第9話 皇帝の寝室で反復横跳びするぞ<下>
半刻後。
景雲は寝巻きに着替え、寝室の広い寝台に腰かけていた。
足は、桶に入った湯に浸されている。
皇帝が下女の指示で「足湯」に浸かるという、前代未聞の光景が繰り広げられていた。
景雲は憮然としながら言った。
「……何だ、これは。足元だけが熱い。不快ではないが……妙な感覚だ」
「『頭寒足熱』よ。末梢血管を拡張させて、深部体温を下げる。人間は深部体温が下がると、眠気が来るようになってるの」
凜華は、湯桶の中にすりおろした生姜の根と、粗塩を投入した。生姜のジンゲロール成分が血行を促進し、塩には汗の蒸発を防ぐ保温効果がある。
さらに凜華は、炭の入った火鉢や小鍋も持ってこさせた。
火加減に気をつけながら、水、茶葉、すり潰した酸棗仁、龍眼肉を加えて手際よく煎じ始めた。
茶を濃く煮出すと、最後に温めた牛乳を注ぐ。
「これは『酸棗仁湯』に似た『凜華式・特製安眠ミルクティー』よ。有効成分を壊さない温度で抽出したから」
景雲は鍋を覗き込みながら、憂鬱そうに言った。
「黄土色の濁った茶か……気色悪いな」
牛乳を飲む習慣がないため、一見して飲み物とは思えない。
「味は悪くないと思うよ。騙されたと思って」
さあと促され、差し出された白磁の茶碗に、恐る恐る口をつける。
苦いのかと思いきや……口当たりはまろやかでほのかに甘い。
「……甘いな。それに、不思議と落ち着く」
「龍眼肉に甘味があるから。ブドウ糖とマグネシウム、それにサポニン群の相乗効果ね」
「……」
相変わらず何を言っているのかわからないが、景雲は足湯の温もりと、胃にじんわりとしみる薬茶の味に目を細めた。
逆立っていた神経の結び目が、少しずつ解けていくようだった。
少し逡巡した後、彼は言った。
「凜華。……お前はなぜ私を怖れない?」
凜華は湯気の向こうの、景雲を見つめた。
彼の瞳には、先ほどまでの刺々しさは消え、深い孤独の影のようなものが透けて見えた。
凜華は、景雲の脈を診るために手首に触れた。
「だってあなたのことが怖くないから。病気や生理現象の前に、生まれも身分も皇帝も下女もないしね。それに……」
「それに?」
凜華はうっすらと微笑んだ。
「あなたの顔、寝不足で台無しにするには完成度が高すぎる。私の美意識が叫ぶのよ。この人の造形美を損なう隈や疲れた肌を治してあげろって。そうしたら、もっと美しいものが見れるって」
景雲は、一瞬呆気にとられたように目を見開いたが、やがてくつくつと笑い声を漏らした。
「ハ……ハハハ! 造形美、だと? 私を物のように言うな」
凜華は彼の美貌を見据えると、きっぱりと言った。
「私もよ。私はあなたの所有物にはならない。でも、あなたの『最強の薬』にはなれる。私の知識と技術には価値がある。安く見積もらないで」
「……安い、だと? 買い叩いたつもりはないが」
凜華は景雲の手を強く握った。
「だめ。私をもっと高く買って欲しい。この国における最高の設備と素材を投じて欲しい。その代わり、私はあなたに『不老不死』は無理でも、病を予防する健康的な生活を提供するし、てきめんに効く薬を作ってあげる。これは、夜の相手をさせるよりもずっと魅力的な投資よ?」
「……」
景雲は、言葉を失った。
目の前の女は、皇帝を「男」としてではなく、出資者として値踏みしている。その大胆不敵さ、その傲慢なまでの知性。
彼は思った。
……ああ、面白い。この女、やはりただ者ではない。
己の退屈な世界を根底から覆す、劇薬か?
景雲の口角が、意地悪くつり上がった。
「要するに金か。私と寝ずに金だけ寄こせと」
「うん、そう。話が早い」
凜華は素直に頷いた。
景雲はしばらく思案したが、やがて諦めたように言った。
「いいだろう。貴様に投資してやらんでもない。だが凜華、お前が薬師として役に立たなくなった時は覚悟しろ。お前をただの女に落とし、寝所でのみ仕えさせるからな」
「ええ、いいわ。私の選択と処方箋が間違っていたことなんて一度もないもの」
「さて、どうだか……。医業を生業とする者は、お前だけではないぞ。そううまくいくものか」
笑っているうちに、景雲の身体から力が抜けた。
寝台に横になった彼の瞼は重たげに、ゆっくりと閉じられていく。
「凜華……。私が寝んだあともここに。これは、命令だ……」
その言葉を最後に、皇帝は深い眠りの海へと沈んでいった。
静かな寝息が、薄暗い部屋に響き始める。
「……仕事完了。やれやれ、寝顔は天使みたいに綺麗なのにね」
凜華は、眠ってしまった景雲の頬をからかい半分、臨床的な興味半分でそっと撫でると、後片付けを開始した。
鍋類を持って部屋を出ようとすると、待っていたように李元がぬっと立ちはだかる。
「凜華殿、ここを出てはなりません」
「なんで? 皇帝は眠ってしまったよ? 帰ってもいいでしょ」
「下がるお許しは出ておりません。陛下は、あなたさまをここに留めるよう命じられました」
「は? ここにいて何するのよ」
「陛下がご起床になるまでお傍に。一度でも夜のお召しを受けた以上、あなたさまはもう侍妾の扱いなのです。主君にして夫君に尽くすのは当然のことです」
「え――っ!」
この時、彼女はまだ知らなかった。
薬師として施した「治療」が、景雲という男の情熱に火をつけてしまったことを。
そして、翌朝から後宮中に「洗濯場の下女が皇帝に召し出されて一晩中寵愛を受けた」という、尾ひれが十枚くらいついた噂が駆け巡ることになることを。




