て始めた。

 彼女にとってギルバートは「絶対的に信頼できるパートナー」であり、警戒心など欠片もないのだ。


「…………」


 残されたギルバートは、ソファの上で天井を仰いだ。

 隣のベッドからは、愛しい女性の無防備な寝息が聞こえてくる。


「……眠れるわけ、ないだろう」


 英雄ギルバートにとって、過去最大級に長く、過酷な夜が始まった。

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― 新着の感想 ―
くっ!据え膳! 帝国軍人大佐、英雄、破壊神と言われたギルバートがおあずけを食らっている⁉ 帝国最強はソフィアで決まり!
笑えばいいよ 笑えよ…(泣)
翌日にそれぞれから事の顛末を聞いたクラウスとヨランダの反応がどう記されるのか、楽しみでなりません。
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