30.第一皇子の憂鬱と、沈黙する神杖
帝城の回廊は、それだけで一つの街のように広大だ。
磨き上げられた大理石の床。頭上を彩るフレスコ画の天井。
すれ違う近衛兵たちは皆、一糸乱れぬ動きで敬礼をしていく。
(場違いすぎます……。か、帰りたくなってきました……)
ソフィアはメルティアに手を引かれながら、あまりの荘厳さに身を縮めていた。
そんな時である。
「……ソフィ? なぜここに」
聞き覚えのある、低い声が響いた。
顔を上げると、回廊の向こうから、数名の部下を引き連れたギルバートが歩いてくるところだった。
いつものラフな私服ではない。儀礼用の軍服に身を包み、マントを翻す姿は、まさに『帝国の英雄』そのものだ。
「あ、ギルバートさん!」
知っている顔を見つけた安堵から、ソフィアは満面の笑みを咲かせた。
その無防備な笑顔を向けられたギルバートは、一瞬だけ目を見開き、ふい、と顔を背けた。
(……今日もソフィは可愛いな)
「お仕事中でしたか」
「あ、ああ、本日は城内の警備担当でな。……ではなくて! なぜソフィがここにいる。それに殿下まで」
ギルバートが驚愕の表情で駆け寄ってくる。
メルティアは悪びれる様子もなく、ニッコリと微笑んだ。
「奇遇ね、ギル。お仕事ご苦労様」
「奇遇……ではありませんよ。一般人を許可なく城に入れるなど……」
「許可ならあるわよ。お兄様……ラインハルト兄上が呼んでるの」
その名を聞いた瞬間、ギルバートの眉間に深い皺が刻まれた。
「ラインハルト殿下が……? まさか、ソフィを?」
「ええ。なんか用があるんですって」
ギルバートは数秒ほど沈思黙考した後、部下たちに向かって手信号を送った。
「……休憩時間を前倒しにする。俺は彼女らの護衛に付く」
「はっ!」
部下たちが敬礼をして去っていく。
残されたギルバートに対し、メルティアが呆れたように言った。
「ギル、職権濫用じゃない?」
「うるさい。ソフィは俺が守る。彼女は大事な女性だからな」
「ふぅん。お兄様に獲られるって思ってるのね?」
本気で危機感を抱いているらしい。
必死な形相のギルバートを見て、メルティアは「あらあら」と口元を緩めた。
一方でソフィアは、きょとんと瞬きをする。
「大事な人……か。い、いけませんね。勘違いしては……言葉の綾というか……」
自分に言い聞かせるように呟くソフィアの声は、二人の耳には届かなかった。
◇
通されたのは、宝物庫の奥にある特別応接室だった。
重厚な扉が開かれると、革張りのソファに優雅に脚を組んで座る、一人の男がいた。
「やあ。よく来てくれたね」
ラインハルト・ディ・マデューカス第一皇子。
三十歳とおぼしきその男は、ギルバートのような武人の覇気とは違う、全てを見透かすような理知的なオーラを纏っていた。
切れ長の瞳。整えられたプラチナブロンドの髪。
その声は低く、穏やかで、聞く者を安心させるような包容力に満ちている。
「君が噂の『緋色の妖精』……いや『八代目・八宝斎』殿かな?」
「えと、はい。そうです」
ソフィアは瞬きをした。
自分が八宝斎の八代目であることは、身近な人間……それこそ、祖父のヴィルや、行商人のマリアくらいしか知らないはずの極秘事項だ。
(どうして私が八代目だと知っているのでしょう……)
皇子の情報網に、戦慄を覚える。
「殿下。その妙な呼び名はおやめください。彼女が困惑しています」
後ろに控えたギルバートが、こめかみを押さえながら諌める。
「おや、ギルバート。仕事中ではなかったか?」
「……要人の警護も、私の務めですので」
「ふっ。相変わらず堅物で、愛想のない男だ」
ラインハルトは面白そうに喉を鳴らすと、手元のベルを鳴らした。
(かたぶつ? 愛想のない男? ギルバートさんが……?)
自分の思うギルバート像と、ラインハルトの語るそれが違いすぎて、戸惑うソフィア。
うぉほん、とギルバートが咳払いをする。
「彼女に何か用事があると伺いましたが?」
「そうだった」
すぐに侍従たちが現れ、うやうやしく一つの細長い箱をテーブルに置く。
「さて、八宝斎殿。君を呼んだのは他でもない。これを見てほしいのだ」
箱の蓋が開かれる。
そこに収められていたのは、一本の美しい杖だった。
純白の木肌に、黄金の装飾。先端には拳大の巨大なサファイアが埋め込まれている。
「これは……神器ですねっ!」
ソフィアは杖を見ただけで、一発で、この杖がただ者ではないことに気づいた。
一方で、ギルバートが不思議そうに首を傾げる。
「ソフィ、神器とは?」
「現代の技術では、絶対に作ることができない、神のごとく力を発揮する特別な魔道具を、神器というのです」
「そ、そうなのか……? 俺には綺麗なだけの、普通の杖にしか見えないが」
「どこがですかっ。ギルバートさんの目は節穴なのですかっ!」
ソフィアが食い気味に詰め寄った。
「この素晴らしい神器に『普通』だなんて言うなんて、失礼にも程があります! 謝ってください!」
「ご、ごめんなさい……」
杖のことになると性格が変わるソフィアに、ギルバートがたじたじと後ずさる。
その様子を見て、ラインハルトは目を細めた。
それは、年の離れた幼子を見るような、温かな眼差しだった。
(なるほど……。本物というわけか)
ただ可愛いだけの少女かと思っていたが、その目は確かな職人のものだ。
彼女になら任せられるかもしれない。
「国宝、『神杖リスタルテ』だ。来週の建国祭で、私が儀礼用に使用することになっている」
ギルバートも名前だけは聞いたことがあった。
帝国の繁栄を象徴する、歴史ある至宝だ。
「だが、最近、どうも輝きが鈍くてね。魔力を通しても反応が悪い。まるで死にかけている老人のようだ」
ラインハルトは憂いを含んだ瞳で杖を見つめる。
「宮廷魔導師たちに見せたところ、『寿命だ』と言われたよ。数百年の時を経て、杖の魔力が枯渇していると。これ以上劣化させないために、最高級の保存処置を施すのが限界だと言われた」
「寿命、ですか……?」
「ああ。だが、私の勘が告げているのだ。こいつはまだ死んでいないとね。……どうだい? 職人の目から見て」
促され、ソフィアはおずおずと杖に手を伸ばした。
触れた瞬間。
指先に伝わってきたのは、故障した道具特有の冷たさではなかった。
むしろ、温かい。
まるで、駄々をこねる子供を必死に抱きしめるような、強い「守護」の意志を感じる。
(……あれ?)
