第8話 皇帝の寝室で反復横跳びするぞ<中>
景雲はじりじりと近づいてきた。
しかし、いきなりがっつくのも帝王にふさわしからぬ振る舞いに思える。
彼は逸る心を抑えつつ、鷹揚に言った。
「さて、無礼極まりない薬師よ。今宵は、お前の柔肌をもって私を慰撫し、満足させよ」
「嫌だってば」
と、凜華は秒で断った。取り付く島もない。
「この期に及んでまだそんな世迷言を。私はお前の腕前には感心しているのだぞ。皇帝の寵愛は最上の褒美。お前にこの上ない栄誉を与えようというのだ。謹んで拝受すべきだろう」
「そんなのあなたがヤリたいだけでしょ。寵愛とかご愛顧とかご奉仕とか、そういう都合のいい言葉には騙されないから」
「なっ! ヤリたいだと? なんと品のない……。これだから生まれの卑しい者は」
なぜか景雲の方が赤面した。
なんでそっちが照れるんだ、と思いながら凜華は言った。
「とにかく私は薬師なんだから。夜のお相手はお門違い。そういうのは別にやってよ。沢山お妃がいるんでしょ」
「なんだ、他の女に妬いているのか」
「全然、ちっとも、まったく妬いてない」
はあ、と凜華は大きく溜息をついた。
景雲の感覚は、現代日本のものとは大きく乖離している。
彼は何も助平根性だけで言っているわけではない。
自分に抱かれることが、凜華の名誉になると本気で信じているのだ。
この世界観、時代観では仕方ないのかもしれないが、迷惑極まりない。
景雲は焦れて叫んだ。
「いいからこちらへ来い。おとなしく閨に入れ」
「お断りです!」
彼の手を躱そうと、凜華は右にぴょんと跳んだ。
釣られたように景雲も跳ぶ。
今度は左に跳ぶ。景雲も一緒に跳ぶ。
二人は左右にぴょんぴょんと跳ね、しばらく反復横跳びをしてしまった。
跳ねながら景雲が言った。
「お前は私が恐ろしくないのか。貴様の首なぞいつでも刎ね飛ばせるのだぞ」
「いいよ、撥ねれば? 今度は頑張って前世に転生してやるから」
「前世に転生。またわけのわからんことを……」
「でも私を殺しちゃったら、あなたはまた眠れなくなるし、ひどい頭痛に苦しむことになるけどね。それでもいいならどうぞどうぞ」
「……おのれ」
悔しそうに呟きながら、景雲は一歩前に進む。
反対に凜華は後ろに一歩下がる。
凜華が横にずれると、景雲は「はっ」と声をあげ、両手を上げて立ちはだかる。さながら、バスケットボール選手のディフェンスのような動きであった。
さらに凜華は両手のこぶしを握ると、軽快なステップを踏み始めた。
現世においてはどうでもいい情報だが、前世では高校・大学時代に社交ダンス部に所属していたのである。
踊るのは好きだったし、ラテンダンスの動きを覚えていた。
フフンフンフーンと鼻歌を歌う。
謎のリズムで前後左右、自由自在に揺れる彼女に、景雲は目を見張った。
「な、何の武術だ。拳法の使い手なのか……?」
仕方なく、凜華の流れるような動きに合わせる。
男女の甘い戯れとは程遠い、熱い攻防が繰り広げられる。
部屋の外に出た李元は、宦官の務めとして房事の行方を見守るため、窓からこっそり中の様子を伺っていた。
てっきり帳の奥に消えたのかと思いきや、何か言い争っている。
次第に二人は、ゆらゆらと前後左右に揺れ始めた。軽妙な動きで、なぜか息ぴったりである。
「なんだあれは……? 求愛の踊り……か?」
おかしな動きを繰り広げる主と凜華に目を凝らし、困惑しきりだった。
言い争いながらも、ルンバだかチャチャチャのような華麗なステップを踏む。
先に音をあげたのは景雲の方だった。
女に迫って拒まれて、おまけに適度な運動までこなしてしまい、ついに正気に戻ったのだった。
荒い息を吐きながら、彼は言った。
「私は一体……何を? もうよい……。今宵の伽は免除する」
「あ~よかった!」
なんとか逃げきったらしいことに、凜華はホッと胸を撫でおろした。
景雲はその美しい眉根を寄せ、目の前の女をきつく睨んだ。
「その代わり、今宵も私を眠らせよ。絶対にだ」
凜華はその言葉を待ってましたとばかりに、にやりと笑った。
「承知。それこそ私の仕事だもの」
景雲はしごく悔しそうに続ける。
「もし眠れなければ……貴様を生かす価値はない。その首、洗濯板の代わりに叩き割ってくれる」
「はいはい、脅しはやめてね。無駄にイキってアドレナリンが出ると、余計に眠気が遠のくから」
凜華は動じない。
彼女にとって、皇帝はあくまでも不眠症の患者なのだ。
「じゃ、早速寝るための準備をしなくちゃ」
「何をするのだ」
怪訝そうな景雲に、凜華はにっこりと微笑んだ。
「あなたの場合、まずは快適な睡眠環境を整えないとね。とりあえず、重苦しい着物を脱いでちょうだい」
景雲は言われた通り、厚い袍を脱いで身軽になった。
脱ぎながら、息をついた。
どのみち脱ぐつもりではいたが、艶やかな理由ではないことが残念だった。
「それから、お湯を。誰か、大きな桶に熱いお湯を入れて持ってきて」
景雲は手を叩いて李元を呼び、湯の支度を命じた。下がっていた宦官たちも呼び戻される。
陛下は今頃しっぽりとお楽しみ中……と思っていたため、みな困惑顔である。
凜華は生き生きとした声で彼らに言った。
「あと、調理場から『生姜』の根と粗塩、牛乳を。茶葉と乾燥させた『酸棗仁』と『龍眼肉』も持ってきて」
はあ、と李元は気の抜けた声を出した。
「生姜や塩、牛の乳はともかく、茶、酸棗仁、龍眼肉は薬です。外廷の太医の詰所か、薬師房へ行かないとないかと……」
「じゃ、取りに行って。私が行ってもいいよ」
と凜華は部屋を出て行きかけたが、
「お前は後宮からは出られん。ここにいろ」
と景雲の鋭い声が飛ぶ。
凜華のテキパキとした指示に、李元らは顔を見合わせたが、景雲の「従え」という鶴の一言で、夜の宮城を走り回るはめになった。