ソフィアは杖から視線を外し、それを握っていたラインハルトの右腕をじっと見つめた。
魔力を視る瞳を凝らす。
(やっぱり……)
彼の右腕。その内部を走る魔力回路が、赤く腫れ上がり、悲鳴を上げていた。
酷使による炎症。
いわゆる「魔力ショート」の寸前だ。
「……殿下。申し上げにくいのですが」
「遠慮はいらない。申してみよ」
「杖は壊れていません。……問題なのは、殿下。あなたご自身です」
その言葉に、ラインハルトは目を丸くした。
後ろに控えていたギルバートも、驚きに眉を跳ねさせる。
「私、だと?」
「はい。失礼ですが、ここ数日、無茶な魔力行使を繰り返されませんでしたか? 杖を持つ右手の魔力回路が、疲弊しきっています」
図星だったのだろう。
ラインハルトの纏う空気が、ふ、と緩んだ。
「……参ったな。見抜かれたか」
彼は自嘲気味に笑い、杖を置いた。
「建国祭の式典は、例年であれば父上……皇帝陛下が行うものだ。だが今年は、私が初めてその役目を任された。失敗は許されない。……情けない話だが、大一番を前に気負っていたようだ。夜通し、儀式の予行演習を繰り返していた」
完璧に見える第一皇子でも、父の後を継ぐ重圧を感じていたのだ。
「だが、そうだとしても、魔法が発動しないのはおかしい。私の魔力はまだ残っている。多少強引にでも、起動するはずなのだが」
「いいえ。起動しないのではありません」
ソフィアは杖を優しく撫でながら、静かに告げた。
「この子が、『させない』のです」
「……なに?」
「杖が言っています。『これ以上やったら、主人の腕が壊れてしまう』と。だから、自ら光を閉ざして、強制的に殿下を休ませようとしているのです」
その言葉に、室内の時が止まったような静寂が訪れた。
ラインハルトは信じられないといった表情で、自らの相棒を見つめ直す。
「……そうか。こいつは、私を守ってくれていたのか。私はてっきり、寿命が来たのだとばかり……」
「とても忠実で、賢い杖ですね」
ソフィアは微笑んだ。
道具は言葉を持たないが、意志は持つ。
名工の作った最高級の杖なら、なおさらだ。
「では、どうすれば良いと思う? 八宝斎殿」
「修理の必要はありません。ただ、よく休んでください」
ソフィアは医師のように、淡々と処方箋を告げる。
「熱めのお湯にしっかりと浸かって、身体を温めること。そして、杖を持つ右手の凝りをほぐして、泥のように眠ってください。殿下の回路が回復すれば、杖も自然と機嫌を直してくれます」
あまりに人間的な、そして庶民的な解決法。
だが、それが今の彼には最も必要なことだった。
ラインハルトは深く息を吐き、憑き物が落ちたような顔で杖を握り直した。
そして、友に語りかけるように呟く。
「……すまなかったな。私の気負いを見抜いて、止めてくれていたとは」
皇子の謝罪に応えるように、杖のサファイアが、ポッ、と一瞬だけ柔らかな光を灯した。
だが、その光はすぐに消える。
「ふふ。『いいからしっかり休め』と?」
「そのようですね」
ラインハルトは声を上げて笑った。
それは、最初に浮かべていた食えない笑みではなく、年相応の青年の快活な笑顔だった。
「分かった。今日はもう執務を放り出して、風呂に入って寝るとしよう」
彼は席を立ち、ソフィアの前に歩み寄った。
そして、跪くような素振りで顔を近づけ、ソフィアを真っ直ぐに見据える。
「ありがとう。君のおかげで、大切な相棒を捨てずに済んだ」
「いえ、お役に立てて光栄です」
「礼を言うよ。……ソフィア・クラフト殿」
ふざけた称号ではなく、一人の職人として名を呼ばれ、ソフィアは嬉しそうにはにかんだ。
その、あどけなくも誇り高い姿を見て、ラインハルトは確信した。
(可愛らしいだけではない。……稀代の名工だ。これは、手放すには惜しいな)
まるで妹を見守るような慈愛と、一流の職人に対する敬意。
その二つが混じり合った熱い視線が、ソフィアに注がれる。
その様子を横で見ていたギルバートは、危機感を募らせていた。
ラインハルトのその目は、「気に入った玩具」を見つけた時の目であり、同時に「優秀な部下」を欲する時の目でもあったからだ。
(……まずいな。このままでは城に囲い込まれるぞ)
ギルバートの胃痛の種は、どうやら尽きそうになかった。




